第3話 数学者は怯えながら道をたどる 7
「行きましょう。」
少女は繰り返していった。数渡は言われるがまま立ち上がった。立ち上がると頭にがんがんとする痛みが走った。少女は冷徹な瞳で数渡を見ていた。
数渡は自分の心臓のリズムが変わるのを感じた。足がすくむ。数渡は今すぐに少女の視界から消え去ってしまいたい気持ちに駆られた。全て見透かされている。そんなことはないと分かっていても数渡は少女から顔を背けざるを得なかった。少なくとも善良なる自分の心は、もう一人の醜悪な自分を発見してしまった。数分前まで生きていた清純な自分は、たった今死んでしまったのだ。
少女は何も言わずに歩きだした。革靴のコツコツという音が部屋中に響く。研磨された漆黒の階段を上り、石像の前で止まった。数渡は黙って少女について行った。石像の高さは一・七メートルぐらいで、石像と同じぐらいの高さの大理石で出来た台の上に立っていた。数渡は石像の顔をじっくりと観察した。大きめの鼻とくっきりとした目を持っている。深いしわとあごひげが見事に彫り込まれている。服装は分厚いコートのようなものを着ていた。
「これはだれなんだ?」
数渡は少女に尋ねた。
「私のお父さんの一人。」
「何だって?」
数渡は目を丸くして少女の方を見た。少女が摩訶不思議なことを言うのは初めてではないが、今度ばかりはさすがに驚く。石像は明らかに、外国の、それも今とは別の時代を生きた男性を象ったものだ。
その時、右手の方の廊下からコンコンという不規則な音とともに足音が聞こえてきた。数渡はこの不規則なコンコンという音に聞き覚えがあった。駅などで時々聞く、白杖の音だ。
「ようこそ新人くん。」
低い訛声と共に現れたのは、白杖を持った中年の男性だった。四十代前半といったところだろうか。身長は170センチぐらいで、少しやつれ気味な印象の顔立ちをしており、白髪が目立った。着ているものは土色のトレーナーにブルージーンズと実に飾り気のない格好をしている。盲目であることを除けば、どこにでも居そうな人だ。世の謎を全て凝縮したような少女と一緒に、これまた世の謎を全て凝縮したようなロビーに立っているだけで、彼の姿はあまりに場違いで神秘性を欠いているように数渡には見えてしまう。
「ご苦労だったね。マス。」
盲目の男性は笑顔を見せながらそう言った。少女が小さくうなずく。「マス」。それは少女の名字だろうか。数渡は少女を横目で見ながら思った。アナウンサーの親戚だろうか。盲目の男性は笑顔のまま、今度はおそらく数渡に向けて言った。
「よく来てくれた新人くん。私は加納大助。この場の責任者だ。名前を伺ってもよろしいかな?」
数渡は「新人くん」というのが気になった。一体何の新人だというのだろうか。
「僕は九田数渡と言います。」
加納と名乗った男は少しの間を置いてから、再び口を開いた。
「九田、数渡くんというのか。良い名前だね。」
数渡は自分の名前がよい名前だと思ったことはなかった。数学好きな父親に適当につけられた名前だ。だがここは社交辞令として礼を言った。それから今度は数渡の方から加納に質問した。
「あの、僕も一つ伺ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、何でも」
男が答える。
「ここは何処なのでしょうか?」
数渡がそういうと加納はひどく驚いた顔をした。
「説明していないのか、マス?」
少女は無表情のままうなずいた。若干の間の後、加納はため息をついた。おそらく少女がうなずいても盲目の加納にはすぐに伝わなかったのだろう、と数渡は思った。
「では数渡くん。君はここが何処かも、ここで何をするかも知らされずにここに来たのかね?」
加納は困った顔をして尋ねた。
「全く知りません。」
数渡は正直に答えた。加納は困った顔をしたまま考え込んでいた。
数渡はふと加納から懐かしい匂いがするのを感じた。小学一年生までは日常的に嗅ぐことがあった、父親のたばこの匂いだ。楽しかった時の思い出と、それが唐突に失われてしまった悲しみが蘇り、胸に小針を突き立てられたような気持になる。
「加納、おい加納!」
右手の廊下から声がする。小さな男の子のような声だが、声の主は数渡の立っている位置からは確認できなかった。
「おっといけない。私はもう行かなければ。できれば直にここの事を説明したかったが、
君のことはマスに任せることにする。分からないことは彼女に訊いてくれ。」
そして加納は言った。
「しっかり案内してあげてくれよ、マス。」
少女は小さくうなずいた。加納はそれでは、と言ってから背を向け、白杖で道を確認しながら去っていこうとしたが、途中で立ち止まり、一言付け加えた。
「くれぐれもせっかく来てくれた新人を死なせるようなことはしないでくれよ、マス。」
そう言って盲目の男は数渡の視界から消えた。
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