第17話 幸福だった場所 (かつての投稿時テーマ 近畿)

 私には麻耶という名の親友がいます。

 麻耶と会ったのは、私は雨に濡れたのを幸いにして、大泣きしていた時でした。

 その日、私は親友と思っていた子に裏切られてしまいました。私が密かに好きでいた男子の名前を皆に言いふらされたのです。

 それは彼女には無邪気な行為だったかもしれません。でも、私には耐えられませんでした。私は通っていた小学校を飛び出して、夕立の中を走りました。

 突然、私の頭の上に何かが掛けられました。それは黄色いレインコートのフードでした。

 見上げた私の視界に、元気そうな少女が入りました。日焼けした肌に、並びの良い歯、そして短い髪。真っ赤なワンピース。日本人だけれども日本人でない雰囲気。私よりも二つくらい上なのでしょうか。

「こっち。雨宿りしよう」

 少女に手をひかれて、私は鉄道の高架下にできたアーケードに飛び込みました。

 一息ついて、私は少女にレインコートを返し「ありがとう」と言いました。

「いいよ、気にしないで。私のお節介だから」彼女は屈託なく言いました。「あたし、麻耶。あんたは?」

「文子」

「あやこね。私の名前と似た音の名だね。これも縁だわ。

 おいで。服と涙を乾かさないとね」

 手を引かれて、私はアーケードの奥にある、彼女の家に案内されました。

 行く道のアーケードの様子は、寂しいものでした。うす暗く、どの店も扉を閉めていました。

 麻耶の家族は大人数でした。親戚数世帯が共同で暮らしているようでした。

 引っ越しの前でしょうか。所狭しと荷物が積んでありました。

 麻耶は私を家族に紹介し、家族を私に紹介しました。

 麻耶の伯母さんが甘いお茶とビスケットを出してくれました。大勢でのお茶はとても美味しいでした。私は、いつの間にか、楽しい気分になっていました。引っ込み思案の私が沢山の人とすぐに打ち解けるなんて今までにないことでした。

 麻耶は、最後まで私の涙のことに触れないでいてくれました。嬉しかったです。

 帰り際、麻耶に「また来てもいい?」と尋ねました。

 そこで、初めて麻耶は寂しそうに笑いました。「あたしんち、引っ越すんだ。ここでは暮らしていけなくなったからね。戦争が始まって、外国の船が来なくなったからね。だから、ごめんね」

 私はうつむきました。また、一人になってしまう。

「でもね、あたしの思い出はここに置いていくから。良かったよ。最後の最後に、あたしの思い出を受け取ってくれる友達ができて。ありがとう、文子」

 そう言うと麻耶は私を抱き締めました。私は麻耶に抱き締められて、また、大泣きをしました。

 あれから、数十年。私も老齢になってしまいました。

 今でも、ここ三ノ宮の高架下を訪れると、そこには麻耶の姿があります。佇んだり、駆け抜けたりしています。その姿は幻というにはあまりに鮮明です。私にしか見えないとはいえ、この通りでの幸福な思い出の中で麻耶は生き続けているのです。



【蛇足的な補足】

この掌編は、竹下文子さんの作品「幸福通り」へのオマージュです。

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