第1495話

「ああ……」


 アジャスの頭部は、不思議な程にイルゼの持つ短剣の刃を受け入れた。

 本来なら、頭蓋骨というのはそれなりの固さを持つ。

 それこそ、戦闘に慣れていないような者が長剣を使って攻撃しても、容易くどうにか出来ない程度には。

 勿論一定以上の力があれば……それこそレイのような存在なら、持っている武器で容易く頭蓋骨を砕くことも可能だろう。

 だが、戦闘という行為そのものを殆どしてこなかったイルゼにそのような真似が出来る筈もない。

 にも関わらず、イルゼの刃はあっさりとアジャスの頭部を貫き、その奥にある脳をも貫く。

 その刃を受け入れたアジャスは、あっさりとその命を手放した。

 三十代前半、もしくは三十代半ば……人を騙し、殺し、悪徳の限りを尽くしてきた男の最期は、予想外にあっさりとしたものだった。


「んんんんんーっ!」


 周囲にいた諜報部隊の男に、口の中へ布を入れられて言葉を封じられた状態のレベジェフだったが、仲間が命を失ったのを見て、叫ぶ。

 声の殆どは意味のないものだったが、それでもレベジェフの慟哭の声は周囲に響いていた。


「仲間が死んだ悲しみが理解出来るなら、最初からこんな真似をしないで普通に冒険者として活動していればよかっただろうにな」


 レベジェフの近くにいた諜報部隊の男が、声を封じられた状態のままでも叫び続けているレベジェフを見ながら呟く。


「ま、もう一人の方は意識を失っているだけ、楽かもしれないけどな」


 暴れに暴れたハストンだったが、切断された右膝の治療をされたこともあり、現在は意識を失っている。

 少し離れた場所で地面に倒れているハストンの周囲には、いざという時の為に何人もの諜報部隊の男がいる。

 手を縛り、口を封じ……本来なら足も縛る必要があるのだが、右膝が切断されている状態ではそれは出来ない。

 もっとも右足がない以上、今の状況から逃げだそうとしてもこの場から逃げるのはまず無理だろうが。

 周囲で行われているそんなやり取りとは裏腹に、五年もの間追い続けてきた仇を自らの手で討ったイルゼは、そんな言葉は全く耳に入っていなかった。

 それどころか、アジャスを殺したというのに未だに実感がないまま、手の中にある短剣を呆然と眺めている。

 周囲の声も殆どが耳に入ってこず、イルゼは半ば呆然としているだけだ。

 レイを含めた他の者達は、そんなイルゼの様子を眺めつつも何か声を掛けたりといった真似はしない。

 今のイルゼには、何を言っても耳に入らない……いや、耳に入ってもそれを理解することが出来ないだろうと分かっていた為だ。


「それでは、レイさん。捕らえた男達は連れて行きますので」


 ダールはイルゼを一瞥した後、レイに向かってそう告げる。


「ああ。そうしてくれ。てっきりどこかの組織が奴隷売買をしているだけかと思ったら……予想以上の大きな出来事になりそうだしな」

「……はい。こちらにとっても、完全に予想外の話でしたからね」


 組織は組織でも、この国ではなく他の組織……それもベスティア帝国のような強国ではなく、ミレアーナ王国の従属国のレーブルリナ国の組織だ。

 ミレアーナ王国にとっては、従属国に侮られたと感じる者も多いのは間違いない。


(その筆頭は、間違いなくダスカー様だろうけど)


 自分の治める街で、こうもあからさまに暗躍を許してしまったのだから、ダスカーの面子はこれ以上ない程に潰されてしまった。

 顔に泥を塗るのではなく、馬糞を塗りたくられたかのような、そんな屈辱。

 腐っても三大派閥の一つ。中立派の中心人物なのだから、普通ならとても信じられるようなものではないだろう。

 勿論、ギルムは現在増築工事の真っ最中で、大勢の者達が仕事を求めてやって来ている。

 そう考えれば、何か陰謀なり悪事なり企みなりといった真似をするには、丁度いい場所なのだろう。

 事実、そのような者達が大勢いたおかげで、諜報部隊は現在色々な意味で忙しく、今回の一件でもそこまで大勢を派遣出来ていなかったのだから。


「もっとも、今のところはレーブルリナ国を治めている人間がこっちに手を出してきたって訳じゃなく、あくまでもその国の犯罪組織の手によるもの……って感じなんだろ?」

「はい。ですが、今回のような大掛かりな出来事を、一つの組織だけで出来るかと言われれば……」

「難しいだろうな」

「ええ。少なくても、レーブルリナ国の上層部に組織と繋がっている者がいるのは確実かと。そもそもの話、これだけの量の奴隷の首輪をそう簡単に用意出来るとは思えませんし」

「それもそうか」


 奴隷の首輪は高額なマジックアイテムだ。

 それを数十個用意するというのは、その辺の組織がそう簡単に出来ることではない。

 ましてや、その組織から派遣されているのはアジャス達だけとは限らない。

 このギルム以外にも組織の者が派遣されているのは、ほぼ確実と言ってもよかったのだ。

 そちらもアジャス達と同様に奴隷の首輪を持たされていると考えれば、一つの組織の仕業と考えるのは無理があった。


「では、取りあえずこちらはこれで失礼しますね。今回の一件は解決したと人を走らせていますが、色々と詳細を報告する必要もあるでしょうから」

「ああ、分かった。今回は色々と助かったよ。イルゼに代わって礼を言わせてくれ」

「いえ、こちらこそ紅蓮の翼の方々の力を借りることが出来て、助かりました」


 ダールがレイに、そして紅蓮の翼やエレーナ、アーラに向かって深々と一礼する。

 尚、エレーナの従魔のイエロは、セトの背の上に乗って遊んでおり、そんなダールに気が付いた様子はない。


「ああ、それと捕らえられた女達はどうなるんだ?」

「そうですね。恐らくどこで捕まったかといった事情を聞いたら、数日分の生活費を持たせてそのまま解放することになるかと」

「……へぇ」


 ダールの言葉に、レイは少し感心した様子で呟く。

 事情を聞いて解放するというのは予想通りだったが、まさかそこに数日分ではあっても、生活費を持たせるという真似をするとは思わなかったからだ。

 驚いたのは、レイだけではなく他の面々も同様だ。

 実際、そのような真似をする領主というのは、殆どいない。

 それだけに、今回の一件は色々と特別なのだということが分かってしまう。


「その、今回の件はギルムの増築工事で集まった者達が大勢だったというのが絡んできます。なので、その辺りの事情が関係しているらしいですよ。もっとも、これは世間話で同僚から聞いた話なので、正確ではないかもしれませんが」

「ふーん。ダスカーも増築工事にケチをつけられたくないんでしょうね。それで起きる風評被害を考えれば、数日分の生活費はそう大したものじゃないでしょうし」


 ダールの言葉に、マリーナが納得したように呟く。

 もっとも、それもダスカーが善良な部類に入る領主だからこその話なのだろう。


(勿論、善意からだけじゃない筈だ。今回の一件は、ミレアーナ王国にとって……いや、中立派にとって、大きな利益となる可能性もある。まぁ、その利益……リターンの為に負うリスクも相応に大きかったけど)


 今回はアジャス達を止めることが出来たから、特に何の問題もない。

 だが、もしアジャス達の取引が無事に終了し、そしてギルムの外に無事脱出出来ていれば……ダスカーの面子は今以上に潰れていただろう。

 そのダスカーが、今回の件を理由にしてレーブルリナ国に対して様々な要求をするのは確実だろう。

 そこから得た利益の全てがダスカーの物になるということはないだろうが、それでも大きな臨時収入になるのは確実だった。

 また、今回の一件のケジメや落とし前といったものをつける必要もあるだろう。


(ともあれ……)


 その辺りを考えるのは自分の仕事ではないと、レイはイルゼに視線を向ける。

 長年追い求めてきた仇を倒した。

 その実感があるのかないのか、レイには分からない。

 だが、イルゼがどこか呆然とした様子で額に短剣が突き刺さったまま地面に倒れているアジャスを見ているのは間違いない。

 本来ならもう少しそっとしておいた方がいいのではないか。

 そう思わないでもないレイだったが、そろそろ夜も遅くなってきた。

 レイ達がスラムにやってくる前に既に日付は変わっており、時間的にはまだ夜だが、もう数時間もすれば朝日が顔を出す。

 レイを始めとして、紅蓮の翼の面々は増築作業でも主力という扱いになっている。

 そうである以上、眠いので仕事を休みます……などと言える訳もない。

 もっとも、エレーナとアーラは日中特にやることがないので、普通に寝ることも出来るのだが。

 ただ、レイ達は冒険者だ。

 そうである以上、依頼で徹夜をすることもある。

 幸いにもレイはそのような依頼を受けたことは殆どなかったが、これもいい経験と考えることも出来る。


(そんな経験をいい経験なんて考えたくはないけどな)


 睡眠というのは、レイにとっても至福の時間の一つでもある。

 また、レイの身体が普通の人間とは比べものにならない性能を持っていても、睡眠が不必要というものではなく、必須の代物だ。

 その辺りの事情を考えれば、やはり徹夜というのは好ましいものではないのだが。


「イルゼ、そろそろ朝になりそうな時間だ。少しでも眠っておいた方がいいぞ」

「……ええ」


 レイの言葉で我に返ったのか、イルゼは地面のアジャスから目を逸らし、レイを見る。

 まだぼうっとしているように見えるイルゼだったが、それでもある程度は我に返ったのだろう。レイの言葉に小さく頷くと、そのまま今の場所から移動しようとして……ふと、動きを止めた。

 そして再度地面に倒れているアジャスの死体に視線を向ける。

 傍から見るとイルゼが何を考えているのかは分からない。

 復讐を遂げた喜びに浸っているのか、人を殺したという罪悪感に襲われているのか……もしくは、それ以外の何かか。

 ともあれ、レイの目から見てもイルゼは普通の状態ではないのは間違いない。

 だが、男の自分がイルゼの世話をするのも、外聞が悪い。

 そうである以上、イルゼの世話は誰か女に任せた方がいいと考えるのは当然だった。

 幸いにも、紅蓮の翼はレイ以外全員女だし、この場にいるエレーナとアーラの二人も女だ。

 そうであれば、イルゼの世話を頼める相手も大勢いる。

 そんな中……レイの視線が止まったのは、マリーナ。


「マリーナ、頼めるか?」

「ええ、任せてちょうだい」


 ふふっ、と。マリーナはエレーナとヴィヘラに笑みを浮かべると、イルゼの側に近づいていき、耳元で何かを囁く。

 そんなマリーナの姿を見て、エレーナとヴィヘラは、それぞれヒクリと頬を動かす。

 レイに頼られたのが自分だったことに、勝ち誇った笑みを浮かべたからだ。

 マリーナ本人にはそのようなつもりはなかったのだが、少なくてもエレーナとヴィヘラの二人はそのように感じた。

 だが、今の状況で何かを言おうものなら、それは自分がマリーナに嫉妬しているように見える。

 また、復讐を果たしたイルゼのことを思っても、ここで何かをいうのはやめておいた方がいいだろうと判断し、二人とも少しだけ強い視線でマリーナを見るだけですませた。

 ……もっとも、少しだけ強い視線というのは、あくまでもエレーナ達にとっての話だ。

 その場にいた他の者達……特にエレーナ達との接点が普段はない諜報部隊の面々は、何人もが我知らずに膝が震え、奥歯が鳴っていた。

 諜報部隊の面々は歴戦の猛者の集まりなのだが、そのような者達にとってもエレーナやヴィヘラから放たれる闘気や殺気は背筋を冷たくするようなものだったのだろう。


「うん? どうしたんだ?」


 そうレイが尋ねた瞬間、闘気も殺気も綺麗に消える。


「いえ、何でもないわ。取りあえず、イルゼはしっかりと休ませた方がいいわ。ある程度時間が立てば、少しは気持ちの整理もつくと思うし」

「私もヴィヘラの言う通りだと思う。イルゼにとって、人を殺すという行為は今回が初めての経験だったのだろう? であれば、興奮するなり落ち込むなりするのは当然のことだ」


 この場にいる全ての者が、何らかの形で人の命を奪うという行為の経験者だ。

 だからこそ、エレーナもイルゼの気持ちが分かったのだろう。

 ……もっとも、レイの場合はこちらの世界に来た時にその辺りの常識を弄られているので、人を殺しても、それが自分と敵対する相手であれば特に何も感じなかったのだが。

 ともあれ、こうして夜中に起こった騒動は終わる。

 ただし、今回の一件そのものは無事に解決したが、後々に残る争いの種、災いの種が幾つも生み出される……いや、表に出ることになったが。

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