私には見える、あなたが
和泉茉樹
私には見える、あなたが
◆
地図の上では、東京都奥多摩と呼ばれる場所にその研究施設はある。
延々と続くかと思われる、木立の中の未舗装の道は、激しいアップダウンの後、厳重なゲートにたどり着く。しかし守衛がいるわけでもなく、代わりに監視カメラと各種の警備装置がそこを見張っている。
ゲートの手前、天然の岩があり、そこにプレートが埋め込まれている。
そのプレートには新時代社会研究所と刻まれていた。
ゲートの向こうには、古びた建物が一棟あり、何を思って作られたのか、その玄関の前のロータリーの中心に、小さな噴水がある。誰が見ているわけでもないのに、噴水は時折、水を宙に吹き上げている。
建物の中は閑散として、掃除もされていないため、綿ぼこりがかすかな風の流れに時折、揺れている。カーテンはあるが、ボロボロでほとんど破れており、壁や床には直射日光が当たっている。壁紙は日焼けしてまだらな模様を作っていた。
どの部屋を見ても人はいない。
事務机や古い電話機、ファックス、コピー機があり、書棚から落ちた書類が散乱していた。
ブレーカーが落とされているようで、壁に張り付いているエアコンのリモコンは明かりがついていない。そもそもエアコンが正常に作動するかは不明。
ただし、入り口のゲートの警備装置は生きていた。ここへも電気は通っている。
ぐっと深く視線を地下へ向ける。
そこには地上の建物以上の大きな構造物があり、二層に分かれている。
地上とは裏腹に、地下には二十名ほどがいた。
すぐに視界に入ったのは、食堂で食事をしている五人が見える。簡単なものながらしっかりとした料理を食べていた。典型的な日本食、定食という奴か。焼き魚と野菜、汁物、香の物、白飯。箸を使っている。
料理人の方を見ると、すでに仕事をしていないようだ。注文を受けてから作るのか、それともすでに調理は終わり、温め直して出すのだろうか。
視点を変えていく。
何かが激しく動いていると思ったら、空気清浄機だった。喫煙所らしい。二人の白衣の男が立ち話をしている。唇の動きを読む。
あの子の脳みそは耐えられるのかね。
まあ、そういう素質の持ち主だというから、大丈夫なんだろう。
どこまでいけるかな。
さあね。
そのままそこを見ている余裕はない。通路を走り、部屋を次々と見ていく。
トイレがあり、風呂があり、寝室があり、つまり地下にいる二十人は全員がここで生活しているのだ。
階段があるが、そこは頑丈な金属製の扉で閉ざされている。電子的に施錠され、解錠するには身分証が必要らしい。そこを通り越し、階段は一度の踊り場で折り返し、次もまた扉。ここも身分証が必要。
地下は二層構造でも、上層と下層の間にはかなりの間隔がある。よく見えないが、耐爆を意図しているのか。下層はそのまま地下シェルターになる可能性もある。
通路へ出る。下層はさすがに人気が少ない。
ただ、不自然な熱気がある。情念のようなものだろうか。
部屋の数も少ない。六人ほどでいっぱいになりそうな会議室と、測定機器がずらりと並ぶ部屋、あとはトイレがあり、資料室があるが、紙の書類などはないようだ。あるのは電子端末だった。
測定機器のある部屋には、二人の女性がいて、二人ともが白衣を着て、メガネをかけている。片方は長い髪を一つにまとめ、もう一人はそのまま背中に流していた。
黒髪をひとつ結びにしている方、見覚えがある。
ウィーン工科大学に在籍していた資料があったはず。そう、ミズノ博士。脳科学の専門家だ。
もう一人は身元不明。
視線を測定室の隣へ。
と言っても、その部屋だけは周囲との間にさらに金属製の防壁で囲まれている。測定室からのデータは有線で流されているのがわかった。
その部屋は、なんと表現するべきだろうか。
手術室、というのが近い。
寝台があり、機材が囲む。
しかし今、目の前にある寝台には手足を固定するベルトがあり、寝台の上にあるのはライトではなく、奇妙な円盤の集合体からなら半球だった。
今、その部屋では一人の白衣の男性が何かのセッティングをしている。回り込むと、顔がよく見えた。
資料にある顔だが、事前に見た写真よりだいぶ歳を取って見えた。顔には深いシワがあり、シミさえも浮かんでいる。機材に触れている指もどこか骨と皮でできているような、危うい弱々しさがある。
しかしその男性の特徴を総合的に判断すれば、トウギ博士なのは間違いない。
四十年前、脳外科医として突如現れた若き天才も、今では七十になろうとしている。
私はじっと彼を見つめ、もう一度、その表情を確認した。
感情は希薄で、ほとんど無表情だ。独り言を言うようでもなく、口は引き結ばれている。
まるで機械を見ているような、何かの装置じみた淡々とした動きだった。
ドアが開き、今度は若い男性がやってくる。その時、この部屋を囲む壁の厚さがわかった。
その男性の口元が動く。
博士、こちらの準備はできています。
一度、トウギ博士が頷いた。
始めようか、と口元が動く。若い男性が嬉しそうに笑い、口を動かす。
今度こそうまくいきますよ。
そう動いた。
彼が出て行って、トウギ博士は部屋にある受話器を手に取った。
ミズノくん、始めるようだ。準備は?
そう口が動く。
私は反射的に測定室の方を見た。
ミズノが機械に何かを入力しながら、分かりました、と返事をしたようだ。
それからしばらくして、トウギ博士のいる部屋に、四人の白衣の男性が入ってくるが、そのうちの二人は少女を両側から抱えていた。
少女の年齢は、十二、いや、十歳にもなっていないかもしれない。
白い服の上からでもとにかく痩せているのがわかる。見える足や腕も、男性が握るだけで折れそうなほど華奢だ。黒い髪の毛は短く刈られていて、表情に生気がない。頬がこけていて、目はやや飛び出して見えた。
その彼女の視線がこちらを見たが、いや、それはトウギ博士の方を見ただけだ。
二人の男性が協力して、少女を寝台に寝かせる。手早く少女の両手首、両足首がベルトで固定された。
じっと見ていると、トウギ博士も含めて五人が装置の準備を始め、その間にそれらの装置のおおよその目的を理解することができた。
脳波の測定など初歩の初歩で、脳のどの部分が活性化しているのか、それを測定する装置が、もっと重大なものがある。
それは、脳が感じていること、つまり被験者の五感をそのまま抜き取る知覚転送装置だ。
この装置は最新科学の産物で、非常に珍しい機器だが、その珍しさはその性能や構造にあるのではなく、国連によって人権保護の観点から、使用が厳密に禁止されたからだった。
果たして、世界に何台、現存するか。当然、秘密裏にだ。
どこから横流しされたのかは、後で調べるしかない。
少女は寝台の上で身動きをしない。
科学者の一人が言う。
こちらは完了です、博士。
それから三人の若い白衣の男性が、それぞれ、準備ができたことをトウギ博士に伝えた。
四人はそれぞれ、受け持つ機器の前にいる。トウギ博士が寝台のすぐ横に立った。
寝台の横にあったヘルメットを、トウギ博士自らが少女の頭にかぶせた。
博士が一度、深呼吸したようだ。
実験を開始する。第八次知覚測定実験。責任者はトウギ・ケンゾウ。被験者、キリヤ・カナエ。
トウギ博士の口がそう動く。この部屋にはカメラが設置され、マイクも幾つか設置されている。今の音声は記録されただろう。
ヘルメットを被せられた少女、おそらくカナエという名前の少女は、やはり動こうとしない。
男性の一人が言う。
知覚圧迫、開始します。
装置が低い音を立てる。少女の頭上にある円盤が幾つも組み合わされている半球がかすかに、しかし断続的に震え始める。
次々と報告が入る。
被験体、心拍上昇。血圧もです。
脳波に大きな乱れはありません。
脳機能、一部が負荷を受けているようです。知覚圧迫、継続。
少女の腕がピクリと動く。その動きが徐々に早くなり、震えになり、暴れ始める。
短い鎖が揺れる。しかし切れることはない。
知覚強度に異常が見えます。
トウギ博士が知覚転送装置の表示を見ながら、測定室に通じる受話器を取る。
記録しているか。
ミズノ博士の方は、平常と変わらぬ様子で、はい、とだけ答えたようだ。
男性たちが淡々と報告する中心で、少女は激しく暴れる。ヘルメットが外れそうだが、あごのところでベルトで留められている。
鼻水が飛び、よだれが飛ぶ。
おそらく舌を噛まないためだろう、口にも器具がはめられている。叫んでいるかもしれないが、声は出ない。
いきなり、その少女が四肢を突っ張り、脱力した。
触覚、味覚、嗅覚、消えています。
白衣の男性が淡々という。
解脱状態間近です。数値には何も問題はありません。
脈拍、血圧、平常値。
聴覚、消えました。
視覚強度、標準値を超えていきます。通常値を十パーセント超過。
トウギ博士が頷く。
いつの間にかその場の科学者たちはどこか遊びに熱中する子供のような気配を発散させている。
男性の一人が慌ただしく装置の調整を始める。
視覚強度、さらに上昇。通常値の二倍を突破。今回は行けそうです。
それにもトウギ博士はただ頷くだけ。彼自身、自分の前の禁忌の装置に触り続けている。
少女の目が唐突に見開かれた。
間違いなく彼女は、こちらを見た。
科学者が勢いよく少女の方を見る。
視覚強度三〇〇パーセントです。理論的には、千里眼が発現しています。
トウギ博士が、実験を第二段階へ、というように口を動かした。
男性たちが慌ただしく装置の前を行き来し、それがたった今、少女が何を見ているかを確認しているとわかる。
その全てをじっと観察するが、少女は、はっきりとこちらを見ている。
文字盤で指示を出す。記録を忘れないように。
そうトウギ博士の口が動き、白衣の一人が、少女の口から器具を外した。もう少女は叫びもしないと、唇が動かないのでわかる。
博士自身が小さな昔ながらのホワイトボードに日本語を書いた。
そこには、「何が見える?」と書いてある。
少女の口が動く。読み取りづらいが、解読する。
女の子が見える。
トウギ博士が怪訝そうな顔になり、ホワイトボードの字を書き換える。
「君自身か?」
違う。そう少女が応じる。
「君はどこにいる?」
次のホワイトボードの文字に、少女が、実験室、と答える。
トウギ博士の目元が険しくなる。
しかしその老人が文字を書くより先に、少女が口を動かした。
私はここにいて、私を見ている。
私のことを見ている。
私を助けようとしてくれている。
私と同じ女の子が。
トウギ博士が目を丸くし、そしていきなり部屋の壁際へ走ると、そこにあるレバーを引き倒した。
明かりが赤に変わる。
少女の口が動くのが、赤と黒の世界でよく見えた。
あなたはどこにいるの?
それきり、すべては真っ黒に塗りつぶされた。
◆
私は目を開き、目の前の眩しい光に思わず目を閉じ、深呼吸した。
「大丈夫か? アナスターシャ」
ハリのある低い声に、私は無言で頷く。
そろそろと目を開け、明かりから顔を背けるようにして、寝台から起き上がった。
私の寝台には、体を固定するベルトなどはない。
真っ白い床、真っ白い壁、真っ白い天井。明かりさえも半透明のパネルで天井板と一つになり、さっきまでの地下施設より、はるかに現代的だ。
唯一の機材の前にいた背広の男が、こちらに微笑みを向ける。真っ黒い、誰かの葬儀に出るような背広が、変に部屋の色と対照的だった。
「証拠はバッチリだな」
「疲れたわ、ユーリ」
私は寝台に腰掛けて、さっきまで見ていたことを、振り返った。
日本で行われている、極秘の研究。
超能力を応用した遠隔視、透視の実験だった。
「何か気にかかるかい、アナスターシャ」
ユーリの言葉に、私は少し考えた。
「あの女の子、カナエというらしい子は、私を見たようだった」
「本物だった、ということ?」
「かもね。私がいるくらいだから、別に同じ能力者がいても、おかしくない」
私はロシア共栄圏で能力開発された能力者だった。もちろん、極秘事項だ。
こうして秘密裏に日本の倫理に反する極秘実験を偵察したのは、外交に使えるカードを得るためと、私の能力の実証実験だった。
全てはユーリの前の端末に記録されている。
食事にしよう、とユーリが席を立った。
私は寝台を下りながら、考えた。
あの子、カナエという子は、もう一人の私だ。
運が良かっただけ。そして、運が悪かっただけ。
「アナスターシャ?」
ユーリが扉の前で立ち止まっている。
私がそちらへ踏み出すと、何を見たのか、彼は穏やかに微笑んだ。
「これできみの存在価値は、証明された」
「でも自由にはなれないわ」
その私の言葉には、苦笑が返ってきただけだった。
そんなことはない、とも、その通りだ、とも取れる。
それでも私は、あの女の子よりは、自由だ。
私はそっと、その部屋を出た。
(了)
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