第612話
闘技大会本戦初日。
予選の時と比べても、より大勢の人々が闘技場へと集まっていた。
当然ベスティア帝国の皇帝や皇子、皇女、あるいは貴族達も多く集まっており、闘技大会に興味がないという人物でも皇帝を始めとした皇族の顔を見る機会だと闘技場に足を運ぶ者もいる。
つい先日まで帝都の中には人が溢れていたのだが、今では街中にいる人々の姿も疎らとなっていた。
それも当然だろう。現在この帝都に来ている人々の多くは、その殆どが闘技大会を目当てに来た者達なのだから。
勿論全員がそうではないが、それでもやはりベスティア帝国で行われる年に一度の催し物に興味を抱かない者は少ない。
「うわぁ……何だよこの人の数は」
闘技場の周りで、あまりの人の多さに思わず呟く人物がいた。
この人物は、今年初めて闘技大会を見るためにベスティア帝国の田舎にある村からやってきたのだが、何だかんだ色々と理由があって到着したのは昨日。
闘技大会の予選どころか、数日前に行われた開会式にさえ間に合わなかった不運な人物だった。
もっとも、田舎の村から帝都までやってくるのにも一苦労なのだから、到着する時期が一週間や二週間ずれるというのはそう珍しい話ではない。
天気や事故、あるいは盗賊の襲撃。その他諸々の事情を考えれば、寧ろ馬車を使った商売のついでとはいっても無事に帝都へ到着したことは褒められてしかるべきだろう。
本人にとっては折角の闘技大会の見物だというのに、闘技場周辺にいる人の多さに思わず声を上げてしまったが。
「何だよ兄ちゃん、闘技大会は今日が初めてか?」
そんな男の様子を不憫に思ったのか、あるいは単純に並んでいるのに飽きたのか、近くにいた40代程の男が声を掛ける。
「ん? ああ。初めては初めてなんだけど……もしかして、帝都ってこれが普通だったりするのか?」
「いやいや、さすがにそんなことはないさ。いつもなら闘技大会の本戦でもこんなに人混みは出ないんだけどなぁ……兄ちゃんは運が良かったのか、悪かったのか……」
「どういう意味だ?」
中年の男の言っている意味が分からず、思わず首を傾げる男。
そんな男に、中年の男は笑みを浮かべつつ口を開く。
「今年の闘技大会は色々な意味で特別でな。……まぁ、兄ちゃんは帝都自体が初めてだって話だからしょうがないか」
「……特別?」
「そうだ。まず、深紅が闘技大会に出場している」
その名前を聞いた男は、思わず首を傾げる。
確か深紅という単語には聞き覚えがあった。春の戦争でベスティア帝国に対して壊滅的な被害を与えた、ミレアーナ王国所属の冒険者だ。
「何でそんな人物がわざわざベスティア帝国にやって来てるんだ? 喧嘩を売りに来たのか?」
思わずといった様子で呟いた男の言葉に、中年の男は違うと首を横に振る。
「聞いた話によると、ミレアーナ王国から招待した人物が深紅を連れてきたらしい。で、その深紅が闘技大会に興味を持って参加することになったとか何とか。まぁ、本当のところは分からないけど、とにかく深紅が出場しているのは事実だ。実際予選で見たしな」
「……え? 予選から出てるのか? 普通そういう特別な選手って本戦から出るんだろ?」
「そうだ。……まぁ、色々と深紅も考えがあるんだろうさ。とにかく予選から出場して、あっさりと本戦に進んだ」
「だろうな」
当然だと頷く男。
幸い男の住んでいた村は田舎であり、春の戦争に向かったのは数人……しかも決して仲がいいとはいえない者達だった。
それでも同じ村の住人が死んだのは気分が良くないし、それだけの実力を持った相手が予選で負けるというのは決して納得出来る話ではない。
だからこそ、男にとって深紅が予選を勝ち残るのは当然だった。
「で、結局深紅が出てるから、怖い物見たさでこんなに人が集まってるのか?」
先程自分が行列の最後尾に並んだというのに、既に今では後ろに数十人近い人数が並んでいる。
それだけ深紅の評判が高いのかという問い掛けに、男は首を横に振って否定した。
「違う。……ここに並んでいる者達が本当に見たいのは、深紅じゃない。いや、勿論深紅の戦いぶりは色々と派手だから見応えはあるんだけどな」
「じゃあ、何でだよ?」
「……闘技大会に参加するからだよ。ランクS冒険者、不動の異名を持つノイズ様が」
「………………は?」
一瞬、どころではない。たっぷりと1分近く沈黙してから、男は思わず声を上げる。
それも当然だろう。ランクS冒険者というだけで非常に希少価値が高い存在だというのに、その人物が闘技大会という人目につく場所に姿を現すというのだから。
元々、不動の異名を持つランクS冒険者のノイズという名前は知られていた。
現在3人しか存在しないランクS冒険者であり、その中で唯一ベスティア帝国に所属している人物なのだから無理もない。
しかしその華々しい活躍の噂は色々と広がってはいるが、これまでは闘技大会に出場するということはなかった。
それだけに、中年の男から聞かされた話は信じがたかったのだ。
無論、中年の男の方もそれは理解していたのだろう。分かる、と頷きつつ言葉を続ける。
「ここでさっきの深紅に話が戻ってくる訳だ。あくまでも噂だが、このままだと闘技大会で深紅が優勝してしまうことになるかもしれないから、それを防ぐ為に用意した切り札じゃないかってことだ」
「ああ、なるほど」
言われてみれば納得出来る話ではあった。
深紅という存在は、ベスティア帝国にとって不倶戴天の敵とすら言ってもいい。そんな相手が自国で開催される最大級の闘技大会で優勝するようなことになってしまえば、面子を潰されるといった話ではなく面子その物を踏みにじられるかの如きものだ。
更に闘技大会には周辺諸国の要人達も招かれており、下手をすればその者達の前でそれが行われる可能性がある。
周辺諸国に覇を唱えているベスティア帝国にしてみれば、それは許されざるべきことだ。
そこまで詳しい話は分からなくても、男にとっても上の面子が云々という問題は理解しやすいものがあった。
「ま、そういう訳で今回の闘技大会は色々と目玉の多い代物になっている訳だ。深紅や不動以外にも異名持ちは何人か出場してるしな」
「……本戦に間に合って良かったと言うべきか、あるいはそういう人物の活躍を予選から見られなくて残念だと言うべきか……迷うな」
「ま、そう悩むな。本戦に間に合っただけ良かったと思うぜ、俺は。何てったって、これだけの大会だ。長く語り継がれることになるのは間違いないだろうし。……お、闘技場の入場が始まったようだな」
徐々にではあるが、列が前に進み始めたのを見て中年の男が笑みを浮かべる。
もう片方の男も、取りあえずはいい席を取ることに集中した方がいいだろうと列に合わせて前に進むのだった。
闘技場の表でそんな風になっているのを全く知らないレイは、改めて控え室の中を見回す。
人数的にはかなり多くいるのだが、それぞれが皆自分の戦いに向けて集中している。
予選の時のように自分に絡んでくる相手がいないのは、レイにとっても幸運だった。
……もっとも、既にレイが深紅であるというのは予選の時に知られている。それを思えば、そんな無謀な行為をする者はいないのだろう。
少なくても、この控え室にいる選手達の中にそのような人物は存在しなかった。
(今日試合があるのは、俺とロドス。ヴェイキュルの3人だけか。せめてどっちかと一緒の控え室だったら良かったんだけどな)
さすがに試合開始の時間まで、ここで1人でただ黙っているというのも味気ない。
かといって、この広い闘技場の中を1人で出歩いている途中で自分の試合になり、それに間に合わなくて棄権という展開も避けたい。
だからこそ、顔見知りが誰かいてくれればよかったのだが……そんな風に思いつつ、レイは周囲を見回す。
武器を手に型を行っている者、目を閉じて精神を集中している者、あるいは偶然顔見知りの相手と一緒になったのか、会話を交わしている者。
色々な者達がいるが、特に会話をしている者はレイが視線を向けるとビクリとする。
怖がっている訳ではないのだろうが、レイと接触すると面倒臭いことになると悟っているのだろう。
事実、控え室の中にいる参加者の数名はレイに向けて殺気にも満ちた視線を送っているのだから。
(恐らく戦争の関係者なんだろうが……いや、実は他の理由だったりしないだろうな?)
何となくそう思いつつも、レイは視線を向けてくる相手を見返して溜息を吐く。
それが挑発に見えたのか、視線の主は思わず持っていた武器を握りしめる。
だが、今行われているのは予選ではなく本戦だ。
参加者同士が試合会場以外で私闘を繰り広げた場合、問答無用で失格となり……更には罪に問われることになる可能性もある。
最初にそれを聞いた時には厳しすぎるんじゃないかと思ったレイだったが、ベスティア帝国の貴族や皇族が闘技場に足を運んでいるのだと考えれば、納得するしかない。
「クレオ選手、試合です。闘技場の方にお越し下さい」
運営委員が控え室に顔を出し、そう告げる。
その声を聞いた、槍を持った男が立ち上がり控え室を出て行く。
そんな参加者の後ろ姿を見送ったレイは、特にやることもないので暇潰しに身体を解すべく柔軟運動を始めた。
さすがにゼパイルの作った肉体だけあって、肉体はかなり柔軟性に富んでいる。
立ち上がり、膝を伸ばしたまま床へと手を伸ばすと、特に痛みを感じることもないまま掌がペタリと床に付く。
そんなレイの様子を何人かが驚きの表情を浮かべて眺めていたが、そんなのは関係ないとばかりに柔軟運動を続けていく。
とはいっても柔軟運動だけでいつまでも時間を潰せる筈もなく、10分程で満足して終わったのだが。
(雑誌とかそういうのがあればな……)
椅子に座りながら、ふと日本にいた時に読んでいた漫画雑誌を思い出す。
暇潰しという意味ではかなり便利な代物であり、あるいはゲーム機の類でもあればもっと便利だろう。
(いや、エルジィンでゲーム機とか持っていたら目立つことこの上ないだろうけど)
内心で考えつつも、自分に向けられている殺気の籠もった視線が面倒臭くなり、その場を立ち上がる。
別に相手をどうこうしようとした訳ではなく、このままここにいてもお互いに気分が悪いだけだろうし、レイとしては純粋に暇潰しをするという意味もあった。
(闘技場の試合を覗いてみるのもいいかもしれないな。勝ち上がっていけばいずれ戦う羽目になる相手もいるだろうし)
自分の試合の順番を忘れないように注意しつつ、控え室を出て行く。
レイと同じような考えの持ち主も多いのだろう。何だかんだと、控え室の中にいる参加者達の姿は大分減っていた。
今もまだ残っているのは、現在行われている試合が終わった後で試合の近い者達が殆どだろう。
そうして背中に殺気の籠もった視線、あるいは興味深げな視線、厄介者に対する視線、実力を探るような視線と、多種多様な視線を向けられつつ、レイは控え室を出て行くのだった。
「……ふぅ」
ようやく息が抜けた。そんな風に溜息を吐いたレイは、改めて周囲を見回す。
闘技場での戦いが盛り上がっているのか、ここまで観客の歓声が聞こえてきていた。
やるべきことはあるのだが、それをするにしても色々と面倒なことになりそうだ。そんな風に思いつつ、闘技場の中を見学するような気持ちで歩き回る。
所々に人の姿はあるのだが、当然控え室に比べると数は少ない。
もっとも、それらの人々にしてもレイを見ると殆どが驚きの表情を浮かべるのだが。
自由に動き回れるのは、やはりレイがその手にデスサイズを持っていないからだろう。
幾らレイが持ったときには重さを殆ど感じないとはいっても、他の者にすればその重量そのままなのだから、もし歩いている時にぶつかったりすれば怪我では済まない可能性もある。
ミスティリングがあるからこそ、それだけの長物を自由に取り出すことが出来、邪魔にならないように持ち歩けるのだ。
(ま、それはそれ、これはこれって奴だけどな)
通路を歩いている相手から畏怖の視線を向けられつつ、内心でそんな風に考える。
本来であれば、自分がここにいるというのは色々とおかしなことなのだろう。何せ、自分はこのベスティア帝国に取ってみれば不倶戴天の敵なのだから、と。
(そういえば、エルクはきちんと俺に賭けてくれたよな? いや、ミンがいるんだから心配はいらないか)
周囲を歩き回りつつ、今回の試合でも自分の勝ちに賭けるようにエルクに任せたのを思い出しながら、闘技場の見学を続けるのだった。
尚、残念だったことは闘技場の客目当てに売られているだろう屋台を発見出来なかったことか。
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