第2125話
「……なるほど。マリーナでも何も分からなかったか」
はぁ、と。
溜息を吐きながら告げるダスカーに、マリーナは呆れの視線を向ける。
「あのねぇ、私はダークエルフだから長生きしてるけど、別に研究者という訳じゃないのよ? なのに、そんな私がウィスプを……それも異世界との間で転移させるようなことが出来る能力を持つ特殊な個体を調べて、何か分かる筈がないでしょ?」
冷たい果実水を飲みながら、マリーナは不満そうに言う。
もっとも、その不満の幾らかはダスカーの態度によるものではなく、果実水が果実亭で飲んだものに比べて味が薄かったからだろう。
それは領主の館で出た果実水の味が薄いのではなく、単純に果実亭の果実水が果汁を大量に使っていたから、というのが大きいのだが。
「そう言われてもな。レイに言った通り、今の状況で手の空いている研究者はいないんだから、仕方がない。いや、信用出来て手の空いているというのは正しいけど」
「それで私なの? ……レイから聞いてたけど、少し無理がない? 白い草原の水たまり事件について話す?」
「ばぁっ! ちょっ、お前はいきなり何をいってるんだ!」
何気なく口に出されたマリーナの言葉に、ダスカーは慌てたように叫ぶ。
普段滅多なことでは叫んだりしないダスカーだけに、その態度がマリーナの隣に座って二人の会話を眺めていたレイの興味を惹く。
「白い草原の水たまり事件?」
そう口にしたレイだったが、何故かそんなレイの呟きを聞いたダスカーは頬を引き攣らせる。
これは聞かない方がよかったことなのか?
そう思って隣に視線を向けるが、そこにあったのは肩を震わせながら必死に笑いを堪えているマリーナの姿があるだけだ。
「えっと、マリーナ」
「……ん、こほん。えっと、取りあえずその件については忘れてちょうだい。今はそれより、あのウィスプの件を話し合った方がいいでしょう」
半ば強引に話題を戻すマリーナ。
それはレイにも理解出来たが、それでもこのような真似をする以上は、そうした方がいいのだろうというのは予想出来た。
結果として、レイはそれ以上は白い草原の水たまり事件というのに言及することはなく、話題を元に戻す。
「分かった。えっと、取りあえずウィスプのいる空間に続く通路はマリーナの精霊魔法で塞いできたので、暫く見つかるということはないと思います。樵達も、効率を考えて外側から木の伐採をしてますし」
前半をマリーナに、後半をダスカーに向けて告げるレイ。
その説明を聞いたダスカーも、自分の黒歴史から話題が逸れたことに安堵しつつも、レイの言葉に頷く。
「そうか。なら、樵達と一緒に行動している騎士の方に、中央には近づかないように言っておく。もっとも、今の状況では誰も好き好んでそんな場所に向かうとは思えないが」
「それはそうでしょうね。リザードマンや緑人、もしくはそれ以外の者が転移してきている可能性もありますし。……あ、でも……」
「どうした?」
ふと、何かに気が付いたかのような様子を見せるレイに、ダスカーは疑問の視線を向ける。
レイは、これを言ってもいいのかどうかと若干迷ってはいたのだが、一応言っておいた方がいいだろうと判断して口を開く。
「ダスカー様には報告が入ってると思いますけど、昨日トレントの森で新たに転移してきたリザードマンを保護しました」
「ああ、聞いている。それが?」
「確実とは言えませんが、今までの経験上、リザードマンが転移してくれば大抵が緑人が一緒に転移して来てました。だとすれば、今もトレントの森の中で緑人が迷っている可能性があります」
レイの説明に、ダスカーの視線は厳しくなる。
それは先程マリーナにからかわれていた時とは全く違う、ギルムの領主としての顔だ。
「緑人か。可能なら、他の勢力が接触するよりも前に、こっちで確保したいな」
ダスカーにとっては、リザードマンよりも緑人の方が圧倒的に価値がある。
緑人がいれば、それこそギルムで香辛料のような貴重な植物の栽培が可能になるかもしれないのだから。
リザードマンが戦力として有用なのは事実なのだが、戦力という意味では辺境のギルムだけに多くの冒険者がいる。
そのような戦力がいる以上、現在ダスカーの立場として欲しいのは、リザードマンよりも緑人だった。
……緑人はその外見が人間と変わらないというのも大きい。
少なくても、リザードマンと緑人のどちらが人間に見えるかと言われれば、ほぼ全てが緑人と答えるだろう。
その差は、かなり大きい。
特にリザードマンが関わるようになってから、まだそこまで時間が経っていないので、リザードマンが……ましてや、普通のリザードマンではなく、ガガのようなリザードマンの巨人とでも呼ぶべき存在が歩いているのを見れば、恐慌状態になる者も多い。
これがもう暫く……数ヶ月もすれば、ある程度は受け入れられたりもするのだろうが。
ただ、それでもリザードマンを受け入れられないという者は少なからずいる筈だった。
これが少数ならまだ何となったのかもしれないが、残念ながら今回の一件において転移してきたリザードマンの数は大量になる。
それだけのリザードマンが自由にギルムの中を歩き回るといったようなことになった場合、当然ながら騒ぎになるだろう。
……それ以外にも、セトのように愛らしい存在ではないというのが、大きいのだが。
とはいえ、リザードマンの子供は非常に愛らしいのだが。
「そうですね。一応暇な時間にでも見て回って、緑人がいないかどうかを確認してみます」
「頼む」
レイの言葉に、ダスカーは短く呟き、頭を下げる。
本来なら、辺境伯などという立場にある者がそう簡単に頭を下げるといった真似はしない方がいい。
しかし、ダスカーもレイにかなり無理をさせているというのは分かっている。
だからこそ、こうして頭を下げたのだ。
頭を上げたダスカーは、難しい表情で疑問を口にする。
「しかし、少し疑問だな。地下にいるというウィスプは、どのような基準で転移を行っている? レイが言うには、ウィスプは相当に魔力を消耗してるんだろう?」
「俺がじゃなくて、正確には師匠がですけどね。……ただ、その基準については残念ながら全く分かりません。ダスカー様も見た、あの巨大な湖を転移させたというのに、その魔力が回復するよりも前に何故わざわざまたリザードマンを転移させたのか」
「そもそも、湖が存在した場所はグラン・ドラゴニア帝国があった世界とはまた別の世界なんでしょう? なのに、湖が転移した後でまたリザードマン達を転移させた。これは、あのウィスプが幾つもの世界から転移させられるのか、それとも転移させる世界をグラン・ドラゴニア帝国のある世界にまた変えたのか」
マリーナのその疑問には、残念ながらレイは答えられない。
そもそもウィスプを直接見た訳でもなく、話を聞いただけのダスカーにとっては、尚更に答えられる筈がない。
「その辺の諸々を調査するのに必要なのが、学者か」
疲労を感じさせる様子で告げるダスカー。
ダスカーにしてみれば、これでますます学者を用意する必要が出てきたといったところか。
学者の研究が功を奏すれば、それこそ莫大な……言葉では言い表せない程の利益になるのは確実だ。
この国では育てることが出来ない香辛料の類が同じ量の砂金と同等の価値を持つことも珍しくはないのに、この国どころかこの世界には存在しない代物を独占出来るとすれば、その利益は計り知れない。
もっとも、利益のある場所には当然のようにその利益を掠め取ろうとする者も出て来る。
幸いにもダスカーはミレアーナ王国にある三大派閥の一つである、中立派を率いる身だ。
それだけに、擦り寄ってくる者は多数いるだろうが、そうではない者……堂々と正面からダスカーの、ギルムの権益を奪おうとする者は、いない訳ではないが数はかなり少ない。
とはいえ、その数少ない者達は大きな権力を持つ者である以上、油断は出来ないが。
それこそ、国王派にこの辺りの事情が知られれば、直接的、間接的に関わらず様々な手を出してくるだろう。
いざという時の為に備えて、ウィスプの能力についてはしっかりと調べておく必要があった。
信頼出来る学者の手で、という条件付きだが。
「幸い、あのウィスプは私やレイが近づいても……それにレイの師匠が近づいても、特に何かこれといった反応を示さなかったんでしょう? なら、研究をするにしてもそこまで危険はないでしょうね。……もっとも、私達が一定以上の実力を持つから動かなかった可能性もあるけど」
「嫌な予想をするのは止めてくれ。それが真実になったら、洒落にならん」
「あら、前もってその辺を警戒しておくのは当然でしょう? でないと、それこそいつ何が起きるか分からないんだもの」
フラグという言葉をレイが思い浮かべたが、この世界でそれを言っても意味が通じない以上、取りあえず黙っておく。
この場合は、実際にフラグとなるのかどうかは、レイにも分からない。分からないが……それでも、一応言っておく。
「マリーナの言ってることが真実かどうかは分かりませんが、その可能性は十分にある以上、護衛は必要だと思いますよ。俺やマリーナ、それに師匠。三人が三人とも、かなり強いですし」
「……レイやマリーナの強さを、かなり強いって言葉で言い表してもいいかどうかは、微妙だと思うがな」
実際、師匠……グリムの強さは知らないダスカーだったが、レイやマリーナの強さがかなり強いという表現では絶対に合わない気がしていた。
もしレイやマリーナでかなり強いだと、ギルムにいる冒険者の大半はかなり強いという表現が相応しくないのだから。
「そうですか? ともあれ、ダスカー様の信用出来る学者が怪我をしないように、護衛はいた方がいいと思います。まだ、あのウィスプについては何も分かってないですし。最悪の場合、あのウィスプが学者を排除しようとして、今までのようにトレントの森じゃなくて自分のいる空間に転移させてくる可能性もありますし」
それは、十分に有り得ることだった。
今まではウィスプを調べるにしても、そこまで大胆な行動をとらなかったが、学者が本気でウィスプを調べるとなると、そこには直接触ってみたりといった行為をする可能性がある。
そうなるとウィスプも危険を感じ、自分の身を守るために異世界から凶猛なモンスターや動物を転移させないとも限らない。
「分かった。レイの言う通りになる可能性も高いし、それ以外でも学者に護衛は必須だろうしな」
学者の選定で悩んでいた時とは違い、今回はあっさりと頷く。
ダスカーにしてみれば、部下の騎士は信頼出来る者が揃っている。
レイやマリーナ程に圧倒的な強さは持っていないが、それでも平均的なランクBからランクC冒険者程度の実力はある。
そうである以上、学者を選ぶ時のように迷う必要はない。
「他に、何か気が付いたことはあるか?」
「そうね……」
レイとマリーナ、ダスカーの三人は、それから暫くウィスプについての話を続ける。
本来なら、今のダスカーは非常に忙しい筈だった。
だが、それらの仕事をどうにかしても、今はウィスプの件を話す必要がある。
それ程に、あの異世界から転移させる能力を持つウィスプの件は大きいのだ。
「もしかしたら、あのウィスプ……場合によっては、異世界からこちらの世界に転移させるだけじゃなくて、こっちから異世界に転移させることが出来るのかもしれないな」
その言葉を聞き、レイは驚きを表情に出さないように注意する。
ダスカーの言った内容は、レイももしかしたら……本当にもしかしたらだが、可能なのではないかと、そう思っていたものだったからだ。
可能性としては非常に低い。
それこそ、レイの感覚で言えば宝くじの一等が当たるかのような、そんな確率だと思われた。
場合によっては、もっと低いかもしれない。
それでも、もしかしたら日本に戻れるという可能性は十分にあった。
「そうですね。もしかしたら、そんなことが出来る可能性もあるかと。……ただ、かなり難しいような気がしますが」
「だろうな。俺も本気でそんな風にどうにかなるとは思ってはいないさ。だが、もしかしたら……と、そう思うくらいは構わんだろう?」
「そうですね。希望は大事ですから」
それは、ダスカーに言ったようでいて、実際には自分に言い聞かせるように言った言葉だ。
この世界で暮らし続けるということには既に十分以上に納得しているレイだったが、だからといって日本に帰りたくないという訳ではないのだから。
もっとも、今のレイを見ても誰も元が誰だったのかというのは、分からないだろうが。
そんな風に思いつつ、レイはダスカーとの会話を続けるのだった。
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