第1939話
「……おい、いい加減にしろよ? 土壁を壊そうとして、出来ませんでした。それどころか、役立たずの赤布ってゴミも処分出来ませんでした。その上、グランジェとかいう雇った奴も見失いましただと?」
淡々と告げられるその言葉に、報告を持ってきた男は緊張と恐怖で身体を硬くする。
何かを言わなければ、目の前の上司に何をされるか分からない。
だが同時に、下手なことを言ったりすれば、それはそれで最悪の結末を迎える羽目になりかねない。
「なぁ、おい。お前がそんなに役立たずなら、お前を使う意味はないよな? それこそ、別の奴に変わってもいいんだぞ? 勿論、お前には相応の罰を受けて貰う必要があるけどな」
「ま、待って下さい!」
何かを言わなければならない。それでいて下手なことを言う訳にはいかない。
そう思っていた男だったが、このままだと間違いなく罰を受けることになると、慌てて口を開く。
以前、同僚が目の前の男に罰と称して生爪を……それも手足全ての生爪を剥がされる光景を目にしている者としては、自分はそのような罰を受けるのは絶対にごめんだった。
「何だ? 何か言うべきことがあるのか?」
「はい。えっと、その……」
取りあえずといった感じで口を挟んだが、それでも何か言うべきことがあって喋ったのではない。
このままでは不味いと思いつつ、上司の視線が次第に鋭くなっていくのを感じ……ふと、一つだけこの場で話すべき内容があったことを思い出す。
「コーブス子爵家の所有している建物に関してですが、現在あの建物がギルムの警備兵から監視されています」
「……ほう」
鋭い視線が少しだけ柔らかくなる。
とはいえ、それだけで本当に助かったという訳ではないのは明らかだ。
問題なのは、その現状からどうやって上司が興味を持つように……そして利益になるように話を持っていくかということだった。
「昨日の今日でそうなっているということは、恐らく情報が漏れたのはグランジェからだと考えてもいいかと。あの場所を使って指示を出していた人物は十人程いましたが、一番怪しいのはやはり……」
「グランジェ、か。それなりに腕が立つ奴で、特に隠密行動を得意としている……だったな? それなりに腕も立つという報告を以前受けた覚えがあるが、その割にはあっさりと裏切ったんだな。それとも、腕だけに注目して、俺達を売るってことを考えていなかったのか?」
「それは……申し訳ありませんが、分かりません。ただ、警備兵にはこちらが見張られているということに気が付いているというのは悟られていません。それを上手く利用すれば、警備兵に多少なりとも被害を与えることが出来ます」
ピクリ、と。
警備兵に被害を与えられるという言葉に、上司の男は少しだけ動きを止める。
そして、笑みを浮かべつつも何も言わず、視線だけで話の先を促す。
「ギルムの警備兵は精鋭として有名です。……まぁ、ギルムにいる冒険者の相手をすることも多いので、当然そうなるのでしょうが……それだけに、補充は簡単には出来ません」
「まぁ、そうだろうな。……正直なところ、ミレアーナ王国にある中でもギルムの警備兵の実力は最高峰のものだ」
それは、間違いのない事実だ。
腕利きの冒険者が集まってくるギルムの警備兵は、他の街や村……都市の警備兵と比べても間違いなくその強さは一段、もしくは二段上となる。
その警備兵の数を減らすというのは、男の仕事の内容に入っている訳ではない。
だが、それが回り回って結果的に男の、そして男の後ろにいる者達の利益になるのであれば、部下の話は聞くべき内容があった。
先程までの苛立ちが少しだけだが収まったように感じつつ、現在動かせる手勢を思い浮かべる。
(赤布の残り滓は、まだ幾らか余裕があった筈だな。魂の質が悪いから取っておいたんだが、使い捨ての兵士としては十分だろう)
上司の頭の中で、すぐに戦力として使える駒が計算される。
赤布以外にも戦力と呼ぶべき存在はいるのだが、それを使うのは今ではないと判断している。
だからこそ、消耗しても問題のない戦力……いや、寧ろ処分すべき使い捨ての戦力としてちょうどいい赤布の者達を使おうと真っ先に考えたのだ。
ギルムの警備兵にダメージを与えるというのは、男達の目的に沿っていたのだが、だからといっていざという時に使う本来の戦力を消耗してまでやるべきことではない。
何より、ギルムの警備兵が強い以上、そのような真似をすれば自分達の戦力が消耗するのも間違いはないのだ。
(とはいえ、赤布を警備兵に捕らえさせるとこっちの情報も流れかねない。……まぁ、あのゴミ共はこっちの情報については殆ど知らないから、問題はないといえばないんだが……ただ、念には念を入れて、使えなかったら処分する手筈は整えておきたいところだ)
素早く頭の中で考えを纏めると、男は自分の前で不安をどうにか表情に出さないようにしている部下に向かって口を開く。
「分かった。お前が思うようにやってみろ。戦力は赤布の残りがまだ幾らかあった筈だから、それを使え」
幾らかいたではなく、幾らかあった。
その言葉からも、男が赤布をどのような存在と見なしていたのかは、明らかだった。
とはいえ、部下の方も赤布がどのような扱いを受けているのかというのは全く気にしておらず、それどころか自分が何かを言って上司の怒りが自分に向けられるのはごめんだった。
それならば、部下としても赤布を使い捨ての戦力として扱った方が問題はない。
何より、儀式に使えない劣った魂しか持っていないという上司の意見は、部下にとっても同様のものだったのだから。
そのような存在に対し、毎日酒や食事を手配するという手間を考えれば、さっさと消えて貰った方が手間も掛からない。
「はい、そうさせて貰います。……出来れば奴隷の首輪辺りを使えれば、情報漏洩の心配をしなくてもいいんですけどね」
「馬鹿を言うな。奴隷の首輪は管理が結構しっかりしてる。勿論、手に入れようと思えばどうにかなるが……赤布程度に使うには勿体ないだろ」
上司の男にとっては、完全に赤布の者達よりも奴隷の首輪の方が高い価値を持っていた。
ここでそのような無駄遣いをするような余裕は……ない訳ではないが、それでも赤布の連中と同時に奴隷の首輪がなくなるというのは、大きな不利益でしかない。
元々、赤布という役立たずのゴミを処分するついでに警備兵に少しでも被害を与えられればいいといった程度の考えで、部下の提案を受け入れたのだ。
それを行う為に、それなりに高価な奴隷の首輪をも使い捨てにするという選択肢は、男には存在しない。
「そうですね。では、そのように」
部下の男はそう言うと、急いで部屋を出ていく。
多少は機嫌がよくなったとはいえ、それでもまだ上司が現状に不満を抱いていることは理解していた。
だからこそ、今の状況で上司と一緒に部屋にいれば、何らかの理由によって危害を加えられるかもしれない状況からは、少しでも早く脱出したかった。
何より、上司は自分とは比べものにならないくらいの強さを持っており、部下もそれを理解している。
もし上司が何らかの気まぐれで自分を殺そうと思えば、それこそ自分は何も知らずに死んでいるのは間違いない。
……もっとも、上司の性格から考えて自分が知らない間に殺されるというのは、寧ろ情け深い行為だと言われても間違いではないのだが。
「ふん」
急いで部屋を出て行った部下の姿に、男は鼻を鳴らす。
部下が何を考えていたのかというのは、当然男も理解している。
理解しているが……それで若干不愉快に思うようなことはあっても、それで何かをするような真似はしない。
今の自分達にとって、使える手駒というのは決して多くはないのだ。
それを、特に理由もなくつまらない癇癪で減らすというのは、男にとって有り得ない選択肢だった。
……言い方を変えれば、理由があればそのような行為をするということに他ならないのだが。
「ギルムの警備兵に被害、か。……赤布程度が動いたところで、一体どの程度の被害を与えることが出来るんだろうな。まぁ、やらないよりはマシなんだろうが」
呟き、思い通りに運ばない現状に苛立ちを覚えつつ……男は、テーブルの上にある酒の入ったコップに手を伸ばすのだった。
「全員、きちんと並べよ! 割り込みなんかしたら、そいつはスープなしだぞ!」
ギルムのすぐ側で行われている、ギガント・タートルの解体。
その現場では、現在昼食の時間となっており……レイが食堂で買ってきたスープを渡していた。
もっとも、そのスープを配っているのはレイではなく、ギルド職員なのだが。
レイがスープを提供し、ついでに食器の類を持ってきていない者……多くがコップにスープを入れて貰っていたが、そのような物すら持ってきていない者に対しては、レイが近くの店で適当に買ってきた安物のコップにスープを入れていた。
(それこそ、紙コップとかそういうのがあれば、かなり便利なんだけど……そう言えば紙コップってどうやって作ってるんだ? ただの紙を何枚も厚く重ねただけでいいのか?)
そんな風に思いつつ、レイもまた少し離れた場所で自分用に取り分けたスープを飲む。
紙コップというのは、日本にいた時は普通に使われていた。
だが、だからといってその作り方を知っているかと言われれば、答えは否だ。
それこそTVのような普段使っている物を、使うのは出来てもその構造まで理解出来ている筈がない。
「美味しいわね、これ」
レイと一緒にスープを飲んでいたヴィヘラが、しみじみと呟く。
その顔が上機嫌なのは、朝に雪猿との戦闘があったからだろう。
スノウ・サイクロプスよりは格下だとはいえ、仲間との連携を上手く行う雪猿は、ヴィヘラにとって十分満足出来る相手だったらしい。
「ん」
ビューネも、ヴィヘラの言葉に小さく呟きながらスープを飲む。
具材がたっぷりと入っているそのスープは、寒い中で作業をしているからこそ、余計に美味く感じるのだろう。
実際には、コボルトと戦っていたり、ギガント・タートルの解体をしていたりと、かなり身体を動かしているので、そこまで寒さに震えている訳でもないのだが。
寧ろ、働いている者の中には汗すら浮かべている者もいる。
……そんな中で寒さに震えているのは、実はギルド職員だ。
解体している者が素材や肉を盗まないかといったことを見張っていたり、もしくは近づいてくるモンスターの存在を護衛達に知らせたりといった具合に、指示をしているギルド職員だったが、実際に身体を動かしたりはしていない。
だからこそ、身体が暖まるといったことはなく、寒いままだ。
一応暖房用のマジックアイテムを持ってきてはいるのだが、掌サイズの布が暖かくなるといった程度で、とてもではないが身体全体を暖めることは出来ない。
それでも文句を言わず、まずは働いている者達にスープを配っているのは……やはりギルド職員だからというプライドがあるからなのだろう。
(スープが足りなくなったら、別のスープを渡してやった方がいいかもな)
スープを配っているギルド職員を眺めつつ、レイはどのスープを渡すのかを考える。
セトと一緒に色々と見て回り、買い物をしてきたレイだったが、当然のようにスープは現在ギルド職員が配っている物だけではなく、他にも色々と購入していた。
「ねぇ、レイ。結局午前中は何か進展があったの?」
スープを食べながら、ヴィヘラがレイに尋ねる。
尋ねつつも、レイの様子から特にこれといった進展がなかったのだろうというのは、容易に予想出来ていたのだろう。
それでも敢えてレイに尋ねたのは、もしかしたら本当に何かあったのかもしれないという、そんな思いからの言葉だ。
……結局レイが首を横に振ったことで、それは否定されたのだが。
「特にこれといった進展はなかったな。そもそも、何らかの進展があればギルド経由でこっちに連絡が来ている筈だし。それがないって時点で、その辺りは期待出来ないだろ」
「そうだろうとは思ってたんだけどね。……けど、じゃあ午後からはどうするの? また土壁を見に行く?」
「あー……いや。マリーナとメールを探しに行こうと思ってる。土壁を毎回見に行くのも面倒だし、どうせなら精霊魔法で土壁に何か異常があったら知らせて貰えるようにしようと思ってな」
レイの言葉に、ヴィヘラもビューネも納得したように頷く。
マリーナの家で毎日のように食事をしていることを考えれば、マリーナの精霊魔法がどれだけ規格外なのかを理解している。
マリーナであれば、レイの言う通りのことは容易に出来るだろうな、と。そう思うのだった。
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