自己紹介編
第1話
目を開く。
その先は白い天井。
湿気の高い部屋の中には、アルコールの匂いが充満している。
そこで彼、長峡仁衛は目覚めるのだった。
「……あ、れ?」
体を起こす。
視界が何処かおかしい。
片目を開いているが、もう片方は何かに遮られている。
だから手を目に当てる。柔らかな感触。それはどうやら包帯であるらしい。
「起きたか?長峡」
シャリシャリと音を立てる隣。
何かを切っている音に目を向けると、其処には少女が居た。
黒髪を腰元まで伸ばして頭には犬耳が生えている。
良く見ればその犬耳はカチューシャだった。
服装は黒を強調させたゴスロリファッション。
その手にはナイフとリンゴが握られていて、皮を切っていた。
「……キミ、は?」
頭を抑えながら、長峡仁衛は言う。
その言葉に呆れた様子で答える少女。
「おいおい、ボクの事を忘れたのかよ」
その口ぶりからして友人である事が分かる。
だが、長峡仁衛の頭の中は、ゴチャゴチャとしていて、何かを思い出そうとすれば、白い靄が掛かって思い出す事が出来ない。
「分からない……頭が痛くて……」
ズキズキと。
長峡は記憶を思い出そうとすると頭痛が発生する。
それを見た少女は何やら信じて無さそうな口調で。
「なんだよその様子、まるで記憶消失みたいに」
「記憶喪失じゃないの?」
喪失と消失。
失うと意味ならばどちらも正解だ。
しかし一般的に知られているのは記憶喪失の方だろう。
「ん?ツッコミ出来てるなら大丈夫でしょ」
そう言って変わらずリンゴを切る。
もうじき、リンゴが剥けられそうだった。
「いや、本当に記憶が……」
先程のツッコミは肉体に染み付いていたかの様な行動。
だから記憶を失ったフリでは断じてなかった。
彼の渋い表情を見て、ようやく彼女も心配そうな表情を浮かべる。
「……本当か?ボクの事、分かるか?」
「いや、分からない……」
再三と彼女に訴える。
何も分からない。
彼女の事も、此処がどこなのかも、自分が何者なのかも。
「じゃあ自分の事は?」
「……何も、分からない」
本当に記憶喪失なのだ。
それを理解した彼女は椅子の背凭れに体重を乗せて溜息を吐く。
「おいおい。長峡ぉー。お前さぁ……まあ、いいか」
仕方が無い。
そう思って彼女は席を立つ。
その手に握るリンゴを柔らかで瑞々しい、リップクリームを引いた自らの唇に持ってきて。
「はむ、むしゃっ……取り合えず先生呼んでくるからな」
病人に対するお見舞いじゃなかったのか?
そう長峡仁衛は言いたかったがその言葉を飲み込んで。
「あ、あぁ……」
頷く他なかった。
数分の間。沈黙が続き。
医師が部屋に入って来た。
白衣の下は病衣を着込んだ白髪で頭に迷彩柄のバンダナと眼帯を付ける六十代程の男性だ。
長峡仁衛の頭や体に手を当てて目を瞑る。
それだけで何が見えるのか、しかしその男性ははっきりとした口調で告げる。
「……記憶喪失だな」
そしてその診断は確かなものなのだろう。
其処で初めて少女が心配する素振りを見せつけた。
「本当ですか先生、じゃあ長峡、何も分からないんですか?」
あぁ、と頷く男性。
何故そうなったのかを簡単に説明する。
「
しかしその内容は記憶を失った長峡仁衛にとっては理解し難い内容だった。
一般人が専門職の話を聞いている様なものだろう。
「えと、一体、何の話を?」
「まあ、
診断して男性はその場から立ち去った。
残るのは少女と長峡仁衛のみ。
椅子に座って足をプラプラさせながら溜息を吐く少女。
「はぁ……マージか、世話が焼けるなぁ、長峡ぉー」
「……すいません」
謝る長峡仁衛に、少女は目を細めた。
友人は何も悪くないのに、そんな悲しい表情を浮かべるのは見てて嫌だったから。
「……謝んなよ。ボクたち友達だ……ん?いや、待てよ……」
しかし、それを上回る程の悪戯心が瞬間に芽生えだしてしまった。
こうなれば最早試しておかなければならない程に。
にひり、と口元を薄く延ばして笑みを浮かべる。
それを見た長峡仁衛は首を傾げてその表情の意味を伺う。
「なにか……?」
「んふふ、そうだ。ボクとお前は恋人同士なんだからさ」
満面の笑みを浮かべて少女は言う。
その驚愕の事実に長峡仁衛は驚いた。
「えぇ!?」
「こーんな可愛い恋人を忘れるなんて酷い奴だな、お前も」
ニマニマとしながら少女が顔を近づける。
口の中から垣間見える八重歯に不覚にもドキリとする長峡仁衛。
狼狽えながら長峡仁衛は顔を赤く染めて言う。
「す、すいません、え、でも、マジか……こんな可愛い子が俺の恋人?」
「く、ふふ…」
悪戯っ子は口元を隠して笑い声を押し殺す。
何が可笑しいのか分からないが、深い関係ならば知っている事もあるだろう。
そう思った長峡仁衛は彼女に教えて貰うことにした。
「えっと、すいません、あの、名前は?」
「ボク?しょうがない奴だなぁ。ボクは
そして名前を聞いて、今度は忘れない様に口に出して反復させる。
こんな可愛い彼女を泣かせてはならないと強く心に刻んで。
「じゃあ、俺の名前は?」
「お前?
そこでようやく長峡仁衛は自分のフルネームを知る事になるのだが。
後付けされた情報に耳を疑ってしまう。
「結婚前提!?と言うか婿養子ですか!?」
「んなワケないじゃん。お前がボクのお嫁さんになるんだよ」
なんとなく。
噛み合わない二人。
長峡仁衛は永犬丸詩游の言葉の意味を模索する。
「え?でも俺、男……」
そんな唖然とした表情で告げると。
遂に永犬丸詩游はぷくくと押し殺した笑みを吐き出す。
「ぷ、はは、っ!そうだよ。俺も男だよ、ははは、騙されたなー長峡ー!」
そう。
永犬丸詩游は女性では無かった。
彼女、いや彼は、女装をしているだけの男性だった。
その事実を告げられて、長峡仁衛は驚愕していた。
「え、えぇ!?男、て、どう見ても」
どこからどう見ても。
彼の様は女性だ。
その骨格、容姿、声帯すらも。
中性とは言い難く、女性としての質が高かった。
「そういう趣味だよ長峡。はあ、面白いなぁお前は、最初に会った時と同じリアクションでさー……ん?長峡?」
別段彼が男性が好きだからそんな恰好をしているワケではない。
ただ可愛い恰好をするのが好きなだけ。恋愛感情はキチンと女性である。
「性別の差……いや、そんなのは関係ない……俺を愛してくれる人……なら俺が責任を取るべき……男同士でも……」
しかし、そんな趣味の話など聞く耳持たず。
ブツブツと長峡仁衛は呟いている。
鬼気迫る表情に永犬丸詩游は少しだけ狼狽えた。
「な?なあ、長峡ー?冗談、冗談だって、なあ、長峡」
そして長峡仁衛は永犬丸詩游に顔を向けてその両肩をがっしりと掴んだ。
ふぇ、と思わず声が漏れてしまい声を失う永犬丸詩游。
真剣な眼差しに、遮る言葉を放つ事が出来ない。
「男でも良い、こんな記憶の無い俺でも、キミが良ければ、俺が幸せにして見せるっ!」
その本気な口調に一瞬永犬丸詩游は心を打たれた。
そしてそれはありえないと即座に首を横に振って否定する。
「ちょ、ながっ、長峡ッ!本気にするから、やめろって!まったく……冗談って言ってるだろっ!!」
そう言って長峡に向けて永犬丸詩游のデコピンが額にさく裂する。
痛みを受けた長峡仁衛は首を退け、涙目を浮かべながら永犬丸詩游の顔を見た。
「え?冗談?」
「そうだよ。俺と長峡は友達。親友以上それ以下。やましい関係じゃないっての…」
そう言って顔を赤くする永犬丸詩游。
未だに真剣な表情をしていた長峡仁衛の顔が頭から離れず、心臓が高鳴っていた。
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