第986話
「ヴィヘラ殿、昨日来たばかりだというのに、また随分と早いな」
メイドに案内された執務室で、ダスカーは書類を片付けながら部屋に入ってきたヴィヘラへと声を掛ける。
ヴィヘラから皇女ではなく一介の冒険者として扱うようにと要望されただけに、ダスカーの口調はそこまで堅苦しいものではない。
「ええ。ちょっと厄介な事態が起きてね。報告をしておいた方がいいと思って。構わないかしら?」
てっきり笑みでも返ってくるのかと思っていたダスカーだったが、ヴィヘラから返ってきたのは真剣な表情であり、その両隣にいるレイやビューネもまた同様にふざけた様子は一切ない。
そんな三人の様子に、ダスカーは嫌な予感を覚えつつソファへと座るように促し、ここまでヴィヘラ達を案内してきたメイドに紅茶を持ってくるように命じる。
そして読んでいた書類を執務机の上に置き、ソファへとやってきてヴィヘラ達の正面へと腰を下ろす。
「それで、一体どんな用件なんだ? その様子を見る限りだと、かなり厄介そうな感じだが」
「そうね。厄介……と言うよりは面倒臭いって言った方が正しいと思うわ」
溜息を吐きながら告げるヴィヘラの表情は憂いに満ちており、ダスカーも一瞬見惚れる。
一瞬見惚れはするが、それでもすぐに我に返ることが出来るのはマリーナによる耐性があるからだろう。
「厄介じゃなく面倒臭い、か。……正直に言わせて貰えば、そういう面倒はあまり好まないんだがな。それで? どんな面倒が起きたんだ?」
「ベスティア帝国の錬金術師が、ギルムに対して何かを仕掛けようとしている可能性があるわ」
「……ベスティア帝国の?」
ヴィヘラの口から出たその言葉に、ダスカーの眉が顰められる。
面倒事と言っても、てっきりヴィヘラの美貌を巡ってレイと他の冒険者や貴族、商人といった者達が騒動を巻き起こしたとか、その程度の面倒事だと思っていた為だ。
だが実際にヴィヘラの口から出て来たのは、ベスティア帝国の錬金術師という言葉。
予想外であり、ヴィヘラの口から出た面倒だというのはこれ以上ない程に事実なのだというのを理解してしまう。
「それは確かに面倒だな。……だが、何故ベスティア帝国が今、ギルムに何かを仕掛けようとする? いや、理由としては予想出来るが……」
ダスカーの視線がレイへと向けられる。
去年起きたベスティア帝国の内乱。これにレイが関わっていたのは、少し情報に聡い者であれば知っている者は多い。
そして第三皇子派が内乱で勝てたのは、レイが協力していたからという話も当然理解出来るだろう。
「幾つか予想出来るけど、やっぱりその中でも一番可能性が高いのはレイに対する復讐……でしょうね」
ダスカーに続けて、ヴィヘラの視線もレイへと向けられた。
そんな二人の視線を向けられたレイだったが、何を言うでもなく黙り込む。
ビューネも特に何を言うでもなく黙り込んでおり、執務室の中は沈黙に包まれる。
そんな沈黙が数十秒続き……やがてその沈黙を破ったのは、部屋の中にいる者ではなく部屋の外から聞こえてきたノックの音だった。
「失礼します」
そう言ってメイドが持ってきたのは、人数分の紅茶とサンドイッチが大量に載っている皿。
既に夕日も沈んで完全に夜になっており、空腹なのではないかというメイドの心遣いだ。
それを理解したダスカーが感謝の言葉を述べると、メイドは笑みを浮かべて一礼して執務室を出て行く。
「……まぁ、難しい顔をして考え込んでいても何かいい考えが浮かぶ訳じゃない。取りあえず腹ごしらえでもしておくか。ヴィヘラ殿も食うだろ?」
「いえ、私はここに来る前に酒場で食べてきたから……」
「そうか。レイとそっちの嬢ちゃんは?」
ヴィヘラの体型を維持するというのは大変なのだろうというのは、ダスカーにも理解出来た。
出る所はしっかりと出ているのに、ひっこむ場所には贅肉が殆ど存在しないという、女の目から見れば羨ましいとしか言えないだろう体型。
もっとも結局ダスカーは男なので、普通の女がどれ程ヴィヘラのような体型に憧れを持っているのか想像するしかないのだが。
「あ、じゃあ俺は食べさせて貰います」
「ん!」
元々大食いのレイと、小さな身体に見合わず食べるビューネはダスカーの言葉に頷いてサンドイッチへと手を伸ばす。
そんな二人の様子を、ヴィヘラは紅茶を飲みながら少しだけ羨ましそうに眺める。
サンドイッチを食べることにより執務室の空気は先程よりも軽くなって、錬金術師のことは一先ず置いて今日のサイクロプス討伐についての話題がレイやヴィヘラの口から漏れる。
「サイクロプスが合計七匹、それに希少種か上位種か。……よくそんな集団を相手にして勝てたな」
「俺の場合は赤いサイクロプスだけでしたから、そう難しくはありませんでしたよ」
「私の場合は普通のサイクロプスだったけど、戦闘の相性が良かったんでしょうね。幾ら強力な一撃を持っていても、ただ振り回しているだけのような攻撃なら避けるのも簡単だし」
容易く告げるその様子は、実際に戦った時に全く苦労しなかったというのをこれ以上ない程明確に現している。
そのことに気が付いたダスカーは、呆れたように溜息を吐く。
それだけの強さを持っているというのは理解していたが、それでも実際にこうやって目の前でそれを証明するような行為をされると、驚くのは当然だった。
ダスカーも領主の座に就く前は王都で騎士団に所属していただけあって、自分の力は自信がある。
それこそ、その辺の兵士や冒険者、騎士を相手にしても大抵の相手には勝てると思う程度の自信は。
現在も領主としての仕事の傍らで訓練は欠かしておらず、決して騎士時代よりも腕が鈍っているということはない。
もしダスカーが領主を務めている領地がもっと平和な場所であれば、ダスカー本人がそこまで強くなければいけないということはなかっただろう。
だが、ギルムが……そしてラルクス辺境伯領は辺境であり、住民はその領主に辺境で戦い抜くだけの力を求める。
だからこそラルクス辺境伯家の跡継ぎは若い時に騎士団に入るということが家訓として定められているのだから。
そんなダスカーの目から見ても、ヴィヘラは強い。
自分が戦っても勝てるかどうかは分からない……いや、ほぼ確実に負けるだろうと思える程の実力を持っていると本能で理解していた。
騎士として生きてきただけに、悔しい思いを抱かない訳ではない。
だが同時に、領主としてはヴィヘラのような強さを持つ人物がギルムにいてくれるというのはこの上ない喜びでもあった。
(俺の悔しさがどうこうってよりも、ギルムの利益の方が重要だしな)
最終的にはそう結論づけると、次に思い浮かぶのはこの件をどうするべきかということだ。
(ベスティア帝国に抗議をする? まさか、折角現在いい関係なのに、わざわざそれを台無しにするような真似をすればまた戦争になる。だとすれば、裏から向こうに連絡を取る必要があるな。……この件をこっちで片付けるというのは、こっちにも利益がある。錬金術師を確保すれば、その技術を得られるとか、な)
サンドイッチへと手を伸ばしながら考えるダスカー。
そんなダスカーを前に、レイとヴィヘラは特に口を開くこともせず黙ったまま、サンドイッチや紅茶へと手を伸ばす。
……尚、ビューネはそんなのは関係ないと、一人黙々とサンドイッチを食べていた。
もっきゅもっきゅとでも表現すべき行動のビューネは、傍から見れば愛らしいと表現してもいいだろう。
無表情でいながら一生懸命にサンドイッチを口に運んでいる様子は、小動物を思わせる愛らしさがある。
錬金術師にどう対応するのが最善かということに頭を悩ませていたダスカーだったが、そんなビューネの姿を見ていると悩んでいるのが馬鹿らしくもなってしまう。
(そうだな。結局は生かして捕らえる必要がある訳だ。いや、最悪の場合は殺しても仕方がないが、生かしていれば色々な意味で俺の利益になる、か。そして錬金術師を生かして捕らえるとすれば、相当に腕の立つ者が必要だ)
錬金術師だけであれば戦闘力に関してはそれ程心配する必要はない。
元々錬金術師というのは必ずしも戦闘に向いている訳ではないのだから。
勿論マジックアイテムの専門家である以上、誰よりもマジックアイテムを理解しているので、それを使いこなすだけの実力もある。
だが、一流……いや、一流半程度の戦士を相手にすれば、基本的には何も出来ずに負けるというのが一般的な認識であり、大多数の意見だった。
(それが普通の錬金術師なら、だがな)
サイクロプスにマジックアイテムを渡すような錬金術師が、普通な訳はない。
戦闘力にも長けているか、戦闘を得意とする仲間がいる筈だった。
それこそ、サイクロプスを相手にしてもどうにか出来るような実力の持ち主が、だ。
その辺を考えると、今回の件を任せられる人物はそう多くない。
……そう、例えば今ダスカーの前にいる人物達のように。
今回の件に最初から関わっており、更に実力については申し分のない人物。
更にレイはセトという従魔がおり、ヴィヘラはサイクロプス五匹を相手にして勝てるだけの実力を持つ。
今ダスカーの前で一心不乱にサンドイッチを食べているビューネも、盗賊としての実力は間違いなく高いというのはダスカーにも理解出来た。
(ベスティア帝国の錬金術師が相手となると、ヴィヘラ殿には少し酷なような気もするが……)
そう思いながらも、ベスティア帝国の錬金術師が引き起こした騒動なのだから関係者であるヴィヘラに手伝って貰ってもおかしくはないだろうという思いもある。
「ヴィヘラ殿、レイとそっちのビューネとかいう子供も……指名依頼を受けてくれないか?」
「依頼内容は今回の件を企んだ錬金術師の捕縛……かしら?」
「そうだ。可能な限り生け捕りで頼む」
「……どうする? 私は立場上断るのはちょっと難しいけど、レイは別に無理に受ける必要はないんじゃない?」
視線を向けて尋ねてくるヴィヘラに、レイは首を横に振る。
「いや、俺も受ける。錬金術師が相手なら、いいマジックアイテムも手に入れることが出来るかもしれないし」
「そっちが理由なのね。レイも狙われている張本人の一人なんでしょうに」
「そう言ってもな。どのみち狙われるんなら、少しでも報酬は多い方がいいだろ?」
「捕縛した錬金術師の持っているマジックアイテムに関しては、好きにして構わん。ただ、言うまでもないがそのマジックアイテムによって妙な騒動は引き起こしてくれるなよ。ああ、勿論いらないマジックアイテムがあればこっちで買い取らせて貰いたい」
そう告げたのは、レイが集めているマジックアイテムは基本的に実用的な物であるとダスカーが知っていたからだろう。
マジックアイテムというのは、それだけで稀少な価値のある物が多い。
中にはレイが欲しがらないような物であっても、ダスカーの立場では非常に貴重な物があるということがあってもおかしくはない。
「分かりました。こちらとしても、いらないマジックアイテムを抱えているよりも買い取って貰った方がいいですし」
ミスティリングがある以上、いらないマジックアイテムが幾らあっても本当は困らないのだが、死蔵するだけになっては意味がないということもあり、レイはダスカーの提案に了承の返事をする。
「では指名依頼の件はギルドの方に連絡をしておくから安心してくれ。……ヴィヘラ殿、それとビューネもよろしく頼む。それと今回の件は色々と表沙汰にするのは不味い。ベスティア帝国の錬金術師が関わっているということは、くれぐれも内密にしてくれ。レイにその件を教えた二人にも、他言しないように人をやっておく」
ダスカーの言葉にヴィヘラは頷き、ビューネもまたサンドイッチを食べながら頷きを返す。
こうして、レイはギルムへと戻ってきた翌日にはサイクロプスの騒動へと巻き込まれることになる。
「レイは騒動に愛されすぎじゃないかしら?」
領主の館からの帰り、ふとヴィヘラが呟く。
その言葉は間違っていないだけに、レイも反論する言葉を持たない。
「そういう星の下に生まれてるんだろうな」
「グルゥ」
何故かレイの言葉に同意するように、セトが鳴く。
「ん」
そして、セトの隣を歩いているビューネもまた、同意するように短く呟く。
「それより、何か食べていかないか? 暖かいスープとか」
話を誤魔化すように呟くレイ。
周囲は暗く、春になったばかりでは夜になるとそれ程暖かくはない。
そういう意味では、レイの提案は決して間違っているものではなかった。
……ただし。
「さっきあれだけサンドイッチを食べたのに、まだ食べるの? ……ビューネも?」
「ん!」
ヴィヘラの言葉に、ビューネは食べたいと頷きを返す。
「……貴方達の身体って一体どうなってるのかしらね? 勿論セトも食べるんでしょう?」
「グルゥ!」
ヴィヘラの言葉にセトが同意を示して鳴き声を上げ……仕方なくヴィヘラも二人と一匹に付き合うことにするのだった。
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