第953話
その日、レイはこの冬の間にずっと自分の部屋としていた場所から出る前に、その部屋を一瞥する。
(いや、ずっと自分の部屋って訳じゃないか。スティグマに襲撃されたし)
冬の夜に行われた戦いに思いを馳せながら、改めて部屋へと視線を向ける。
あの戦いの後で結局レイは別の部屋へと移ることになった。
幸い職員寮には空き部屋が他にも幾つかあった為、特にレイが部屋に困ることはなかったのは幸運だったのだろう。
「世話になったな」
短くそれだけを告げ、部屋を出る。
学園長のエリンデから、今日が教官として最後の日だというのは十日前に言われている。
つまり、今日の授業が最後の授業ということになる。
レイがこの士官学校に教官として雇われてから二ヶ月程。最初の半月程はスティグマの件もあって色々と騒がしかったが、それ以後は特に何か騒動もなく穏やかな日々を過ごすことが出来ていた。
……もっとも、Sクラスの生徒達と毎日模擬戦を行うというのが穏やかと表現出来るかは疑問なのだが。
(いや、俺にとっては命を狙われたりしない分だけ十分穏やかか)
自分の波瀾万丈さに呆れながらも、レイがやって来たのは職員寮の厩舎。
セトにより二度も内部を破壊されてしまった厩舎だったが、修繕費に関してはレイがきちんと弁償していた。
クエント公爵家からは自分達が出すと、特に二度目の件では自分達の失態が原因でレイがスティグマに襲われ、その結果としてセトが厩舎を飛び出すことになったのだからと言われたレイだったが、その言葉に首を横に振って拒否をする。
金に困っていないというのもあったし、セトの件で迷惑を掛けてしまったのは自分なのだから、あくまでも自分で修繕費を出すと。
最終的にはクエント公爵側……正確にはその代理人的な扱いであるエリンデも納得し、修繕費はレイが出すことになった。
「グルルルルゥ!」
レイが来たのを感じ取ったセトが、厩舎の中に入ってきたレイを見て嬉しそうに喉を鳴らす。
この厩舎にセトが入った時であれば、間違いなく周囲の馬達が騒いでいただろう状況ではあったが、二ヶ月近く一緒の厩舎で暮らせば馬もセトには慣れるらしい。
セトが馬に対して攻撃的な態度を一切取らなかったというのも大きいのだろうが。
今では、馬にとってセトは気安い相手……とはとても言えないが、それでも自分から関わらなければ何もしないというのを理解しているのだろう。まさに触らぬ神に祟りなしといった関係を築いている。
……出来ればセトは一緒に遊んで欲しかったのだが、それは完全に高望みだった。
「さ、セト。最後の授業だし、今日は一緒に行くか」
「グルゥ!」
レイの言葉に、嬉しそうに鳴き声を上げるセト。
スティグマの件が片付く前から、レイは時々セトを模擬戦へと連れて行っていた。
日によっては連れていかないこともあったのだが、今では二日に一日の割合……いや、それよりも多く、三日に二日程度の割合で模擬戦へと連れて行っている。
それだけセトがレイと一緒にいたいと円らな瞳でレイにお願いしたというのもあるし、レイもセトと一緒にいるのが全然嫌ではなかった為だ。
……もっとも、そのおかげで三年と四年のSクラスの生徒達は何度となくセトと戦うことになってしまったのだが。
そのおかげか生徒達のセトに対する恐怖心もかなり薄れており、中にはセトの愛らしさに陥落した者もいる。
それでもギルムでのセト人気に及ばないのは、やはりセトと戦うということが関係しているのだろう。
どうしても戦ってしまうと自分よりも圧倒的に強いというのが分かってしまう為、ギルムの住人程セトに対して気安く接することが出来なかった。
「グルゥ、グルルルルルルゥ!」
そんなセトではあったが、最初は怖がられていたのに今は何人か一緒に遊んでくれる相手がいるというのはやはり嬉しいのだろう。
機嫌良さげに喉を鳴らしながら、レイと共に体育館……ではなく、グラウンドへと向かう。
既に雪も殆ど残っておらず、グラウンドでも普通に運動が出来るようになった為だ。
……例年であれば、雪が完全になくなってグラウンドが使えるようになるまではまだ時間が掛かるのだが、天気が良かった為か今年はもうグラウンドを使えるようになっている。……ということになっていた。
実際にはレイがこの日の為に魔法を使って雪を強制的に溶かし、更にはデスサイズのスキルである地形操作を使ってグラウンドを使えるようにしたというのが正しい。
多少無茶ではあったが、エリンデに最後の授業の為と言って納得させたのだ。
そんな訳でレイとセトがグラウンドへと到着すると、そこにいた生徒はレイが教えている全ての――三年と四年両方のSクラスの――生徒の姿があった。
他にもレイの授業でのサポートを担当しているグリンクと、生活のサポートを担当しているサマルーン、更には学園長でもあるエリンデの姿もあり、当然のようにマルカとコアンの姿もある。
(多分、サルダートもどこかにいるんだろうな)
スティグマの一件以降、レイはサルダートの姿を見ていない。
ランクS冒険者……それも遠距離からの攻撃を得意とするランクS冒険者だ。出来れば手合わせをしたいと思っていたレイだったが、サルダートの方はそんなレイの考えを読んだかの如く姿を現すことはなくなっていた。
(もっとも、あれでもランクS冒険者なんだから、普通に忙しいだけって可能性は十分にあるけど)
どうしてもサルダートの性格を考えると、レイの中ではその性格と同じくサルダートの扱いもどこか軽くなってしまう。
ともあれ、今ここにいないのだからこれ以上何を言っても仕方がないと判断して口を開く。
「さて、三年と四年のSクラスにこうして集まって貰ったのは、今日が最後の授業になるからだ」
レイの口からその言葉が漏れると、全員がざわめく。
最初はレイを侮っていた者も多かったが、今やここにいる生徒達にとってレイというのは自分達では手が届かない場所にいる強者だというのは十分に理解している。……いや、理解させられている、と表現するのが正しい。
そんな相手とこの二ヶ月余りの間、ほぼ毎日模擬戦を行ってきたのだ。当然そうなれば生徒達の実力が冬になる前と比べても数段上がっているのは事実であり、それを実感出来るからこそ出来ればレイにこのまま教官としてここにいて欲しいと思う者も多かった。
……もっとも、中にはセトの愛らしさを見ることが出来ないと嘆く者や、物好きにもレイと会えないのを寂しがる者もいたのだが。
周囲のざわめきを聞きつつ、レイは言葉を続ける。
「最後の授業の内容は極めて単純だ。……お前達全員と、俺とセト」
レイの口から出た言葉に、一瞬周囲が静まり返った後で先程よりも大きなざわめきが起きる。
そのざわめきを黙ったまま眺めているのは、エリンデを始めとした生徒以外の者達。
既に最後の授業で行われる模擬戦がどのようなものなのかを知っていたからこそだ。
当初その話を聞いた時は色々と反対したのだが、結局はレイの意見が通ることになった。
「落ち着け。お前達がこの二ヶ月の間、どれだけの力を付けたか。……それを俺に見せてみろ。もし情けない真似しか出来ないようなら、Sクラスなんていうのはお前達には勿体ない代物だ。それこそ騎士や冒険者じゃなくて、その辺の兵士にでもなっていろ」
あからさまな挑発の言葉だったが、その効果はこれ以上ない程に発揮された。
生徒達の殆どの目に闘争心が宿る。
……中には何人かレイの実力を知っているが故に怯えの表情を浮かべている者もいたが、それでも殆どの生徒達がやる気になっているのは事実だった。
「よし、じゃあそれぞれ武器を手にしろ。こうして全員を相手にするのは最初の授業以来だな。……まぁ、あの時は一クラスずつだったから、二クラス同時というのは今日が初めてだが」
レイの言葉を聞きながら、生徒達はそれぞれ模擬戦用の武器を手に取っていく。
本来であれば二クラス全員が同時に使えるだけの模擬戦用の武器はなかったのだが、今回の件の為にレイがエリンデに頼んで用意して貰っていた。
レイもまたいつものように模擬戦用の槍を手に、大きく叫ぶ。
「来い! お前達の力を俺に見せてみろ!」
それを始まりの言葉として、レイとセト対三年と四年のSクラスという戦いが始まる。
真っ先にレイへと向かってきたのは、三年Sクラスの中でも血の気の多いと言われている男。
手に持ったハルバートでレイに一撃を食らわせてやる、と大きく振るう。
「毎回言ってるだろ。お前は振りが大きいから、どこを狙っているのか分かりやすいってな」
ハルバートが振り下ろされるよりも、レイの振るった槍の柄が男に到達する方が圧倒的に早い。
男にとっては、振りの大きさがどうこうという理由ではないと言いたいだろう。
それ程の、圧倒的な速度。
吹き飛んでいく男は、そのまま背後から長剣を手に接近しようとしていた女を巻き込み、転ぶ。
「慌てるな! 皆、私の指示に従え! レイを相手に散発的な攻撃を仕掛けても意味がない! 連携だ、連携を心掛けろ! 三年の生徒も、四年の生徒に遅れずに攻撃を仕掛けるんだ! 幾らレイでも、周囲の全てを見渡せる訳じゃない!」
インスラの声が周囲に響き、それを聞いた生徒達はその指示に大人しく従ってレイへと攻撃を開始する。
「ほう? 確かあのインスラという生徒は傲慢な……それこそ、悪い意味で貴族らしい貴族だったと思うのだけど」
模擬戦の様子を見ているエリンデが、感心したように呟く。
エリンデの知っているインスラという生徒であれば、あのように人に命令を出す際にも傲慢さが滲み出ていた筈だった。
それが鼻につき命令が正しくても従わない者が出たり、従うにしても若干のタイムラグがあったりしたのだが……今の命令にはそんな傲慢さは一切感じられない。
「この二ヶ月、レイさんに叩きのめされ続けてましたから……伸びていた鼻も叩き折られたといったところでしょう」
グリンクの言葉に、サマルーンも頷く。
模擬戦ではなく魔法の教官をしているサマルーンだが、レイが士官学校にやって来てから数日が経つと明確に生徒達の意識が変わったのを実感していた為だ。
「レイもそうじゃが、セトの方も中々に凄いことになっておるぞ」
マルカの言葉に、模擬戦を眺めていた者達の視線がセトの方へと向けられる。
そこでは、セトが振るった尻尾の一撃で手に持った槍諸共に吹き飛ばされている男の姿があった。
同時に、正面からセトへと挑んでいる女が振るう長剣は鋭いクチバシであっさりと弾かれ……長剣の刀身が半ばで折れる。
「うわっ、グリフォンのクチバシって……いえ、セトなら当然という気もするんですが、それでも……」
「……セトが模擬戦に参加してから武器の補充が頻繁にされるようになったのは、私としても悩みの種です。もっとも、普通であればグリフォンとこうやって戦うなんて真似は出来ないのですから、安い出費なのは分かってるんですが」
サマルーンの言葉に、グリンクが溜息を吐きながら呟く。
模擬戦の教官としては、グリフォンと戦うという機会が生徒に与えられたのは非常に嬉しいのだが、予算というのは無限ではなく有限でもあった。
セトも人に対しては致命傷にならないように、そして大きな怪我をしないようにと手加減はしているのだが、武器に対してはそうもいかない。
クチバシだけではなく、爪を使った一撃でも模擬戦用の武器は傷がついていく。
その辺だけを考えれば、同じ模擬戦用の武器を使っているレイの方がセトよりも上手くあしらっている。
そんな風に話している間にも、生徒達は次々に戦闘不能の状態へと追いやられていく。
そして模擬戦開始から二十分後……地面の上に立っているのは、レイとセト……そして足をよろめかせながらではあるが、かろうじてインスラのみだった。
「こんなところか」
地面に倒れて疲労と痛みで立ち上がれない生徒達を一瞥し、レイは言葉を続ける。
「二ヶ月前に比べると、間違いなくお前達は強くなっている。……ただし、セトを見れば分かると思うが、この世にはお前達の想像以上の存在がいるのも事実。……最後の餞別だ、もう一つ面白いものを見せてやろう」
そう告げ、レイの視線が向けられたのはエリンデ。
その視線を向けられたエリンデは、前もって話を聞かされてはいたものの若干不本意そうな表情を浮かべてレイに頷きを返す。
それを確認したレイは、生徒達から何をするのか……いや、されるのかといった視線を向けられつつ、魔力を高めていく。
新月の指輪の効果で魔力の隠蔽は出来ていたが、それでもレイから感じられる圧倒的な何かは隠しようもないままに生徒へと畏怖を抱かせ……次の瞬間、レイの身体が赤い何かに包み込まれ、それを見た生徒達の殆どは腰を抜かす。
唯一立っていたインスラもそれは同様であり、更に何人かは炎帝の紅鎧に包まれたレイを見て、意識を失う者も多い。
「これが、お前達が知らない次元の力だ。お前達はいずれこのくらいの力を持っている奴と戦うことになる可能性もある。その時に混乱しないよう、力を身につけておくことを期待する」
こうして、この士官学校におけるレイの最後の授業は終わるのだった。
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