黒獅子公爵の悩める令嬢
碧天
序章
ジョルト・R・キャセラックは今、非常に焦っていた。
後に、冷静沈着に加え大小様々な問題が多々起きようとも、その微笑んだ顔を崩すことなく、鋭利な決断を振るう宰相になる男だとしてもだ。
ジョルトの父は現在政法官の任にあり、今日は父が届ける予定の書類を代わりに王宮に届けに来た。
そして現在、外聞もなく王宮を走り回ることになっている。
それというのも、一緒に連れて来た娘がいないくなってしまったのだ。
決して乳母や侍女達が悪いわけではなく、娘、アリアンナの好奇心が大人の包囲網に勝ったのだと分かってはいるのが……。
キャセラック邸も決して小さい屋敷ではないが、王宮と比べたら天と地程の差があり、初めて来た場所で一人心細くなっているだろうと思うと、一刻も早く愛娘を見つけてやらねばと思う。
が、如何せん子どもの行くところだ。
予想した個所を探しているが、先刻から空振り続きで、普段机仕事が多いとはいえ鍛えていないわけではないジョルトでも息が上がり、額には薄っすら汗も滲んでいる。
連れて来たキャセラック家の供の者達も、今頃王宮のそこかしこでアリアンナの名を呼び続けているはずである。
最後の望みを賭けて、王城内庭園の中心にある噴水の所へ急ぐ。
はぐれた所からは随分離れており、五歳の足で行くには大変だが、小川を模したせせらぎと噴水場は繋がっているので、もしやと思ったわけだ。
噴水の周りに造作してある生け垣を探していると、話し声が聞こえて来た。
近くに大人が佇んでいるのも見て取れる。
その方へ足を向ければ、自分に気付いた護衛官らしき者が手で制しつつ、行く手を阻まれた。
「何か御用ですか?」
声を掛けて来たのは、ヒックス卿だ。
彼が護衛に当たる人物は一人しかいないので、当然茂みの先にいる人物が誰か分かる。
しかし、自分の探す娘ではないので、挨拶をして手掛かりだけでもと口を開こうとすると、聞き覚えのある声に言葉が詰まる。
「……ご挨拶が遅れました。私はジョルト・キャセラック。……娘を探しております」
私の挨拶を聞くと、ヒックス卿は少々目を瞠り、厳しい顔を崩すと、口元に指をやり声を出さぬよう指示される。
(……何だ?)
訳の分からぬまま音を立てずにヒックス卿についていくと、子ども同士の話し声が聞こえてくる。
「お腹が空いているのに何も食べられないのはダメですわ」
「そうだ。だから争い事をするのではなく、皆がより良く日々の生活を送れる国にしなければならないんだ」
(何と!)
生け垣からそっと顔を出して声の主たちを覗き見れば、一人は愛娘、もう一人は王太子のデルヴォーク殿下だった。
いるのは殿下に間違いないと思っていたが、驚いたのは九歳のデルヴォークが五歳のアリアンナに帝王学を易しく説明していたからだ。
最近アリアンナには家庭教師を付けたばかりだが、まだまだ勉強には程遠い時間だと報告を受けていただけに、遥かに難しいであろう内容をこんなにも楽しく学んでいるとは、探し当てた安心感からかどっと疲れた様な気になる。
「アンナ」
と声を掛けると、弾かれた様に二人共こちらを向く。
「お父様!」
笑顔で駆け寄って来る娘を抱き上げると、頬にキスを贈る。
くすぐったそうに笑い声を上げる娘の重みをそのままに、デルヴォークに向き直る。
「初めてお目にかかります。ジョルト・キャセラックにございます。探しておりました娘の面倒を見て頂きありがとうございます」
挨拶をして、腰を折る。
「キャセラックの者だったか。見つかって良かった」
デルヴォークは柔らかそうな黒髪をふわりと揺らして控えめに微笑む。
「もしや殿下のお時間の邪魔をしてしまったのでは?」
「いや。アリーはとても良い話相手だった」
ちゃんと見るのも初めてなら、話すことも初めてだが、この歳にして他人に説明が出来るほど帝王学を理解している聡明さといい、話す物腰も穏やかで好感が持てる王子だ。
「父様、アリーはとてもいい子でしたのよ」
父の腕に抱かれたまま、えへんと小さい胸を反らす娘である。
(……ふむ)
「お邪魔でなかったのなら良かった。……時に殿下。私は娘がいなくなって大変困っていたところ殿下に助けて頂きました。是非お礼を差し上げたいのですが」
「礼…?」
突然の申し出にデルヴォークは考える様な顔をしたが、すぐに笑顔に戻る。
「気にせずともよい」
「いいえ殿下、きっとお役に立てるようなものを考えますので」
デルヴォークが断りを入れてもキャセラックは笑顔でなおも言う。
それならば、と受け取る返事を返す。
受託の返事を貰うとジョルトは退席の挨拶をする。
父の腕の中で、デルヴォークとのやり取りを聞いていたアリアンナも、自分の父が今何を決意したか勿論分かるはずもなく、下へ下ろされる。
父から促され覚えたての淑女の礼を披露し、無邪気にデルヴォークへ別れの挨拶をする。
「今日は大変楽しく学べました。ごきげんよう」
「アンナ、殿下にその挨拶は少し良くないね」
「よい。私も楽しかったぞ、アリー」
親の心配にものともせず、二人で笑い合い挨拶を交わす姿は、王太子とはいえ幼い二人には関係ない様だった。
───────十二年後
「……ふぅ」
やっと会場内から抜け出すことに成功した一際輝く可憐な娘が、バルコニーのカーテンの陰に納まった。
逃げ込んだ娘は、蜂蜜色の淡い金髪に新緑を思わせる美しい瞳を持ち、若娘達が着飾る中でも最上級の豪華な衣装を身に纏っていてもこの娘の初々しい瑞々しさは損なわれることなくある。
その年毎に選ばれた貴族の娘達がお披露目をして、この日から夜会など夜の貴族のお付き合いの場に参加することが出来るようになるのが今夜の舞踏会だ。
嘘をつくことになってしまったが、これ以上両親について挨拶を重ねていたら、身が持たない。
というより、相手に覚えが良くなってしまう。
なぜなら、年頃の若い娘達にとっては夜会や舞踏会は格好の結婚相手を探す場であり、各々のお洒落を競う社交、流行の場であるからだ。
家柄上、夜会を拒否し続けるわけにいかないから、せめて相手の記憶に残らないようにしなければ家柄だけで釣れてしまう者達が後を絶たないであろと想像がつく。
自分としてはまだまだ結婚など考えられるはずもなく、出来れば一生独身でもいいから魔力の勉強をしたいのだ。
と、背後で感嘆の声が上がるのが聞こえる。
カーテンにくるまれたままそろりと会場の中を伺えば、黒髪の人々が見える。
どうやら国王一家の登場らしかった。
顔を引っ込め、もう一度息を吐く。
(……王陛下達へのご挨拶にいないのは、さすがにやり過ぎだったかしら……)
仮病に早くなり過ぎた心配をするが、多分娘不在で両親は挨拶をしていることだろう。
けれど、何事にも最初が肝心だ。
結婚適齢期を無事過ぎるまでは気を抜いてはならない。
(等が立つまでは、しっかり壁の花に徹しないと)
良心の呵責に耐えつつ、決意を新たに両こぶしを握る。
もう暫く経ったら、仮病が悪化した為帰ることを両親へ言付けし、家への馬車の手配をしなくてはならない。
今の内に人目に付かぬよう退路を確認せねば、今夜の安眠はない。
娘はカーテンにくるまれたまま、もう一度会場内を見渡す。
カーテンに顔だけ出しているその姿を誰が想像するだろう。
家柄は国内屈指の侯爵家、現タルギス王国宰相の愛娘であると。
この夜以来、使えるだけの仮病を使って夜会を欠席し、仕方なしに出席しても壁の花に徹した結果後のちに「名門キャセラックの深窓の薔薇」と本人にとっては大変不名誉な愛称で呼ばれることになるのだが……
彼女の耳まで届くにはまだ時が掛かるのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます