第1607話

「おーいーしーいー!」


 そんな声が周囲に響く。

 それも、一人や二人ではない。

 レイが流水の短剣で生み出した水を飲んだ者全員が似たような叫びを上げ、恍惚とした表情を浮かべているのだ。

 そんな姿を見ながら、レイは自分の目論見が上手くいったことに笑みを浮かべる。

 夏の日中に延々と歩き続けるというのは、モンスターや軍の兵士、もしくはジャーヤの追っ手が来なくても、かなりの体力を消耗する。

 体力が限界に近くなった者は馬車で移動させるようにはしているのだが、それでもレイ達の速度が決して速い訳ではない。

 そうである以上、何らかの飴が必要だった。

 勿論、このままメジョウゴに残って娼婦をしなくてもいいという時点で、大きな飴ではある。

 また、ギルムに行けばしっかりと働き口が用意されているというのも、十分な飴だろう。

 だがそれでも、それはあくまでも最終的な飴であって、その日のうちの飴という訳にはいかない。

 そういう意味で、レイが夕食の時にその水を出すというのは、直近の飴としては十分な効果を持っていた。

 もっとも、千人近い者達が一杯ずつとはいえ、飲む分の水を生み出すのだ。

 魔力的な消耗に関しては、レイの場合は全く問題はないのだが、それを出す時間は相応のものになる。


「それにしても、何度飲んでも本当に美味しいわね」


 流水の短剣から生み出した水を飲み、ヴィヘラがしみじみと呟く。

 その意見には同意するのか、レイやヴィヘラの近くにいるエレーナ、マリーナ、ビューネといった面々も頷いて同意を示す。


「雲一つない夜空に、月と星の明かりだけが灯ってる。……そんな中にレイと一緒にいるというのは、それだけを聞けば甘い一時を連想するんだけど。とてもじゃないけど、今の状況ではそんな風に思わないわね」


 マリーナが水を飲みながら、笑みを浮かべつつそう告げる。

 実際マリーナが口にした表現だけを聞けば、それは恋人同士の甘い一時のように感じられなくもない。

 しかし、実際には千人近い人数がこうしているのだから、とてもではないが甘い一時やロマンチックといった言葉で表現出来るような状況ではないだろう。


「ま、この人数なんだし、それもしょうがないだろ。それより……昨夜は無理だったけど、そろそろアーラに連絡を取っておいた方がいいんじゃないか? この集団の説得も上手くいったってダスカー様に知らせる必要があるだろうし」

「ふむ、そうだな。それに何だかんだとアーラは心配性だ」

「その割には、向こうから連絡をしてくることはないけど?」


 エレーナの言葉にヴィヘラが不思議そうに尋ねる。

 実際、対のオーブで連絡をするのは、一方通行という訳ではない。

 エレーナが持っている方、アーラが持っている方、どちらからでも連絡は出来るのだ。

 だが、現在のところアーラの方から連絡をしてきたことは一度もない。

 アーラがエレーナに心酔しているのは、ここにいるメンバーであれば誰でも知っている。

 ならば、何故? と、そう疑問に思ってしまうのは当然だろう。

 実際、ヴィヘラ以外の面々も同じように思っているのは間違いないのだから。


「一応、こちらでは何があるか分からんからな。基本的に連絡は私からということで決めてある」

「あー……なるほど」


 この中では、一番エレーナとアーラとの付き合いの深いレイが、何となく納得したような表情を浮かべる。

 ……もっとも、そこまで深い付き合いではなくても、アーラがエレーナにどれだけ心酔しているのかというのはすぐに分かるので、レイ以外の面々も納得の表情を浮かべてはいたのだが。


「では、早速……いや、ダスカー様に連絡を取るのであれば、スーラを呼んできた方がよくないか? 俺達がいない時は、スーラがこの集団を引っ張ることになるんだし」

「そうね。ダスカーにもスーラの紹介はしておいた方がいいでしょうね」


 レイの言葉に、マリーナは少し離れた場所で食事をしていたレジスタンスにスーラを呼んでくるように言う。

 その言葉に、レジスタンスの男はすぐにその場を走り去る。

 急いでスーラを呼んでくるという理由もあったが、同時にマリーナのような美女と直接話したことにより半ば混乱していたというのも大きいだろう。

 初々しい反応に、小さく笑みを浮かべるマリーナ。

 そんなマリーナに対して、悪女かと思わず突っ込みを入れそうになったレイは、決して間違ってはいないだろう。

 だが、レイの態度から何かを感じたのか、マリーナは笑みを浮かべたまま口を開く。


「あら、どうしたの?」

「……いや、何でもない。それより、アーラとの連絡を早くとった方がいいかと思ってな」


 ここで何かを言えば、自分も被害を受ける。

 そう判断し、そっと話題を逸らしたのだ。

 勿論、言ってることは間違いではないのだが。

 エレーナもそんなレイの態度に小さく笑みを浮かべつつ、レイから渡された対のオーブを起動させる。

 そんな対のオーブにアーラの姿が映し出されるまで、それこそ起動してから数秒と経っていなかった。

 これは、アーラが対のオーブの近くにいたということを意味している。

 エレーナからの連絡がいつあるのかも分からないとなれば、アーラにとってその対応は当然だったのだろうが。


『エレーナ様? ご無事で何よりです』

「無事と言われてもな。正直なところ、怪我をするようなことはなかったぞ」


 実際には前回の通信が終わった後でも、メジョウゴでジャーヤの兵士との戦闘に加わり、ロッシの近くでは騎兵隊を相手に戦いを繰り広げている。

 だが、そんな戦闘はエレーナにとって特に危険を覚えるものではなかったのだろう。


(当然か。姫将軍なんて異名を持ってるのに、戦ったのは名のある相手じゃなくて、犯罪組織の兵士と、小国の騎兵隊なんだから)


 それこそ、そのような者達との戦闘であれば、巨人との戦闘の方が危険は大きかっただろう。


『エレーナ様のことなので、不安はありませんでしたが……やはり心配はしてしまいます。それより、ダスカー様との話にあった件についての連絡でしょうか?』

「うむ。そちらについては大体上手くいった。自分からメジョウゴに残ると言った者もいたし、全員を確実に連れてきたとは言えないが……」


 言葉を濁すエレーナだが、メジョウゴの広さを考えれば、まだ何も気が付かずにメジョウゴに残っている女がいてもおかしくはない。

 あれだけ大規模にセトが暴れていたのだから、普通であれば眠っていても起きるだろう。

 だが、娼婦というのは想像以上に体力を使う仕事である以上、眠りが深ければ、セトの起こした騒動に気が付かずに寝ていたものが一人もいない……というのは、断言出来ない。

 それでも、一応女達が色々と荷物を集めに行った時にその辺りは探してきたと言っていたのを信じ、恐らく大丈夫だろうと判断するしかなかったのだ。


『そうですか。では、その件をダスカー様に?』

「そうだ。それと、レジスタンスを率いているスーラを紹介しておこうと思ってな」

『分かりました。では、すぐにダスカー様にお知らせします。まだ夜も早いですから、大丈夫でしょうし』


 今回の一件は、ギルムにとっても大きな事態だ。

 その為、アーラは何かあった時にすぐダスカーに連絡出来るようにと、最近では宿ではなく領主の館で寝泊まりしていた。

 アーラも、黙っていれば見かけは美女と呼ぶのに相応しい顔立ちをしている為、騎士や兵士達からそれなりに人気が出ているのだが……エレーナ命の本人は、それに気が付いた様子は全くない。


「そう言えば、アーラには浮いた噂の一つもないけど……領主の館にいれば、案外何かあるのかしらね」


 少しだけ面白そうな口調で告げるマリーナだったが、エレーナは少し物憂げに首を横に振る。


「恐らく無理だろう。今までアーラに言い寄ってきた男は結構な数がいる。だが、アーラはその全てを断っているのだ」


 以前であれば、エレーナもアーラの話題をそこまで気にしたりはしなかっただろう。

 だが、エレーナはレイという男を愛することにより、恋愛というものがどれだけ素晴らしいか……そして、どれだけ自分の力になってくれるのかを理解した。

 であれば、アーラにも恋人が出来て欲しいと思うのは、幼い頃から一緒だった身としては当然のことなのだろう。


「えっと……もしかして、私、お邪魔でした?」


 エレーナの言葉に、どこか遠慮したような声が周囲に響く。

 だが、この場にいる誰もが、その人物が近づいてくるというのは気配で察していたのだ。

 特に不満そうな表情も見せず、エレーナは首を横に振る。

 そんな何でもない動作ですら、エレーナの持つ黄金の髪が静かに降り注ぐ月光を反射して煌めく。


(美人って得よね)


 エレーナに見惚れながらそう考えるスーラだったが、スーラ本人も間違いなく美人と呼ばれる部類の女なのは間違いない。

 実際、メジョウゴでレイと初めて会った時も、スーラは娼婦の振りをしてレイに接触してきたのだ。

 それでいながら、周囲に違和感を抱かせなかったのだから、それがスーラが美人と呼ばれるのに十分だということを示しているのだろう。


「いや、邪魔ではない。今から、お前をダスカー殿に紹介するから、そのつもりでいてくれ」

「……え?」


 エレーナの口から出た言葉が、何を言っているのか分からない。

 それが正直なスーラの感想だった。

 だが、スーラがそんな混乱に襲われている間にも事態は進む。


『レイ、どうやら無事にメジョウゴの者達を連れ出すことに成功したようだな』

「はい。それで、今日はレジスタンスを率いている者をダスカー様に紹介しようかと」

『ふむ、そうだな。ギルムの領主として、レジスタンスを率いている者の顔は見ておきたい』


 その言葉を聞き、レイはスーラに視線を向ける。

 言葉を発しはしなかったが、その視線だけでレイが何を言いたいのかということは理解したのか、まだ完全に落ち着いた訳ではなかったが、スーラが対のオーブの前に出る。


「は、初めまして、ダスカー様。私が現在レジスタンスを率いているスーラと申します」


 最初の一言こそ緊張して口籠もったが、それでもすぐいつも通りに喋ることが出来たのは、スーラもレジスタンスの仲間達を率いてきたという自負があったからか。

 また、直接ダスカーと会った訳ではなく、対のオーブ越しだというのも大きいだろう。

 もっとも、その対のオーブ越しであってもダスカーから感じられる迫力は非常に強烈だ。

 自分であれば、直接会えばその雰囲気に呑まれるのは間違いないというのが、スーラの正直な思いだった。


『ほう、その若さでレジスタンスを率いてるのか?』

「はい」


 てっきり若いからということで侮られるのではないかと思ったスーラだったが、ダスカーの言葉からはそんな思いを感じさせない。

 それでもスーラが緊張しているのは、誰の目から見ても明らかだった。


「ちょっとダスカー。あんまり若い子を苛めちゃ駄目よ。貴方だって若い時があったんだから」


 そんな微妙な雰囲気に割って入ったのは、マリーナ。

 そもそも、ダスカーに対してここまで強気に出ることが出来る者は、そう多くはない。

 そんな人物の一人が、ダスカーを小さい時から知っているマリーナだ。

 ダスカーも、自分が小さい頃の恥ずかしい話――レイに言わせれば黒歴史――の類を幾つも知られている以上、大抵の場合はマリーナに対して強く出ることは出来ない。

 勿論それが、ギルムや中立派の大事なことを決めるような判断に、マリーナが恣意的に口を出してきたのであれば話は別だが。

 少なくても、今はそのような判断をするべき時ではない。


『あのなぁ。なんでそんなことをいきなり言うんだ? ……ああ、スーラだったか? 別にお前が若いからといって、甘く見るつもりはない。そもそも、若いからといって甘く見るのであれば、レイはどうする?』


 スーラの年齢は十代後半。

 それに比べて、レイは十代半ばといった外見年齢だ。

 スーラを若いからといった年齢で見ているのであれば、それこそレイも甘く見てもおかしくはないだろう。

 もっとも、実際に最初にレイのことを知ったダスカーは、レイのことを知ってからそれ程時間を経たずに、ギルドに登録したばかりのレイがオークキングを倒すという現実を知ってしまったからこその反応だったのかもしれないが。


『とにかく、レイ達がお前をレジスタンスのリーダーだと認めてるのなら、俺からはこれ以上何かを言うつもりはない。しっかりとギルムまで来てくれれば、レイから話を聞いてると思うが、仕事は用意してやる。こっちも色々と人手が必要だからな』


 誰かさんのせいで、と。

 ダスカーはギルムが発展する嬉しさと、仕事が大量に増えたことの恨めしさが混ざった、複雑な表情をレイに向けるのだった。

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