夢見るもの
◆
私は目を覚ますと、いつも同じことを繰り返す。
「シンウチ・カリン」
そう自分の名前を口にするのだ。
はっきりと、明瞭に。
そんなことをしても、これが夢か現実かは、すぐに判然としない。ただ、自分の未来を夢に見るより他人の夢を見ている方が多いので、シンウチ・カリンという名前を口にする自分、というシチュエーションで、確かに今、世界を認識しているのがシンウチ・カリンで、私という精神もまたシンウチ・カリンである、という二つからなる整合性が私を私たらしめる。
なんて複雑で、しかし頼りない認識なのやら。
ベッドから起き上がり、眠っている間に見たいくつかの夢を確認する。
記憶を辿り、手がかりになりそうなこと、重要そうなことはすぐに机の上のメモに走り書きをする。
最近は新しい仲間が加わって、この作業もそれほど意味を持たなくなった。
私が見たものを取り出せる能力者。
人間の進歩には、着実な側面と一足飛びな側面がある。
メモ四枚にそれぞれの場面の要点をまとめていく間、夢で見た情景が鮮明になっていくのが、普通の夢とは異なる。
起きるかもしれない未来は、こうしている間にも、現実になる座標まで着実に近づいてきているのだ。
私が最初に夢を見たのは、六歳の時だ。ちょっとしたニュースになったが、幼稚園の卒園式で、その敷地の縁を囲むフェンスに車が飛び込む事件があった。
その光景を私は夢で見た。
もちろん、最初はそれが現実になるとは思わない。怖い夢だと思って目が覚めたが、泣き出しもせず、私はただ隣の布団で眠る母を見たと記憶している。
だから、本当にフェンスを、本物の、夢で見た通りの黒い乗用車が押し倒して飛び込んできた時、私は半分驚き、残り半分は納得した。
それから一年ほどの間に、私は徐々に未来を夢に見ることが増え、母にもその話をすることになる。
私の言っていることが次々と現実になるので、母親は怖くなったのだろう、私を精神科医に診察させた。
普通の精神科医の手に負えるものではないのは今ならわかっても、当時では無理からぬことである。
精神科医には保留するような態度を取られ、母親は常に私を畏れを込めた視線で見るようになった。
父親のことはそれほど記憶にない。仕事をしていた。それだけしかない。
八歳の時、私はトウギという名前の奇妙な科学者に引き合わされた。
トウギ博士と呼ばれることが多いその男性は、私の話を聞くと「夢に見たことを記録しなさい」とまず言った。私が見る未来では、何かしらの悲劇がそこには含まれるので、私は最初、メモを書くことは嫌だと言った。
しかしトウギ博士ははっきりとした声で言いながら、まっすぐな視線で私を見据えた。
「きみが見ている未来を、変えることができる。一人では無理でも、仲間がいる。でもそれは、きみが夢の内容を伝えてくれたらだ」
その声、視線、面差しに込められている真剣さ、切迫した感情に、私は少し考え、頷いた。
あの時から、私は毎朝、メモに夢の内容を書くようになった。
どこの国、なんという街、なんという名前の人間、何月何日の何時か。
夢は年齢を重ねるごとに鮮明になり、そして徐々に私は、私自身が誰なのか、いつを生きているのか、どこで生きているのか、わからなくなっていった。
夢と現実の狭間の、虚空の中に私はいる。
リアルすぎるほどリアルな夢。その中にいる人たちは、息遣いも、熱も、全てがリアルそのものと変わらない、現実そのもので私へぶつかってくる。
私自身がナイフで刺され、銃で撃たれ、殴りつけられる。
未来のどこかで私は死んで、現実へ戻ると、今度は私が生きているのか、死んでいないのか、何が現実かを確かめる必要があるのだった。
どこまでが夢で、しかしどこからが夢なのだろう?
もう長い付き合いだけど、難儀な能力だ。
五枚目のメモに記録を書いて、私は背筋を伸ばし、部屋に併設の洗面所で顔を洗い、長い髪の毛をとかした。直毛で癖がつくことがないのを、我らがボスであるカナイさんなどは褒めてくれるけど、社会的にどうなのかはあまり知らない。
歯を磨いて部屋へ戻ると、背広の上に白衣を着ている男性、ミツバさんが食事の配膳をしている。
「おはよう、ミツバさん」
「おはようございます、カリンさん」
彼はいつも丁寧な言葉を使うけど、それは私の能力に畏怖に近いものを感じているからだ。
私なんてただの十六の小娘なのに、この若き研究者は腰が必要以上に低い。
私がメモをまとめて手にとって、席に座る時にそれを彼に手渡した。
食事の間、こうしてやってくる当番の技術者に、私はメモの内容に関して質問される。
食事をしながら、細部を思い出したり、前後関係の感覚を思い出したりもする。
食事が終わると、食器を持ってミツバさんは去って行った。
私は服装を部屋着から制服に着替える。我らがチームのために私がデザインして、全員分が作られているはずだけど、他に誰も着ない。いいデザインなんだけどなぁ。
私は姿見の前で服装に乱れがないのを見てから、小型端末を手にデスクに移動し、教科書とノートも用意する。
端末がインターネットでどこかの予備校とつながり、授業が始まった。
こういう通信教育しか受けられないのは時々、残念だ。だけれど、納得もしている。
私は世界を知れば知るほど、その知っている世界の未来を読んでしまう。それも、無意識に、無自覚に。
小学校の時は特にひどかった。一晩の間に学校にいる児童二十人の未来を次々と見たことさえある。しかもそれがことごとく現実になっていく。
あの時には頭がどうかなりそうだったけれど、トウギ博士が助けてくれた。
的確に、抜かりなく。
そのトウギ博士の伝手で私は今の場所に身を落ち着けることができたのだ。
新設されるはずの、特殊な組織。
母親の夢は今もたまに見る。しかし、どうでもいい夢だ。悲劇なんてコレッポチもない。
私が母の視点になっているので、母の顔は見れないことが大半だけど、その数少ない中でも、一度だけ、鏡を見ている母になったことがある。
五年ぶりに見た母親は、その鏡の中でほとんど歳をとっていなかった。
どこかに消えた私のことを気に病んでいるようには見えなかった。それよりも、化粧を直すことに集中している。私が育った家の洗面台ではない。どこだろう、と思って手がかりを探す癖が私にはもう骨の髄まで染みついていると言える。
しかし結局、何もわからなかった。
その時の様子もメモにして、当番の技術者へ渡したはずだ。でも誰も、母について話をしなかった。
父の夢はやはり全く見ない。もう顔を忘れてしまった。
どこかで生きているんだろうけど、やっぱり私とは住む世界が違う。
最初から、違ったんだろう。
端末の中で予備校の講師が、変にキャッチーな口調で喋っている。
私はその音声を聞いて、画面の中のホワイトボードを凝視して、テキストを眺め、ノートにペンを走らせた。
いつの間にか私も、十六歳。
でも、本当に?
もしかして、まだ十二歳くらいで、こういうリアルな夢、現実になりつつある未来を見ているのでは?
その疑問への答えは、誰も出せない。
◆
私が一人で昼食をしていると、ドアが開いて、若い女性が入ってきた。
まだ二十歳にはなっていないけど、スタイルはいい。表情も最近、どことなく凛としてきた。
「食事中にすみません、カリン捜査官」
シドミ・レイカはそういうと、わずかに笑みを見せた。
「別に構わないわよ。そちらへどうぞ、レイカ」
この部屋には椅子は三脚しかない。普段から来客は少ないから。
椅子を持ってそばへ来ると、レイカが腰を下ろす。そんな些細なところにも、どこか洗練された動きが覗く。
少しだけ甘い香りがする。香水を変えたのかもしれない。
そんなことを思っていると、レイカが私が見た夢を見たい、と言った。
最初は暫定的に「超感覚共有能力」などと呼ばれたレイカの特質も、今は「思念転写能力」と正式名称が与えられた。
非常に稀な、精神感応能力の亜種のようなものだという。
「手に触れていいですか?」
そういうレイカに私を手を差し出す。彼女が素早く手のひらを両手で包み込むようにした。
私に特に影響はない。
レイカは黙って目を強くつむり、呼吸も止めているようだ。
ふぅっと、その唇が薄く開き、息が漏れる。まぶたも開いた。
「ありがとうございます」
「例の中国人のこと?」
私の方から確認すると、そうです、とレイカが頷く。ちょっとだけ口元に強張りが見える。
ここのところ、私たちは防諜にてんやわんやで、それは本来の警察組織や、自衛隊に属する情報部隊では対処不可能な事態が増えていることを意味する。
科学の発達が人間の秘められた力を解き明かし始めた時、全くの新局面が生まれたということだけど、まだ序の口だ。
私やレイカのように天然物の能力者が大半で、人工的に能力開発されたものはまだまだ少ない。
そう、私たちのところにもそういう、人為的な開発を受けたメンバーが一人、加わってきた。それはつい最近のことだ。
トウギ博士が悪魔めいた執着で生み出した、透視能力者。
「キリヤ・カナエはどうしている?」
確認するつもりでそう言ったけど、レイカはなにか思い違いをしたようだ。
「特に問題なく、能力を発揮しています」
「いえ、そうじゃなくて。ここに来て、楽しそう?」
今度ばかりはレイカも首を傾げている。
「大抵は、その、あまり感情を見せませんけど……」
そう、としか私は答えなかった。
トウギ博士が何をしたかは、おおよそ知っている。夢で見たのだ。トウギ博士とは面識があるから、自然と彼が見るはずの未来が私にもよく見える。
だいぶ、非人道的なことをやっている。
それを告発することもできるし、実際、今までに三回ほど、トウギ博士として私が見た光景をメモにして提出している。
もうトウギ博士とは三年は直に会っていない。彼は第一線を退いたのだ。
職務は後継者に譲り、どこかで隠棲しているようだけど、生きていればいい、としか私はもう思わなかった。
国家のため、組織のため、個人の願望のために犠牲になる人間がいるのは、きっと間違っている。
誰も犠牲にならない未来を、私は作ろうとしているのかもしれない。
未来を見て、それを都合よく操作して、また夢を見て、操作して、その繰り返し。
終わらない変更に次ぐ変更。
私が見ているこの世界、おそらく現実だろう世界はどこへ向かっているんだろう?
何度も何度も車線変更を繰り返されて、まだまっすぐに一本の道路の上を走っているのか、それすらも疑問だが。
小さな破滅を回避した先に、より大きな破滅があり、その破滅を回避しても、次にはまた大きな破滅がある。そう思うこともある。何かしらの質量、悲劇の総量は変わらなくて、全部が後回しになっているだけではないのか。
最後には全部がいっぺんに、押し寄せてくる。
「カリン捜査官?」
ぼうっとしていたからだろう、レイカが声をかけてくる。気遣う口調だった。
「いえ、何でもないわ。気にしないで」
「カナエさんのことが気になりますか?」
たぶんさっきの質問からの連想で気を使ってくれた同僚に、私は微笑んだ。
出来るだけ自信が見えるように。
「彼女が人間らしく振る舞えるように、手助けしてあげてね。あなたは私たちの中でも比較的、まともだから」
苦笑いがレイカの口元に浮かぶ。
「まともという言葉が何を示すか知りませんけど、そんなことを言ったらワタライさんが一番、まともですよ」
まともという言葉を健常者と結び付ければ、おおよそその通りだ。
「私が言いたいことは、苦痛を共有できる、という意味もあるけどね。私はこの通り、どこかぶっ飛んでいるし」
さらに冗談を被せて向けてみると、珍しくレイカが明るい笑みを見せ、私もちょっと笑うことができた。
彼女が部屋を出て行き、食事が終わるとミツバがやってきて、食器が片付けられた。
これからは二時間の自由時間、二時間のディスカッションで、夕食、お風呂、就寝となる。
この日のディスカッションは比較的、白熱した。
技術者が三人ほど参加して、私が夢の中で見た情報と現実の科学技術、それも多岐にわたる技術を検討するのだ。
私には専門的な知識はそれほどないけれど、夢の中で未来の技術者の仕事を見ることもある。
全くちぐはぐだが、私が見た未来の技術を現実へ持ってくることが、すでに何度かあった。
そうなると科学技術は前倒しになるわけで、未来は時間と共に飛躍し、ますます、完全に、夢想になってしまう。
やっぱり私はこういう時、自分がいつを生きていて、何を見ているのか、不安になるのだった。
その不安を口にすることは滅多にない。そんなことを話せる相手はもう少なくなった。
ディスカッションが終わり、内線電話で早めの夕食を頼んだ。ほどなくミツバが料理を運んでくる。
ディスカッションで話題になった新規の通信装置についてミツバに意見を求めると、彼は幾つかの質問をしてから少しの思案の後、何もなくても一年先には現物がありそうですね、と返事があった。
つまり未来は一年ではなく半年ほど早くやってくる、と彼には見えているのだ。
食事が終わり、部屋に併設の浴室で、ゆっくりと湯船に沈んだ。
体が温まると、思考も少しだけほぐれる。夢で見た光景を思い出すことが多いけど、それは昨夜のこと。今日一日でそのうちの幾つかはもう修正され、変更されているだろう。
不意に脳裏に何かがよぎる。
それにじっと目をこらすと、浮遊感があった。
車が爆発する。どこかの通り。路上駐車。車は無人だった。通行人が倒れている。爆風と破片で通りに面した建物のガラスが砕けている。悲鳴が聞こえる。誰かが喚く。逃げようと走り出す人の足音が無数に重なる。
私は誰の視点だ?
これは、夢だ。
私が何かを言っている。よく聞こえない。
目の前で車が炎を上げていて、それを背にして立っている誰かがいる。
私の体が動く。それで自分が男性だとわかった。
両手を前に向け、その手で一丁の拳銃が構えられた。
リボルバーではない。オートマチック。
炎の光が拳銃の上を滑る。
引き金を引いたのか。
ハッとして目が覚めた。私は湯船の中で眠ったようだ。お湯はすでにぬるいというより冷たい。
お湯を少し抜いて、新しく蛇口から湯船にお湯を注ぎながら、何度も夢の中身を確かめた。
車が爆発したのは、爆弾テロか何かか。
私の視点は警官だろうか。
あまりにも曖昧で、細部が見えない夢だった。
検証していくうちに、爆発した車の車種が見えてきて、次にナンバープレートがぼんやり見えた。四桁のうちの三つははっきり見える。
あの視点は背広を着た誰かだった。刑事の視点かもしれない。
私たちと関係のある刑事、をまず当たるべきだろう。
いや、これは、違うな……、なんだろう……。違うことが気になる……。
拳銃? カタログが必要だ。
しかし、それを構えた時、背広の袖が見えた。でも背広なんて、数え切れないほどある。
その光景を繰り返し思い描く。
そうか。
腕時計だ。高級腕時計。ブランドはグランドセイコー。
見覚えがある。
あれは、ワタライさんがつけていた腕時計だ。
反射的に湯船の中から立ち上がり、出っ放しのお湯を止めると、浴槽の排水溝の栓を引き抜いて足早に浴室を出た。
時間が惜しい。
タオルで体を拭いながら部屋に戻り、メモに思い出せる限りを書き付けていく。
腕時計は見えづらいが、時間はおおよそわかる。日付は光の関係で不明。どうしても見えない。曜日が見える。木曜日だ。
通りの名前は不明でも、爆発した車のそばにあったポールに番地が書いてある。
意識を現実に戻し、小型端末を手にとって地図を確認する。検索。台東区か。大通りから一本入った通りで、路上駐車は目立つだろう。ナンバープレートの番号と照らし合わせれば、詳細にあの未来へ辿り着ける確信が生まれた。
ただ、すぐではないだろう。今日は金曜日で、木曜日なら最低でも一週間の余地がある。
メモを確認して、不意にくしゃみが出て、自分がタオル一枚ということを思い出した。
夢で風邪を引くことはないが、現実では風邪を引く。
まったく、私もこういう仕事に、変にやりがいを感じて、やる気を持っているんだな。
タオルで体を拭い直し、髪の毛を包むようにして、さっさと服を着た。その間に電気ケトルでお湯を沸かして、お茶の用意をする。
髪の毛を乾かしているうちにお湯は湧いて、趣味で買い集めているハーブティーから一つを選んで、ティーポットで紅茶を淹れた。
椅子に腰を落ち着けて、しばらく待つ。時計で測っていた時間に合わせてカップに鮮やか色の紅茶を注いで、その匂いの中でもう一度、夢を確認した。
メモしたことに、どこにも間違いはない。
目を開く。何か、また夢を見ていた気がするけど、違う、目を閉じていただけ。
ティーカップに触れた時、そして熱い液体が唇に触れた時、私は確かに目覚めているとわかる。
それがティーカップを机に置いた時にはもう曖昧なんだから、私もやっぱり、普通じゃない。
お茶を飲み終わってから、私は内線電話でミツバに夢を見たことと、メモの話をした。
「何度もごめんなさいね、ミツバさん。もう休む頃でしたよね」
そう謝ると、電話の向こうで若き技術者が「仕事ですから」と笑った。そして「すぐ伺います」と真剣な口調で言った。
受話器を元に戻して、私もこれが仕事かな、とぼんやり考えた。
望んでついた仕事ではないし、仕事とも言えないかもしれない。
ただ、ここ以外に居場所はない。
ここを出て社会に放り出されれば、私は私自身を失うだろうから。
ミツバにも紅茶を用意してあげようかな、と思って私は新しいティーカップを取りに部屋の隅の戸棚へ行った。
いつか、きっと、ミツバの夢を見る。そんな予感がする。
そして彼の未来を変えるかもしれない。私か、仲間たちが。
それは祝福なのか、それとも冒涜なのか。
未来なんて、見えないほうがいい。
そう思いながら、私は戸棚のガラス戸を滑らせ、お気に入りのティーカップを取り出した。
(続く)
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