第15話15.金の龍
アレは北斗苑を歩いていた。皇宮の閉ざされた旧庭園の奥で今まではそこで息を殺すようにしてひっそりと生きていたのだが、今回は違う。
隠れ逃げていてもどうせ殺されるだけなら、少しでも生き残れる方法にかける!
魔法文字を教えてくれる人は遠征に行ってしまった。
幸いなことにループ以前の記憶があることで、読み書き計算は普通の大人並みにできた。それに気づいたマルファは家から数々の本を持ってきて彼女なりの教育を始めた。しかし、令嬢向けのマナー教育が主で少し物足りなかった。
もっといろいろなことが知りたいのよ。この国の現状とか、魔法とか。もし魔法が身につけられれば、ここから逃げ出せるかもしれないし。
そして今朝早くアレはリュウホの背に乗って北斗苑を抜けた。リュウホはすっかり大きくなって、今ではアレが乗ってもびくともしない。
北斗苑自体は、出入りが自由だ。ただ、荒れ果てているため、入ってくるのは肝試しをするような物好きくらいだ。
アレは皇帝に見つかったら殺されるため、北斗苑からは出ずに、中にいても人の気配がしたら逃げるようにしていた。
皇帝が出征して、ミオンも休暇中だ。今がチャンスよ! 図書館に行こう!
アレはそう思いチャンスを窺っていた。葛籠箪笥の中から出てきた木札を通して見れば、難しい本も理解できるのだ。
そうして、魔法文字を予習して、遠征に行った騎士が帰ってきたら驚かせるの!
アレは自分の計画にムフフとなる。
朝の早い時間にはメイドも騎士もいない。
朝の深い霧の中、白いワンピース姿の女の子は皇宮の騎士たちの目にとまらなかった。アレは図書館を目指していた。入り口には龍がおり、皇族以外は入れないと聞いている。アレが入れるかはわからなかったが、チャレンジしてみる価値はある。
アレは大きな扉の前に立った。扉の前にはアレの背丈より少し高い黄金の円柱があった。そこには円柱に絡まるように龍が彫られている。龍の手には水晶玉が光っていた。
しかし、生き物がいる気配はない。
「どうしよう……噂は嘘だったのかしら」
(どうした?)
リュウホが尋ねる。
「本当はここに龍がいるって聞いてたの。でもいない。入れないのかしら」
アレは戸惑って、龍の水晶に左手を乗せて、龍に話しかけるように背伸びをし、龍の二本のツノの間を優しく撫でた。
「あなた、知ってる? どうやったら入れるの?」
独り言のようにつぶやいて笑う。
「なーんて……」
その時、龍の目が光った。同時に白く薄かった右手の『天使の守護印』が、赤くくっきりと光る。
「無礼者!! 我が頭を撫でるとは!!」
突如突風が巻き起こり突き飛ばされる。おなかの底までビリビリと響くような恐ろしい音。
龍の発した声だった。
アレは驚いて思わず後ずさる。彫刻だと思っていた龍が、グルリと柱を一回りして、アレの目の前に立った。黄金の龍だ。その瞳は宇宙のような深い闇色で、冷たい炎を宿している。
リュウホがアレの前に立ちはだかり、威嚇するように驚き毛を逆立てて唸る。
黄金の龍はリュウホを一瞥した。
「ごめんなさい。知らなくて、すみません」
アレは慌てて頭を下げた。
「知らぬなどと言い訳が通るわけがあるまい。その虹色の光彩は皇帝の血筋。右手の痣は『天使の守護印』。我に対する礼節をたたき込まれぬわけがない!」
龍の怒りは収まらない。
「申し訳ございません。私は……皇族と認められておらず教育を受けていないのです。ここへも勝手に参りました。お許しください」
アレは龍の前に跪き床に頭をついた。恐れのあまり、自然と子どもらしさの抜けた話し方になる。
龍は更に怒る。
「易々と頭を地に着けるな! 痴れ者が!!」
ビクリとアレは顔を上げた。
龍はマジマジとアレを見た。よく見ればかなり幼い。
「いくつになった」
「三歳です」
「三歳? その話し方でか、ああ、天使の守護印のためか」
龍は一人納得したようだった。
「確かに見た目はまだ皇族の印は持たぬ年だ。しかし、最低限の礼節くらいは教えられているべき年でもある」
龍はジロリとアレを睨んだ。
「汝に問う。名は何という」
「私はーー」
アレは言葉に詰まった。名前はないのだ。
「今一度問う。おまえの名は」
威厳のある凜とした深い声だ。アレは背筋を伸ばし、考える。
私の名前。アレ、は名前じゃない。マルファもみんなもそう呼ばない。だから、私も自分のことを「アレ」だと思うことはやめよう。
「私の名前は、ありません」
アレははっきりと答えた。
「なに? 皇帝の子に名が無い? そんなことがあろうものか」
父は自分を子だと認めていないのだ。だから名前さえ付けなかった。
アレは唇を噛んで答えた。
「私は皇帝の子ではないのです」
「私を謀る気か! おまえは皇帝の娘。名を名乗れ!」
龍は吠えた。
「……本当に名づけられていないのです」
俯いて弱々しく答えるアレに、龍は静かに問うた。
「なぜだ」
「誰もつけてくれなかったので……」
口にしてうつむいた。母は亡く、父にも愛されていない。いや、名前を考えることを拒むほどに、憎まれ疎まれている。実際、アレは今まで何度かループしたにもかかわらず、直接皇帝に会ったことはないのだ。
唇をかむアレを龍の黄金の尾が撫でた。アレの言葉に嘘はないと感じたのだ。
「そうか。皇女よ、図書館を案内しよう」
龍は扉に水晶玉を向けた。大きな扉が重い音を立てて開く。アレの腕に絡みついていた龍は、スルリと腕から離れ扉へ向かって飛んでいく。アレとリュウホは慌てて追っていった。
「こんなに幼くして何を望む」
「魔法文字の教科書はありませんか? あと、この国のことをよく知りたいんです。でも何を読んだら良いのかわからなくて」
「なぜだ?」
「このまま五歳になったら皇族に認められません。名前のないままではいずれ殺されるかもしれない。だから一人でも生きていける力を身につけたくて」
龍はアレを見て目を細める。
そもそも、五歳にならない皇族と認められていない者は、龍の門を通ろうしてはいけない。その程度の知識すら教えられていない娘だ。今後の教育も期待できないだろう。
無条件に愛されるべき幼子が、一人で生きる力を求めている。その姿が痛ましかった。力になってやりたいと思ったのだ。
だがアレはその目の意味がわからなかった。
「では、このあたりだな」
龍に案内された本棚には分厚い本がズラリと並んでいる。それを見てアレはよろめいた。とても短い時間で読めるものではない。また次に霧の出る日がいつになるかわからない。焦った気持ちで思わず右人差し指の爪をかむ。
「持ち出すことはできないですよね……」
「かまわんぞ。おまえは皇女だ。私が許したのだ。誰も咎めはしない」
龍の答えにアレはおずおずと一冊の本を手にした。
「それだけでかまわぬのか」
「見つからないように帰るには一冊しか持てないので」
「私の背に乗せてやる。好きなだけ持って堂々とここから出るが良い」
「それでは龍さまにご迷惑がかかるのでは?」
「フェイロンの小僧など怖くはないわ。うるさいことを言うのならあの氷のような青い目を食ってくれる。さぞかし喉がすっきりしよう」
皇帝の名を呼び捨てにして、龍は笑った。
アレはその言い方に思わず笑い、龍の言葉を信じることにした。何にしても、今までのように父から逃げ回っていてはいけないのだ。五歳で名前をもらえないくらいなら、その前に自分が不敬で手打ちにでもされた方がマルファも処刑されなくて済む。
龍のアドバイスを受け、アレは本を三冊選んだ。すると龍はたちまち大きくなり、その背をアレに背を向けた。
「さあ、乗れ」
言われるままにアレは龍の背中に乗った。リュウホも龍の背中に乗る。重い扉が開かれて、明るい日差しが差し込んでくる。眩しくてアレは目をこすった。
「世界が明るい……!」
アレの感嘆に龍の背が地震のように波打った。笑ったのだ。
「そうだ、お前が思っている以上に世界は明るい」
龍の声にアレは頷いた。
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