84.酒池肉林
「うゅあ~~……」
アンテが赤ら顔で、ぐでーっと横になりながら妙な声を上げた。
「うぅ~……我ぇもぉ、ナデナデするぅ~のぉ~!」
そして、ソファに寝転がる俺の腹に、ぐりぐりと頭を擦り付けて甘えてくる。
あの、傲岸不遜な禁忌の魔神が! まるで幼女みたいに頬を膨らませて!
「はいはい……」
さっきから全然勉強に身が入らねえ。俺は本を傍らに置き、アンテの頭をナデナデしてやった。
今は人化してるので、少し汗ばんだような熱気が感じられる……体温めっちゃ高えなコイツ……
「あっひゃひゃっひゃひゃ、文字がブレてるぅぅ~~!」
一方、テーブルでは、空になった酒瓶を前に、赤ら顔のソフィアが本を読みながら爆笑していた。
当然ながら、彼女も人化している。グイッとカップの蒸留酒を口に流し込み、へべれけ状態で本を覗き込む。
「うひぇ……ひぇひぇひぇ! あっ、このページはぁ、……さっきもう、読んでたんでしたぁ! あっひゃっひゃっひゃっひゃ!!」
笑いすぎで、読書さえままならない。
あの、好奇心の塊の知識の悪魔が! さっきから1ページも進んでいない!
「ぇぇ……」
ソフィアの対面で文字の書き取りをしていたレイラが、顔を引きつらせて椅子ごと身を引いている。
ふと、俺とレイラの目が合った。
「…………」
なんとかしてください……とばかりに困り顔のレイラに、俺はお手上げのポーズを取ってみせた。
「ちゃんとぉ、我のこと見なきゃ
と、熱っぽいアンテの手が、ガシッと俺の顔を掴んだ。
「もっとぉ、ナデナデするのぉ~……!」
駄々っ子みたいにイヤイヤしながら絡みついてくるアンテ。その息はアホみたいに酒臭かった。
「ちゃんと見てるよ……」
いつも世話になってるからなァ……と、俺は介護でもするような気分で、アンテの華奢な身体を抱きしめてナデナデを継続する。
なんでまた、こんなことになっちまったのか……
話は、数時間前に遡る――
†††
アノイトス族のアホ。
角が折れていい感じに魔力が弱まってたので、ついでに転置呪で鼻血もお返ししてからサヨナラしたが、それで一件落着とはならなかった。
『私が知る限り、初めてですね……』
帰り道、ソフィアは顔を引きつらせていた。
喧嘩で角をへし折ったのは前代未聞らしい。しかも5歳児が、素手で。
……5歳児に喧嘩売ってきた奴も前代未聞らしいけど。前代未聞の特盛かよ。
角は魔族にとって人格と尊厳の証。魔王国では死刑に次ぐ重罰に『角折の刑』なんてのもあるらしいし、決闘でもない喧嘩沙汰でへし折るのは、人間で言えば目やタマを潰したようなもんだ。
目撃者も多かっただけに、方々に波紋を呼んだそうだ。ただ、意外にも、やりすぎだと俺を非難したり、メガロスに同情する声は少なかった。
『同格とはいえ成人前、授爵したばかりの年下に先制攻撃しておきながら、このザマだもの。末代までの笑い者だわ』
俺の報告を受けたプラティは、そりゃあもういい顔で笑っていた。
『それにしても鮮烈な社交界デビューを決めたわね、ジルバギアス』
しゃ、社交界……
俺が知ってる社交界と違う……!
『素手で角を、ってのは流石にわたしも驚かされたけど……これでもう底抜けの馬鹿か怖いもの知らずでもない限り、あなたにちょっかいをかけてこないはずよ』
そんな感じで、プラティからはえらいえらいされた。
そして、アノイトス族からの抗議が来ることも想定されたので、対策も考える。
『――ちょっと小突いただけで、ポキッ! でしたからね。どうせ治してもまたすぐ折れるから無駄、って言ってやりましょう』
『それはいいわね! 傑作だわ』
プラティは爆笑し、俺の思いつきがそのまま正式な回答として採用された。角だけじゃなくて左腕も折れてるし、何なら鼻もどうかしてるんだけどなアイツ。角は放置で、他の治療順もめっちゃ後回しにされそうだ。哀れ……
『あなたが強い子で本当に良かったわ、ジルバギアス。今日はゆっくりなさい』
俺をよしよししてから、プラティは上機嫌で去っていった。
魔族の文化というか風潮というか、ちょっと面白い特徴だが、戦闘を終えたあとはのんびり過ごすモノらしい。普段は情け容赦なくキッツい訓練を課してくるくせに、こういうときは妙に寛容だ……。
っていうか、立派な『戦闘』としてカウントされたわけだな、あの喧嘩も。
まああの場でどれだけの誇りが、風聞が、社会的地位が、変動したかを考えれば、妥当な判断か。
『それじゃあゆっくりするかのぅ!』
と、アンテが俺から飛び出てきた。
『お前いつもゆっくりしてんじゃん』
『いーや、今回は特別じゃ! そろそろ飯時じゃろ?』
ヒュンッと人化して、アンテはニヤリと笑った。
『せっかくじゃ! お主の華々しい社交界デビューを祝い、乾杯しようではないか! 酒を持て酒を!!』
そうして――アンテは、俺の
食後にレイラの勉強を見始めていたソフィアも、
――まだ、最初は良かったんだ。
「んー、この葡萄酒とやらは甘くて美味しいの。しかしこの、蒸留酒やら麦酒やらは美味かと問われれば、わからんのー」
多種多様な酒をちまちま利き酒しながら、アンテも理性を保っていた。
「む……何やら少し暑くなってきたやもしれん。これが暑さというものか……」
アンテは普段から際どいパーティードレスみたいな格好をしているが、ただでさえ隙間だらけの胸元をさらにパタパタさせ、――それでもこの時点では、赤ら顔くらいのもんだった。
「あ~……頭がポヤポヤ……してきたのぅ~」
人化アンテは酒に弱かったらしく、ワイン3杯目くらいで目がとろんとし始めた。今思えば、このときに止めておけばよかったんだが、俺は読書中だったので……
え、俺? もちろん呑んでないよ。だって5歳だし。
身体は育ってるけど、それにしてもまだ子どもの範疇だ。魔族の常識的にも普通にダメだよ。そもそも前世からあんまり呑む習慣なかったしな俺。
ともあれ、俺が本に没頭していると、アンテがソファに飛び込んできた。
「んぁ~~~~……」
腑抜けきった妙な声を上げつつ、猫のように丸まる。
「どうしたお前」
「……我も」
「え?」
「我もぉ、ナデナデしてぇ~!」
どうしたお前!? と部屋の全員が顔を見合わせたもんだ。
「なんで!?」
「いっつもぉ、駄犬と猫ばっかりぃ、ズルぅい~~~!」
俺に馬乗りになって駄々をこね始めるアンテ。「お前も撫でてやろうか」って前に冗談めかして言ったら、「5億年早いわ小童め!」とか言ってたくせに!!
「おうおう、わかったよ」
まさかこういう絡み方をしてくるとは。あとでからかってやろう、くらいに、俺も面白がっていた。
「あのアンテ様が、ここまで精神の変調をきたすとは……」
興味深いですね……とソフィアがここで参戦。
レイラの勉強を見つつ、グラスで蒸留酒を計量して、肉体への影響を調べるという
「む……ケホッ、気化したアルコールが肺に流れ込むと、呼吸さえままならないものなんですね」
「ほうほう、味はこのような……」
「……? 少し視界が揺れているような感覚……これが酩酊感というものですか」
感心しつつ盃を重ね――
「ン……ふふっ、なんか楽しくなってきましたね……んふひっ……」
「……アッ、酔っ払ってます! 私いま、酔っ払ってまーす!! あははっ」
「あっ、そーだ! 本も読んでみましょ!! ……あれ? 本が出せなーい、あっ、そうか今人間なんでした! あっはっはっはははひゃ!」
うん……ここで止めておくべき……だったんだろうな……
俺も面白がって見てたもんだからさ……
そこからふたりとも、段々エスカレートしていき――
「うゃ~~~~~……」
とろんとした目で、俺にほっぺたをグリグリされながらよだれを垂らすアンテ。時折首を巡らせて、俺の首や腕にかじりついてくる。
「うぃひっひひひ……あはっ、ひゃっひゃっひゃ、こっこの挿絵、こんな馬鹿みたいな顔っしてましたっけぇ? えっひぇっひぇひぇ!」
何の変哲もない挿絵に爆笑し、バンバンと机を叩くソフィア。
はい。現在に至る……。
「くぅ~~~ん」
リリアナがアンテを見ながら、ちょっと困った顔をしている。俺の膝の上という定位置を取られちゃったからな。
「リリアナ……こいつらの酔い、どうにかできないか……?」
「わう?」
首を傾げてる。
うん……これが、二日酔いで苦しんでるとかなら話は別なんだろうが、ただ管を巻いてるだけだし、『治療すべき状態』とまでは認識できないようだ。ソフィアに至ってはひたすら楽しそうなだけだしな……
「……そろそろ、ふたりとも、人化を解除したらどうかと思うんだが」
人化さえ解除すればシラフに戻るだろうとの判断。
いい加減見るに堪えない状況になりつつある。アンテにかじられるのも地味に痛えし、なんかこう、雰囲気が怪しくなってきた。このままだと俺、喰われそう……
「いやじゃぁ~~! このままぁでぇ、いるのぉ~~!!」
「えぇぇ~~~?? ……まあ、それもぉアリかもしれませんねぇ!! えいっ! ……あれ、どうやって解除するんでしたっけ?」
アンテは駄々をこねるし、ソフィアに至っては、魔法の使い方を忘れていた。
忘れていたのだ!!
あの、知識の悪魔が!! 魔法の使い方を!!
「あひゃひゃぁ! わかんなくなっちゃいましたぁ! えひぇひぇひぇ!!」
本人は爆笑していたが、俺はある意味、恐怖したよ。人化の魔法は使い方次第で、悪魔の権能さえ上書きされてしまうヤベー魔法だということが判明した瞬間だった。
というか、こいつらしばらくこのままかよ……!!
「んにゃァ~! 我だけぇ、見ててぇ!!」
俺が途方に暮れていると、アンテが怒り出した。
「大丈夫だって、ちゃんと見てるよ……」
「ほんとぉ~? ……お主は……我だけのモノじゃ~……」
軟体動物みたいに絡みついてくるアンテ。俺の耳にかじりつきながら、「ずっと、ずっと……我だけのモノじゃ……」などと囁きかけてくる。
「くぅ~~ん……」
普段なら「わたしもわたしも~」と近づいてくるリリアナだが、何やら近寄りがたいものを感じているらしく、困ったように鳴いている。
「えひぇひぇひぇ! おかわりぃ! あーっ、レイラ! どうですかぁ~!! 勉強、はかどってますかぁ~ー!?」
「ひぇっ。はっ、はいぃ……はかどってますぅぅ……!!」
ぜってー嘘だぞ!!
真っ赤なソフィアに肩を組まれてビビり散らしているレイラが、助けを求めるように俺を見てきたが――
「我の……我のぉ……我のぉぉ……」
俺はアンテを御するので手一杯だ……!!
すまん、レイラ……!! お前を必ず幸せにすると誓ったけど……!!
今はムリ……!!!!
――結局、ソフィアが酔いつぶれ、アンテが眠りにつくまで、それから2時間ほどかかった。
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