第1960話

 目の前に広がっている土壁を見て、ヴィヘラは感心したように口を開く。


「なるほど。これならコボルトはそう簡単にギルムに入ってくるような真似は出来ないわね。もっとも、レイが言う通りギルム側からなら乗り越えるのは難しい話ではないけど」

「ああ。まさか、そんな真似をするとは思わなかったし。……そもそも、ここを出ても冬という季節だぞ? 冬特有のモンスターは、通常のモンスターよりも強い奴も多い。なのに、そんな真似をすれば……それこそ、自殺行為以外のなにものでもない」

「でしょうね。ただ、このままギルムにいれば捕まってしまうとなれば、話は違ってくるでしょう?」

「そうだな」


 意図的にギルムにモンスターを……それこそコボルトのような低ランクモンスターを呼び寄せるような真似をし、その為にあれだけ危険な触手に生贄を捧げていたのだ。

 それこそ、捕まった場合はほぼ間違いなく死刑になるだろう。

 ……いや、死刑になるのが一番軽い刑罰になるという可能性すらあった。

 それを考えると、やはり一か八かということで、この土壁を乗り越えてギルムの外に出てもおかしくはない。


(それに、今日はコボルトが少なかった。つまり、もしここから逃げても以前のようにコボルトに襲われる可能性は少ない、と。そう考えてもおかしくはない)


 土壁を見ながらそう考えていると、不意にその土壁の向こう側からモンスターの鳴き声が聞こえてくる。


「もしかしてコボルトが来たのか?」


 たった今、コボルトの数が少なかったと考えたばかりのレイだったが、まるでそれを裏切るかのようにコボルトが姿を現したのか。

 そう思っていると、そんなレイの態度をそのままに、ヴィヘラは地面を蹴って土壁の上に着地する。

 まるで重力を感じさせないその動きは、感嘆に値するものだった。


「あら、コボルトじゃなくてゴブリンね」

「ゴブリンか。多分、コボルトが毎日ここにいたのにいなくなったから、興味を持ってやって来たんだろうな」

「つまり、コボルトが今までここにいたのは、何か美味しい思いが出来るからで、そのコボルトがいないから、今度は自分達が……ってこと?」

「多分だけどな。ゴブリンの考えなんて読めないし」


 実際、ゴブリンは時々見ている者が何故そのような行動を? といったことをすることも少なくない。

 そんなゴブリンの様子に興味を持ち、思わぬ痛手を被ってしまった……という話は、レイも今まで何度となく聞いたことがある。


「で? どうする? ゴブリンをどうにかするのか?」

「嫌よ、面倒臭い」


 ヴィヘラはあっさりとそう言い、再び重力を感じさせないような動きで土壁を蹴り、地面に着地する。


「そう言うと思ったよ。……ゴブリンの希少種か上位種辺りでもいれば、違ったのかもしれないけどな」

「ギョギャアアアアアアアアアア!」

「ギャギョギャギュ!」

「ギュオギュギュギュ」


 レイの言葉を遮るように、ゴブリンの鳴き声が激しくなる。

 一体何故? と疑問に思ったレイだったが、考えてみればヴィヘラが土壁の上に乗っているのは、当然ながら向こう側にいるゴブリンからも見える訳で……ゴブリンがヴィヘラを見れば、今のように騒ぐのは当然だった。

 ゴブリンにとって、ヴィヘラは最高の獲物なのだから。……その獲物を倒せるかどうかは、別として。


「随分と人気者だな」


 少しからかうようなレイの言葉に、ヴィヘラは不満ですといった様子で口を開く。


「ああいうゴブリンに好かれたところで、嬉しくもなんともないわよ。せめて、もっと強いモンスターならともかく」

「コボルトと来てゴブリンだからな。……これ以上妙な相手に求愛されるよりは、街中に戻るか? セトも迎えにいった方がいいだろうし」


 まだ約束の時間まではそれなりにあるが、ここに来る途中で子供達と一緒に遊ぶ為に別れたセトは、なるべく早く迎えにいった方がいいだろう。

 午後から大きな騒動になることは確定なのだから、前もって食事をしておく必要もあった。

 ヴィヘラはそんなレイの言葉に、少し考え……やがて、頷く。


「そうね。目の前に確実にいるゴブリンよりは、午後の強敵を楽しみにした方がいいわよね。じゃ、行きましょ。今日の昼は何を食べるの?」

「何だろうな。やっぱり冬だし、温かい料理がいいと思う」


 そう言うレイだったが、ドラゴンローブのおかげで寒さは全く感じていない。

 今は雪が降っていないが、それでも冬である以上、その気温は限りなく低い。

 ……それでも、やはり冬には温かい料理を食べたいと思うのは当然だろう。

 

(すき焼きとか……けど、材料が揃わないしな。醤油とかもないし。そもそも、すき焼きのタレってどうやって作るんだ? 砂糖と……酒か? それ以外にも、材料がないしな)


 思い出しただけですき焼きを食べたくなったレイだったが、そもそも材料が揃わない以上はどうしようもない。

 それ以上考えるのは諦め、ヴィヘラと共に土壁の前を後にする。

 土壁の向こうからは、相変わらずゴブリンの興奮した鳴き声が響いていたが、レイとヴィヘラはそれを聞き流す。


「そう言えば、今日コボルトが来てないってことは、まだ何人かコボルトの討伐依頼を受けてた奴は、今日稼ぎがなくなりそうだな」

「そうかもしれないわね。けど、そういう人がいないと困るんでしょ? ああ、でもコボルトが現れないのなら、その辺の心配はいらないのかしら」

「んー、このままずっとコボルトが出てこないのなら、それでもいいんだろうが。昨日俺があの触手に与えたダメージが原因なら、それがいつまで続くのかも分からないし」

「そうね。全員がコボルトの討伐の依頼を受けていない状況で、実はまたコボルトが現れました……となったら、ちょっと洒落にならないもの」


 もし誰もコボルトの討伐の為にこの場にいない場合、何らかの手段で土壁を乗り越えてギルムに入ってきたコボルトは、間違いなく増築工事の区画を通り抜け、人の多い街中に到着してしまうだろう。

 そして何も戦う手段を持っていない相手と遭遇すれば……どのような結果がもたらされるのかは、レイにも容易に想像出来る。

 一応、ギルムは辺境で、元冒険者という者も多い。

 普通の街や村よりは戦うことの出来る者も多いが、全員がそのような者という訳でもないし、子供達と遭遇すれば考えるまでもない。


「まぁ、そんな訳で見張りの類はどうしても必須だろうな。元々俺が土壁を作る前……コボルトが大量に現れるよりも前から、増築工事の現場からギルムにモンスターが入ってこないようにと見張りはしていたんだし」


 そのように会話をしながら、レイとヴィヘラは増築工事をしている場所を抜け……街中までやってくると、子供達と遊んでいるセトの姿を発見する。

 増築工事をしている場所の近くということで、周辺には空き地になっている場所も多い。

 だからこそ、子供達とセトが遊ぶ場所としては十分だった。


「微笑ましいわね」


 セトと追いかけっこをしている子供達の様子を見て、ヴィヘラが呟く。

 もっとも、それはセトという存在のことを知っているからこその言葉だろう。

 もし何も知らない……レイやセトを初めて見るような者が今の光景を目にした場合、ほぼ間違いなく子供がセトに……グリフォンに襲われている光景であると判断する筈だった。

 とはいえ、ギルムでセトのことを知らないような者は、ほぼいないのだろうが。


「そうだな。セトを慕ってくれる人が大勢いるこの光景をコボルトの襲撃で壊される、なんて真似は絶対にさせられない」


 ここを自分の拠点、いわゆる居場所と判断しているレイとしては、コボルトがここで暴れるのも……そして、コボルトを呼び出しているだろうピンクの触手が暴れるのも、許容出来る筈もない。

 だからこそ、今回の一件でそれなりにやる気を出していた。

 ……コボルトを操る手段がマジックアイテムであるというのを期待していたのが、実は何らかの儀式によるもので、全く違う方法だった、というのも関係している可能性はあったが。


「グルゥ? グルルルルルゥ!」


 レイとヴィヘラが話しているのに気が付いたのだろう。

 子供達と遊んでいたセトは、そちらを見ながら嬉しそうに喉を鳴らす。

 そして。セトが嬉しそうなのとは正反対に、子供達は残念そうな表情を浮かべる。

 元々、レイが土壁の様子を見ている間だけ、セトと一緒に遊んでいてもいいと、そういう約束だったのだ。

 そうである以上、レイが戻ってきたのだからセトとの遊びはこれで終わりというのは、全員が理解していた。

 もっと遊びたいと思ってはいるが、それを口に出して我が儘を言うような者はいない。

 もしここでそのようなことを言えば、今度セトと遊ぶ時には仲間に入れて貰えないというのを知っているし……何より、見たことがあるからだ。

 結局その子供はレイとセトに謝ったことにより許されたが、そのような真似はしたくないというのが、子供達の正直なところだった。


「悪いな、俺達は用事があるからそろそろ行くよ。また機会があったら、セトと遊んでやってくれ」

「グルルゥ」


 レイの言葉に合わせるように、セトが喉を鳴らす。

 子供達は少し残念そうにしながらも手を振り、また新しい遊びをするべくこの場所から走り去る。

 その方向が増築工事の現場ではないことに安堵しながら、レイはセトを撫でた。


「グルゥ、グルルルゥ、グルルルルルゥ!」


 レイに撫でられるのが嬉しいのか、上機嫌で喉を鳴らすセト。

 セトにしてみれば、先程遊んでいた子供達に撫でられたり、よく構ってくれる相手に撫でられるのも嬉しいのだが、やはり一番嬉しいのはレイに撫でられることなのだろう。

 もっと撫でて、といった風に頭を擦りつけるセト。

 レイもそんなセトの姿に笑みを浮かべつつ、撫で続け……


「ねぇ、そうやっているのもいいけど、そろそろ食事にいかない? 午後からは忙しくなるんだし、出来れば早いうちに食事をしておきたいんだけど」


 少し不満そうに、ヴィヘラが告げる。

 セトに対して嫉妬している訳ではないのだが、それでもやはり自分が横にいるのにセトだけを撫でている様子を見れば、思うところがない訳ではないのだ。

 ……それを普通なら嫉妬と呼ぶのだが、ヴィヘラ本人がそれに気が付いている様子はない。

 そしてセトを撫でていた……愛でていたレイもそれに気が付いた様子はなく、ただ単純にそれもそうかと納得する。


「そうだな。じゃあ、食事に行くか。……何を食べたい?」

「そうね。午後からは派手に動くことになるみたいだし、しっかりとした食事にしたいわね」


 普通ならこれから激しい運動をするのだから軽い食事にする……といったことになるはずなのだが、ヴィヘラにとっては違ったのだろう。

 もっとも、レイもそんなヴィヘラの意見には賛成だったし、セトもまた食べられるのなら食べたいと思っていたので、誰もヴィヘラの意見に反対するようなことはなかったが。


「となると、サンドイッチとか串焼きじゃなくて、しっかりとした店だな。何を食べるかが悩みどころか」


 レイとしては、先程すき焼きに思いを馳せていたこともあって、鍋物の類を食べたいという思いがあった。


「そうね。冬なんだしやっぱり熱々のシチューとかはどう? それも具がたくさん入ってる、飲むシチューじゃなくて食べるシチュー的な」

「グルゥ!」


 食べるシチューという言葉に反応したのか、セトは嬉しげに喉を鳴らす。

 やはりセトにしてみれば、飲むよりも食べるとった行為の方を好むのだろう。


「シチューか。寒い季節だし、それもいいな。シチュー以外にもパンとか、それ以外にも何か他の料理を適当に頼んで食べたいところだ」

「そうね。肉と野菜の炒め物とパンとか……うどんもいいわね」

「肉まんとかも、久しぶりに食べたいところだけど……難しいか」


 前にレイが協力して開発した肉まんを始めとした料理は、当然のようにレイが冬の料理だと教えたこともあって、ギルムでもかなり人気の品だ。

 ただ、本場というか元祖……レイが直接教えた店は、当然のように高い人気を誇る。

 その店で買うには並ぶ必要があり、その上でレイ達が満足するだけの数を購入する訳にはいかない。


(すき焼きが無理なら、おでんとか……うーん、おでんの出汁ってどうやって作るんだろうな)


 レイが日本にいた時に使っていたのは、おでんの素を使った出汁だ。

 それだけに、具体的にどうすればおでんの出汁を作れるのかといったことを、レイは知らない。


(はんぺんと、牛すじ、糸こんにゃく、ジャガイモ、大根、玉子……で、最後はおでんの汁をご飯に掛けて……あ、本当におでんが食べたくなってきた)


 おでんを食べたいとしみじみ思いつつ……結局すき焼き同様に作り方が分からず、無念のうちに諦めるのだった。

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