第1864話

「うー……あー……殺せ……殺してくれ……頼む、殺してくれええええええええええええええ」


 暗闇の中、何者かの声が周囲に響く。

 だが、その声を発している者の頼みを聞く者は誰もおらず、それどころかその人物が叫べば叫んだだけ、身体に刺し込まれている管から赤い血の流れる勢いが増す。

 普通であれば、とっくに死んでもおかしくないだけの血を抜かれているというのに、その人物が死ぬ様子はない。

 その理由は、男の額に埋め込まれた宝石。

 ……もしこの場にレムリアがいれば、間違いなく驚いただろう。

 何故なら、それは現在ではレムリアの一族だけしか持っていない筈の、魔法を封じ込められた宝石だったのだから。

 それも、ただの宝石ではない。白い、純白と呼んでもいいその宝石は、封じ込められているのが回復魔法であることを示していた。

 その回復魔法の効果により、身体中に管を刺し込まれている人物は、大量に血を抜かれても失血死するようなことはないまま、微弱に発動し続けている回復魔法により、生き残ることが出来ていた。

 しかし、当然ながらそのような無茶をすれば回復魔法を使われている方がただですむ筈もない。

 事実、この人物は回復魔法の込められた宝石を埋め込まれたことにより、死ぬことはないが、常に激痛を……それこそ、いつ死んでもおかしくないような激痛を味わい続けている。

 そもそも、魔法の込められた宝石は一度使えばその効果はなくなってしまう。

 それこそ宝石の質によっては、砕けてしまうこともあるのだ。

 だというのに、この人物の額に埋められた宝石は中に封じられた回復魔法を一度に全て使うのではなく、少しずつ、本当に少しずつ使うといった風に使用されている。

 当然ながら、それは宝石を埋め込まれた人物が自分でそのようにした訳ではなく、鎖で男の手足を縛り付け、動けなくした人物がやったことだ。

 激痛に次ぐ激痛。

 それこそ、痛みに慣れるといったことはしないままに叫び声を上げる人物だったが……不意に、その口から漏れていた叫びが収まる。


「……あ……」


 何が起きたのか全く分からず、男の口から出たのは間の抜けた声のみ。

 今までの激痛が一瞬にして消えたのだから、そのようなことになってもおかしくはない。

 それでも数分も経てば、何故自分がそのようなことになっていたのか……それを思い出すことが出来た。

 本来なら、それこそ自分を騙してこの場に連れてきた相手に対して強い怒りを抱いてもおかしくはなかったのだが、これまでに感じ続けた激痛が、そのような気力を完全に奪い去っていた。

 今は、ただ不意に訪れたこの平穏な一時に浸りたい。

 そのように思ってしまうのも、仕方がないだろう。

 これでもう少し気力があれば、今の状況からどうにかしようと思っても不思議ではないのだが……それこそ、延々と苦痛を味合わせ続けられた人物にとって、そんなことを考える余裕はない。

 気が狂ってしまえば楽にもなるのだろうが、額に埋め込まれた宝石の回復魔法がそのような真似を許してくれなかった。

 こうしている今も、宝石に込められた回復魔法はゆっくりとだが発動し続けており、少しずつだがその人物を正常な状態に戻そうとしていた。


「……」


 痛みも何もなく、今のその人物は何も考えず、平穏な一時にすがるしかない。

 と、そんな安らぎの一時は唐突に終わる。

 不意に、この部屋の中で唯一外に繋がる扉が開かれたのだ。

 それもゆっくりと誰かが入ってきた……という訳ではなく、乱暴に、強引に、それこそ壊れても構わないといった様子で。


「坊ちゃん、無事ですか!」


 乱暴に開いた扉から入ってきた人物の叫びに、部屋の中にいた人物はゆっくりと顔を上げる。

 出来ればようやく訪れたこの安らかな一時を邪魔しないで欲しい。

 そんな思いを抱きながら。

 だが、そんな人物……ガイスカの思いは、部屋の中に入ってきた人物の一声で再び破られる。


「坊ちゃん、しっかりして下さい。坊ちゃん。俺です、デオトレスです。坊ちゃん!」

「デオ……ト……レス?」


 ガイスカの口から、その名前が漏れる。

 それは、ガイスカにとって腹心の部下である人物の名前。

 その人物の名前を口にした瞬間、ガイスカの気力は不思議な程に湧き上がってきた。

 つい数秒前までは、それこそ生きた死人とでも呼ぶべき状態であったにも関わらず、だ。


「ああ、そうです。全く、パーティーから帰ってきてみれば、坊ちゃんの姿がないから、探し回りましたよ」

「さが……し、ま……わった? どれ、くらい?」


 この部屋に閉じ込められてからのガイスカは、それこそ時間の感覚すらなくなるくらいに、激痛の責め苦を受け続けていた。

 それだけに、今がいつなのか……自分がこの家にやって来てから、具体的にどれくらいの時間が経っているのかも分かっておらず、時間の感覚は完全に麻痺している。


「とにかく、ここを出ましょう。今はまだ問題ないですが、このままここにいればこの屋敷の連中が集まって来るかもしれないですしね」


 ここから出る。

 それを聞いた瞬間、ガイスカは気力だけではなく身体にまで力が戻ってきたのを感じる。

 痛みはある。痛みはあるのだが……その痛みよりは、早くこの家を出て父親に保護して貰う方が先だと判断したのだ。

 今のガイスカは、まさに精神が肉体を凌駕しているような状況にあると言ってもいい。

 このまま、誰にも知られずに死んでいく筈だったのが、腹心の部下たるデオトレスが助けに来たのだ。

 何としてもここを抜け出し、自分にこのような真似をした相手に絶対に相応の報いを与えてやる。

 そのような思いをガイスカが思っても、おかしくはない。……いや、寧ろガイスカの性格を考えれば、当然ですらあった。

 復讐心を糧として、何とか足に力を入れて立ち上がる。

 そんなガイスカの様子を見ながら、デオトレスはガイスカの身体を縛り付けている鎖を鍵で解除し、身体から伸びている管を引き抜いていく。

 その際にガイスカが微かに不愉快そうな表情を浮かべていたが、今は身体中に刺さっている管を引き抜く方が優先だと判断したのだろう。


「それで、ここから抜けるには……どうすればいい?」


 デオトレスに尋ねる口調は、決して力強いとは言えない。

 だが、それでも先程までの一時の安らぎに身を委ねていた時とは違い、自分の意思でしっかりと行動を起こすことが出来ていた。


「取りあえず、出来るだけ早くここから出ましょう。この家には腕の立つ連中が揃ってるんで、そんな連中に襲われれば、俺だけで坊ちゃんは守り切れないですしね」

「……分かった。俺にこのような真似をして、ただで済むと思うなよ。必ず、必ず後悔させてやる」


 呟き、ガイスカはデオトレスの肩を借りながら、部屋を出る。

 この部屋はセレスタンの家の地下にある。

 だからこそ目の前には階段があり、それを上がっていくことにより、一階の廊下に到着した。


「デオトレス、俺が聞いた話では、この家には大量に罠が仕掛けられているらしいんだが……罠はないのか?」

「え? あー……その辺は解除してるから問題はないですよ。でないと、俺も坊ちゃんの下に辿り着けなかったですし」

「そうか」


 ガイスカはデオトレスの言葉にあっさりと納得するが、本来ならデオトレスは盗賊でも何でもく、戦士だ。

 そのことを不思議に思わなかったのは、ガイスカがそれだけデオトレスを信用しているからか、それともこれまでの拷問にも等しい行為によってガイスカが精神的に疲れている為か。

 ともあれ、ガイスカはそのことを少しも不審に思う様子もなく、玄関に向かって進む。

 セレスタンの家は、別に屋敷といったような広さはない。

 スラム街の中にあるということを除けば、本当に普通の一軒家にすぎないのだ。……家の中に罠が仕掛けられているのが、普通の一軒家であると表現してもいいのかどうかは微妙なところだが。

 ガイスカはそのことを異常とは思わず、まずはこの家を脱出することだけを考え……やがて、外に続く扉の前に到着する。

 家そのものがそこまで広い訳ではない以上、当然ながらそこまでの距離は短い。

 それは、体力と精神力の双方を極度に消耗しているガイスカにとって、非常に助かるべき出来事だった。

 そうしてデオトレスが外に続く扉を開け……


「おや、どちらにお出かけですか?」


 扉を開けたすぐ先にはこの家の執事の姿があり、笑みを浮かべながらそう尋ねる。

 その執事の顔は、ガイスカも当然覚えている。

 それどころか、恐怖の象徴の一人と言ってもよかった。

 つい先程までは、この家に住む者全員に生きていることを後悔させてやろうと、そう思っていたのだが……その執事の顔を見た瞬間、ガイスカのそんな思いは恐怖に塗り潰される。

 それでも、と。

 執事の顔を見てすぐに騒いだりしなかったのは、ここには自分だけではなくデオトレスの姿もあったからだろう。

 デオトレスがいれば、この執事にも勝てるだろう。

 もし勝てなくても、自分を連れてここから脱出させるくらいなら問題はないだろうと。

 そう思いながら、ガイスカは自分に肩を貸しているデオトレスに視線を向けようとし……


「え?」


 軽い衝撃を受け、間の抜けた声を上げながらガイスカは床に倒れ込む。

 せめてもの救いは、まだガイスカがいるのが建物の中で、冬の冷たい地面に倒れ込まなくてもよかったということか。

 体力的にも精神的にも疲労しているガイスカは、予想外の衝撃だったこともあって、床に倒れるときに手をつくといった真似も出来ず、そのまま転がる。

 そうして、床に転がった状態で、自分を助ける為にデオトレスが手を伸ばしてくると思い、視線をそちらに向けるが……


「……」


 返ってきたのは、自分を助け起こす為の手ではなく、冷たい視線。

 それこそ、道端に落ちているゴミか何かでも見るような視線だ。


「な……んの、つもりだ」


 かろうじて出たガイスカの言葉は、怒りに満ちている。

 それこそ、何故腹心の部下たるお前がこのような真似をするのかと。

 そんな視線を向けられたデオトレスは、ガイスカの視線を無視して執事に話し掛ける。


「取りあえず、これでこのゴミも多少は気力を取り戻したし、そっちの要望通りより大きな絶望や憎悪を抱く筈だ」


 デオトレスの口から出た言葉は、ガイスカに現在の自分がどのような状況にいるのかを教えるには、十分すぎるくらいだった。


「何故、だ。何故……何故このような真似をする! 俺に恨みでもあるのか!」

「あるに決まってるだろう。ないと思ってるのか?」


 ガイスカの言葉に、デオトレスの口から出た短い言葉。

 だが、その言葉の中には間違いなく憎悪が込められていた。

 しかし、ガイスカはその憎悪に気がつかぬまま、言葉を発する。

 このまま黙り込めば、再び自分は先程の地下室に連れ戻されると、そう理解していたからだろう。


「何故だ! お前は俺が重用してやっただろう! なのに、何故こんな真似をする!」

「……重用? そうだな。正直なところを言わせて貰えば、俺が思っていたよりも遙かに都合良く踊ってくれたよ。それこそ、踊らせる苦労はいらないくらいにな」


 そう告げるデオトレスの態度や口調には、少し前までの……ガイスカを坊ちゃんと呼んでいた時の気安さや親しみといったものは一切ない。

 それこそ、自分の中にある憎悪を隠そうともせずに言葉を続ける。


「俺がお前のような下らない無能に付き合ってたのは、どうすればお前に一番絶望を与えられるかと、そう思っていたからだ」

「何故だ、何故そのような真似をする!」


 ガイスカの言葉は、殆ど数秒前に叫んだ言葉と一緒だった。

 だが、ガイスカ本人にこのような目に遭わされる理由が分からない以上、デオトレスに向かってその理由を尋ねるのは当然だった。

 そんなガイスカの言葉に、デオトレスは一瞬呆れたように息を吐き……次の瞬間、怒気も露わに叫ぶ。


「ルーシャの仇のお前に、誰が心の底から忠誠を誓うと思うんだよ!」


 ルーシャ、と。そう言われても、ガイスカは思い出すことは出来ない。

 ただ、仇というからには恐らく自分が何らかの理由で殺したか何かした相手なのだろうというのは、予想出来た。

 ……ガイスカにとって、偶然手に入れた名剣と名高い長剣の試し斬りとして斬り捨てた、十歳にも満たない子供のことなど、覚えておく価値もなかったのだろう。

 それが、デオトレスの最愛の妻の忘れ形見であった、たった一人の娘であるということも。

 冒険者をしていたデオトレスは、その伝手を使って偽の経歴を作り、セイソール侯爵家に潜り込み、復讐の機会を待った。

 それこそ、ガイスカに決定的な破滅を与える為に。

 そうして待ちに待った機会が、今こうしてやってきたのだ。


「この連中に接触された時は、まさに天は俺を見放してなかったと思ったな。……そんな訳で、ガイスカ……いや、坊ちゃん。坊ちゃんには最後の最後まで苦しみ抜いてから死んで貰うことになるけど、頑張ってくれ」


 復讐鬼と呼ぶに相応しい笑みを浮かべ、デオトレスはガイスカを地下室に連れ戻すべく手を伸ばすのだった。

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