第119話.守りたかった人

 


「ち、血が出てるわ。どうしよう、どうしたらいい?」


 涙声で言いながら、シャロンは出血するルイゼの頭部に布を押し当てているようだった。


「大丈夫、です。私は置いていってください。早く、逃げて……」


 冷静さを取り戻したマシューが、いつ戻ってくるかも分からないのだ。

 ルイゼはそう言ったが、シャロンは動かない。


 この状態のシャロンに、怪我を負ったルイゼまで運んでもらうなんて無理だ。

 どうにかひとりで移動するのが限界だと、本人も分かっている。だからルイゼの傍を離れようとしない。


「駄目、絶対に駄目よっ。あなたに何かあったら、ルキウス殿下に申し訳が立たないわ」


(これが、本当のカリラン様……)


 暗黒魔法で操られていたときとは、まったく印象が違う。

 本当のシャロンは、エリオットの話していた通りの人物なのだ。

 困っている誰かに、迷わず手を差し伸べられる人。優しくて、明るくて、可愛らしい女性。


(知ることができて、良かった)


 頭は割れるように痛いし、意識はもうろうとしていたが。

 自然と、ルイゼの口元には微笑みが浮かんでいた。


「エ・ラグナ公国、楽しそう、ですよね」

「……えっ……?」


 虚を衝かれたように、シャロンが黙り込む。

 その隙に、小さな声でルイゼは呟いた。


「この船の行き先です。私、外国に行ったことがなくて。そもそも、王都を出たこともほとんどなくて……だからちょっと、楽しみなんです。実は、数少ない友人も、あちらの国に、嫁いだばかりで……」

「ねぇ、あなた、馬鹿でしょう」


 ルイゼの言葉は、シャロンによって遮られた。


 声のするほうを、ぼんやりと霞む目でルイゼは見上げる。

【透明布】に隠されたその表情は見えない。でもきっとその頬を、ぽろぽろと涙が伝って流れ落ちている。


「馬鹿よ。ばかばかばか。わたしが罪悪感を持たないように、ば、っ馬鹿みたいな――優しいことばかり言ってるんでしょう。分かるんだから」

「…………」

「一生、恋なんてしないとか言ってたルキウス殿下が好きになるわけだわ。わ、わたしだって、もう好きになっちゃったわ。だから、ルイゼさんを置いて逃げたりなんかできない。わたしもこのまま、公国でもなんでも一緒に行ってやるから!」


 ルイゼの身体に、何かが覆い被さってくる。

 布越しでもよく分かる。シャロンが抱きついてきてわあわあと泣いているのだ。

 子どもみたいな彼女の背を、ゆっくりとルイゼは撫でる。シャロンは年上のはずなのに、その背中は頼りなく小さかった。


(カリラン様を、連れてはいけない……)


 ただでさえ暗黒魔法のせいで、身体が弱っているのだ。

 設備も整っていない不安定な船上の旅など、させられるわけがない。このままではシャロンは死んでしまう。


 どうにかしてシャロンに、船から下りる決意をさせなければならない。

 そう思ったときルイゼの脳裏に閃いたのは、いつも怒ったような顔つきをしている彼女のことで。


「カリラン様が好きなのは、エニマ様だったのですね」


 ぽつりと呟いた瞬間だった。

 はっとシャロンが息を呑んだ気配がした。


「……エリちゃん、は、わ、わたしの……世界でいちばん大切な子なの」


 震える声で、教えてくれる。

 その言葉は数時間前に、エリオットが呟いた言葉と同じだった。


「わたしのお願いを聞いて、ルイゼさんを不当に扱っていたと知られたら、エリちゃんの居場所を奪ってしまう……あんなに頑張って、必死にお勉強をして、魔法省に入ったのに……たくさんの人に、認められたのに……」

「だからエニマ様を、暗黒魔法で操ったことにしたんですね」


 返事はなかったが、それは肯定を意味していた。


 魔道具が壊れ、暗黒魔法の効果が切れたあと、シャロンは恐ろしくて仕方なかったのだろう。

 なぜなら、シャロン自身はマシューの魔法で操られていたが、エリオットはそうではなかったから。

 友人であるシャロンの願いを不当に叶えていたとなれば、エリオットの立場は非常に危ういものになる。


 ――しかしエリオットが、シャロンの暗黒魔法で操られていたとしたら。

 それならば、エリオットの立場はそう悪いものにはならないはずだとシャロンは思ったのだろう。


 だからルキウスに向かって、自分が暗黒魔法を使った張本人だと告げた。

 その嘘によって大きな混乱がもたらされたわけだが、ルイゼはシャロンを責めようとは思えなかった。


(必死に、カリラン様はエニマ様を守ろうとしていただけ……)


 だからこそ、シャロンはどうしても許せなかったのだ。

 自分ではなく、エリオットを窮地に立たせたマシューのことを。


(だから彼を殺すために、この船に乗った)


 公国行きの船に乗るのは、元々マシューの予定通りだったのだろう。

 刃物を隠し持ったシャロンは従っている振りをして、マシューを刺した。

 だが仕留めることはできずに逃げた。そこにルイゼが現れたのだ。


 しかし、シャロンは誤解している。

 ルイゼは弱々しく息を吐きながらも、必死にそのことを伝えた。


「カリラン様。エニマ様は一度も、私のことを虐げたりなどしていません」

「え……?」

「早く、船を下りて……エニマ様と、話してください。それで、全て分かります、から」


 そうだ。

 きっと、重なっていたのはいくつもの誤解なのだ。


 だが、それを解すだけの時間が足りなかった。

 思いやりと気遣い故に、シャロンもエリオットも、お互いの本音を打ち明けることができなかったのだ。


 今のままでは、エリオットはシャロンに操られたと思い込んだまま。

 そしてシャロンも、エリオットの道を踏み外させたと後悔したままになってしまう。


(そんなの、悲しすぎるもの……)


「このままお別れ、なんて……駄目です。カリラン様は、エニマ様のところに。【録音機】を持って、早く」

「…………っ」


 しゃくり声を上げながらも、シャロンが腰を上げた。

 ルイゼの白衣のポケットを懸命に探り、【録音機】を見つけだす。

 その拍子に、何かごとりと重い物を入れられた気がしたが、それがなんなのかはルイゼには分からなかった。


「ごめんなさい。わたし、全てが終わったら死んでお詫びする。あなたとルキウス殿下に」

「それなら、ひとつ、だけ」

「何? なんでも言って」

「……お友達になってくれたら、嬉しいです」


 シャロンの気配が沈黙した。

 ちょっぴり恥ずかしくなりつつ、ルイゼは小声で付け足す。


「友人、少ないんです……私」

「――ルイゼさんって、天然ね?」


 思いがけない言葉に、きょとんとするルイゼに。

 頭上からくすくすと、可愛らしい笑い声が聞こえた。


「今、絶対に、それどころじゃないもの。なのに……ふふっ。この局面で、お友達を増やしにかかるって……うふふ。お、おかしい……!」


(笑われてる……!)


 でも、それがなんとなく嬉しい。

 初めてシャロンの自然な笑顔を、見られたような気がしたからだ。


(表情は、見えないけれど)


 そう思ったときだった。

 頬を、小さな手が撫でてくれた。発熱しているのか、熱い手だった。



「大丈夫よ。友達あなただけは、絶対に死なせないわ」



 最後にそう言い残して。


 ずり、ずり、と引き摺るような音は、少しずつ離れていく。

 本当ならば船員か船客の誰かに、救助を求めさせるべきだったのかもしれない。

 しかしまだマシューは近くに居るかもしれない。おかしなことばかり口走るマシューに、シャロンを見つけさせるわけにはいかなかった。


(最適解なのかは、分からないけれど……)


 遠くからぼうっと汽笛の音が聞こえる。

 出航のときが近いのだ。どうかシャロンが間に合うようにと、ルイゼは祈るしかない。


(ルキウス様…………)


 瞼の裏側に、ルキウスの姿が浮かんだ。

 輝かしい銀髪の合間から覗く灰簾石タンザナイトの瞳が、ルイゼを見つめている。

 彼は呆れているだろうか。もしかすると、怒っているのかもしれない。


 結局ルキウスのように、上手くはできなかった。

 円満な解決にはほど遠い。それが申し訳なくて、歯痒い。マシューも取り逃してしまったのだ。

 だけど、後悔はしていない。


(ルキウス様なら)


 彼ならば、きっとすぐにシャロンを保護してくれる。

 逃げだしたマシューを見つけだしてくれる。たくさんの人を苦しめ、傷つけたマシューのことを、捕らえてくれるはずだ。


 そう信じているから、恐怖はない。

 だからただ、遠くに立つルキウスに伝えたかった。



(私。必ず、戻りますから。あなたのところに――)



 そこで、ルイゼの意識は途切れた。



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