第17話17.皇太子 キリル・シン・レイ


 皇太子のキリルは今年十一歳だ。アレの八つ年上である。彼は父に似て美しい少年だった。

 父と同じ銀の髪は、母譲りの柔らかなウエーブを描いていた。整った鼻筋に、薄い唇。つり上がった目尻は冷たさを感じさせるが、丸みを帯びた頬にはまだ幼さが残っていた。氷河のように澄んだ水色の瞳の奥は、虹色の光彩が煌めいている。 


 幼いながらも頭脳明晰な彼は父の遠征中に皇帝代理としていくつかの仕事を任されていた。

 そこで変な話が報告されたのだ。


 ―― 今朝早く龍が天使を背に乗せ皇宮を旋回するのを複数の兵士が見た ――


 あり得ないと思った。

 龍は皇族の紋章にもなっている伝説の生き物だ。皇族を守る聖獣だとされ、王族のみが入室を許される場には、必ず龍の石像がある。

 龍の守る扉は、遙か昔に何らかの魔法がかけられ、皇族以外は入室できないようになっているが、龍自身が扉を守っているわけではない。そんなことは子どもでも知っている。

 

 あり得ない。しかも天使? 集団で幻覚でも見たのだろうか。今朝は霧が深かった。日輪を勘違いしたのか?


 しかし、信用できる複数の目撃証言があり、北辰宮の標樹苑に降りたのではないかという。

 皇后と皇女が不在の皇宮では、ミオンが後宮の最高責任者だった。しかし、今日は女官長のミオンもいない。

 報告を受けキリルは、側近の皇宮騎士団長をつれ、くだんの庭にやってきた。

  

 そこで、キリルと皇宮騎士団長は信じられないもの見た。


 庭の中央の木に眠る、龍と幼女の姿である。

 きらめく朝日を浴びて、黄金に輝く龍。その腹にぴったりと寄り添って眠っているピンクの髪の小さな女の子と、オレンジ色の大きな猫。龍の片手は、フワフワとした髪をもてあそんでいる。揺れる尻尾が機嫌の良さを物語っているようだ。

 分厚い本が三冊。二冊は積み重なったまま、一冊はページが開いたままで、標樹の葉が乗っている。

 まるで一枚の宗教画のような美しさである。


 桜色の長い髪はフワフワとし、雲のようにはかなげだった亡き皇后を思い起こさせた。

 木綿素材の質素な白いワンピースは、サイズが少し大きく皇族が着るものとは思えない。しかし、デザインは今は着る人のいない皇后の祖国ユール国のものだ。


 キリルは息をのんだ。


 皇宮騎士団長は固唾をのんで見守る。彼は、この幼女がアレだと気がついたからだ。ただ、アレだとわかってしまえば、処分しなければならない。まだ小さな幼子を手にかけるのは嫌だった。

 皇帝に疎まれていても、彼女は皇女で、皇女でなくても三歳の娘である。何の罪もない子どもを殺すのは仕事だとしてもできれば避けたい。


 キリルは呆然として呟いた。


「あれは……」


 騎士団長はギクリと肝が冷える。


「あれは、なんだ?」


 キリルは自分の見ているものがにわかには信じられなかった。

 

 伝説の龍。皇族を守護する聖獣。それに抱かれているのは、きっと見たことのない妹だ。皇宮への立ち入りが禁じられ、皇帝の目に入ったら殺せと言われている娘。母を奪い、乳母マルファまでも連れ去った娘。


 きっと、捕らえるのが正しい。でも、起きたところも見てみたい。瞳は母上と同じなのだろうか? どんな風に話すんだ?


 母の面影の残る寝顔を見てキリルは恋しさがこみ上げてきた。


 そして母がいた頃を思い出す。大きくなった母のおなかに耳を付けて、中の子どもの名を呼びかけた日々。母は、なぜか娘だと信じ切っているようで、女の子の名前を付けて呼んでいた。ジンロン帝国では珍しい、母の国の言葉の名前だ。


 母は言った。


『キリルの名前の意味はユール国では『神』なのよ。だから、妹の『天使』を守ってあげてね』


 まるで、自分が死ぬのを知っていたようだったと今になって思う。


 でも私は母との約束を破ってしまった。妹を守れなかった。ごめん。


 キリルは口の中で、母が呼んでいたアレの名を呟いた。しかし、それは音にはならなかった。皇帝が名を付けることを拒んだのだ。それに逆らうことはできない。


 父上に知らせたら殺せと命じるだろう。殺すのか? 誰が?


 キリルは騎士団長を見上げた。


「あれは何だと思う?」


 騎士団長はキリルの視線を受けて、至極真面目な顔をして答えた。


「報告によりますと天使です。そしてあの猫は……ナンラン国にいるという伝説の炎虎(えんこ)の子どもかと」

「金龍に炎虎……」


 キリルは考え込んだ。少なくとも伝説の神獣を二匹と一緒の少女だ。おかしなことはしない方が良いだろう。


 騎士団長にしてみれば、アレをアレと認めることは避けたかった。きっと報告した兵士たちも同じ気持ちで「天使」と言ったのだろう。アレでなければ、捕らえる必要もない。


 今日は父もいない。それに、後宮を管理する女官長もいない。運が良かった。それともこれも金龍のお導きなのか……。

 だとしたら、私がすべきことは決まった。


 キリルはそう思い肩から力を抜いた。


「天使……」


 キリルは復唱した。確かに天使だ。母もそう呼んでいた。それにあんなかわいらしい生き物は人でないに違いない。


「あれはおまえにも天使に見えるか?」

「私にも天使に見えます」


 コクコクと騎士団長は真剣な顔をして頷いた。


「うん。アレは天使だ」


 キリルはそう断言した。


「ならば、罪に問うこともない」


 キリルの判断に騎士団長はホッとした。

 もちろん二人とも本気で天使だと思っているわけではない。だが、「天使」ということにしてしまえば、処罰をせずにすむ。暗黙の了解だ。


 キリルは、音を立てずに龍へ向かって歩いて行った。

 気配を感じた龍が、尻尾を固くした。二本の角がキリルの方を向く。黒い瞳が見定めるようにキリルたちを見た。


 皇宮騎士団長は膝をついて礼をする。

 二人を見て敵意がないと判断したのか、龍はアレの頭を撫でた。


 キリルはそっとアレに近づいて、桃のようにふくよかな頬に手を伸ばした。


 本当に天使じゃないのか? 存在してるのか?


 触れようとしたその瞬間、パシリと龍が尻尾を地面に叩きつけた。


 キリルは驚いて手を引っ込める。アレも驚いて目を覚ました。


 アイスブルーの瞳と空色の瞳が交わる。四つの虹色の光彩がキラキラと輝いた。


「っ!?」


 アレは驚いて龍の背中に飛び乗った。リュウホもそれに続く。


「天使様!」


 キリルはすがるように手を伸ばし声をかける。

 龍はそれを無視して飛び立った。


「お待ちください。天使様!」


 キリルの声はむなしく空に消えていった。


 残されたのは本が三冊と標樹の葉だ。

 キリルはそれらを拾い上げた。三歳児が読むには難しい本。標樹の葉には、メモのような文字が書いてある。

 キリルは騎士団長に黙ってそれらを見せた。

 騎士団長は困惑を隠せない。どう考えても三歳児のすることとは思えなかった。


「これは……」


 キリルは頷く。眠らせるには惜しい才能だ。


「まず、皇宮に金龍が現れたことを公表する。吉祥の印だ。陛下には金龍と炎虎と天使の存在を知らせる」

「は」

「そして天使を保護する」

「保護するのですか!?」


 キリルはギュッと拳を作った。


「見ただろう? あの質素な服装を。知らなかったとはいえ可哀想なことをした。女官長は信頼できるが規則に厳格だから、悪意はなくともあのようになったのだろう」


 キリルはミオンを疑ってはいなかった。ただ、父の命令通りに従っていると思っていたのだ。

 騎士もアレの姿を見て、さすがに不憫に思っていた。

  

「今からでも罪滅ぼしをしたい」

「は」

「天使だからな」

「はい、天使ですからね」


 二人は小さく笑った。




「あー、びっくりした、心臓がバクバクしてるわ」


 龍の背中でアレが胸を押さえている。リュウホはアレをペロペロとなめた。落ち着かせようとしてくれているのだろう。


「何をそんなに驚く?」

「寝起きにあんなに格好良い子、びっくりするでしょう?」

「格好良い? おまえの兄だろう? あの生意気な顔、父親にそっくりだ」

(そうだ、別に格好良くはない!)


 リュウホも唸る。


「え? 今の皇太子殿下? あああ、どうしよう、捕まるかしら? 殺される?」

「まさか、おまえは天使なんだそうだ」

「天使!?」

「皇女だと認めたら処罰せねばならんからな。おまえは天使だということにしたらしい」

「……助かったのかしら? 助けてくれたのよね?」

「せいぜい天使らしく振る舞えよ」


 龍はおかしそうに喉を鳴らして笑った。




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