39 特別じゃない日

 その日、俺を起こしたのは目覚ましでもなく陽の光でもなかった。

 サイドテーブルに置いていたスマホがブルブルと震え、置いた場所が悪かったのかやけに響いた。

 手を伸ばしてスマホを手に取ると、俺を起こしたのは企業からの広告だった。

でもその前に心寧からもメッセージが届いていたことに気づく。


“HappyBirthday! これからも妹を大事にしてねっ!”


 華やかな色を纏った文字が躍る。


「あー…………」


 まだ眠っている声らしきものを喉から出して、スマホを持つ手から力が抜けていった。

 そうだった。

 エヤとミケのこととか、リヌセホスの闘いとかですっかり忘れていた。


 何の変哲もない平日のこの日。

 だけど今日は俺の誕生日だった。

 誕生日だからといって何か特別なことがあるわけでもない。

 もう親からのプレゼントを期待するような歳でもないし、せいぜい妹が気を利かせてご飯を奢ってくれる程度。友だちとパーティーしたりする性質じゃない上に恋人だっていない。

 だから今日もいつもと変わらない日常を過ごすだけ。

 一つ希望を言うとすると、何事もなく一日が終わって欲しい。できるだけ穏便に。平和にベッドに戻れれば文句はない。


 心寧に一言お礼を返し、両親に改めて年末に帰れなかったお詫びと誕生日の挨拶を送っておく。

 また今年も歳を取れたのは彼らがいてくれたおかげだ。

 まだエヤとミケは寝ている。

 彼女たちが起きる前に、昨日と同じように朝食の準備をしよう。



 出勤をしても普段通りの時間が流れていった。

 職場では今日が俺の誕生日であることを知っている人は少ない。

 わざわざ自己紹介で誕生日を主張する人はそんなにいないだろう。俺も同僚の誕生日は藍原さんと春海くらいしか知らないし。あ、あと風見先生の誕生日も知ってるか。前にそんな会話をした覚えがある。ちょうど先生が誕生日にいつもより豪勢な弁当を買っていたから理由を聞いたんだった。


 窓の外が暗くなっていくと、執務室からも人がどんどん少なくなっていく。

 でも俺はまだ帰れなかった。ちょっとしたトラブル報告があったから、その処理に時間がかかったのだ。

 隣の藍原さんはちらちらと時間を気にしてそわそわとした様子。

 ついに思っていたことが口から出てきたのか、気遣いに溢れた眼差しで少し身を乗り出す。


「ねぇ樫野くん。今日、誕生日だったよね? 折角の日にそんな残業なんてしなくていいよ?」


 そう言う藍原さんだってまだ残業をしているのに。

 俺は彼女の優しさが申し訳なくなってわざと強気に笑ってみせる。


「いいんですよ。残業だって最近は滅多にしないですし。職場からのプレゼントだと思っておきます」

「えぇー。すごく嫌なプレゼント……」

「藍原さんは受け取り拒否してもいいんですよ?」

「……ううん。人がいた方が早く終わるよ」


 藍原さんはくすくすと笑いながら身体を正面に戻した。


「先輩。俺からもプレゼントです」


 俺も作業に戻ろうとしたところで、左から角ばった手がにゅっと伸びてくる。

 眉をひそめながら見上げると、春海が冷静な表情のまま微かに口角を上げた。


「脳が甘いものを求めてるんで、ジュースが飲みたいんですよね」

「はぁ?」


 春海の手をよく見るとICカードを指に挟んでいた。


「先輩もこれで好きなもの買ってきてくださいよ」

「え? もしかしておつかいに行かせようとしてる……?」

「ちがいますよ。先輩が買うついでに俺のジュースも買ってきてくれると嬉しいなぁと」

「違わないよな……?」


 春海はICカードを差し出したまま、うーん、と考える素振りを見せる。


「すみません。でも今手が離せなくて……。休憩ついでに先輩に行ってきて欲しいです。お願いします」

「そう言われると断りにくいだろ……」


 カードを受け取ると、春海はありがとうございます、と言って手を合わせてきた。


「……藍原さんも何か要りますか?」

「えっ? いいの?」


 春海のカード片手に立ち上がり、藍原さんにも尋ねてみた。別に自分で払おうと思ったけど、なんとなく春海の表情を窺うと「別にいいですよ」と答えたので彼女の分の糖分も買ってくることにした。

 申し訳ないけど滅多にない機会だ。今日は春海に甘えてしまおう。


「じゃあ行ってきますね。できるだけ早く戻ります」

「ゆっくりでいいよー。行ってらっしゃーい」


 藍原さんはお上品に手を振ると、席に戻る春海に手伝えることはないかと尋ねていった。

 執務室を出ると、バックヤードはともかくとして院内はすでに薄暗くなっていた。

 診察時間はとっくに過ぎているし、もう会計だって閉じている。ところどころぼんやりとした常夜灯の明かりが見えるだけで、あとは非常口を示す緑が目立っているだけ。


 昼間は人に溢れている場所が一人の足音が響いてしまうくらい静まり返っていると、嫌でも寂しさを覚えた。

 だけど夜の学校と違ってあまり怖くないのは、上の階には入院している人がたくさんいて、看護士さんや医者も夜通しで働いているからだろう。

 時間を見ると、もう八時をとっくに回っている。あと少しで九時になる。俺としては久しぶりの残業だ。

 エヤとミケは誕生日のお願いとして心寧に迎えに行ってもらった。相変わらず心寧に頼ってばっかりで少し情けない。彼女が楽しそうに二人の相手をしてくれることだけが唯一の救いだった。


 まだ帰れそうにもないし、皆の分のちょっとした夜食でも買って行こうかな。流石にそれは俺が支払うけど。

 そんなことをぶつぶつ考えながら廊下を歩いていると、二階のロビーに並んだ椅子に人影が見えた。

 そこは患者さんが診察待ちをする場所だ。もう待ち人などいないはずなのに。


 もしかしてお見舞いの人が病棟間違えたとか?


 ぽつんと一人佇む後ろ姿がやけに気になって、まだ人間であることしか分からないその人のもとへと近づいてみる。するとだんだんと輪郭を帯びていき、その人が女性であることが分かってきた。

 さらに近づくと、俺の心臓が一度小さく跳ねた。

 足音に気がついたのか、彼女はゆっくりとこちらを見上げる。


「樫野さん……?」


 常夜灯にほんのりと浮かぶ彼女の瞳に光が宿り、ほのかに頬が動いた。


「直音さん……」


 彼女の前で俺は足を止めた。直音さんは二列目の椅子に座っているから、俺と彼女の間にはもう一列の椅子が並んでいる。少し距離を残したまま、薄暗い視界で微笑む彼女は微かに首を傾ける。


「残業ですか?」

「あ、はい……。そうなんです。直音さんは……」


 こんな遅い時間まで何をしていたのだろう。今日は診察だったのだと思う。けど、それにしてはかなり時間がかかっている。検査? だとしても、やっぱり遅い。


「もしかしてまだ待機ですか? 病院って、思ったより時間がかかってしまいますよね」


 頭に浮かんだ言葉を濁し、ベタにふざけたことを言ってみる。直音さんはくすくすと笑って肩を揺らした。


「ふふ。先ほどまで診察だったのですが、今日はちょっと遅くなってしまいました。ぼーっとしてたらもうこんな時間」


 直音さんはそう言ってはにかむと、あ! と思い出したように手を叩いた。


「この前のリヌセホス戦はありがとうございました! あの称号、見る度に嬉しくなってしまいます」

「いえ、こちらこそ。直音さんと戦えて光栄でしたよ」


 もう少し彼女に近づきたくて、一列目の椅子に座りながら身体を後ろに向ける。


「この前、知らないプレイヤーの方にお声がけいただいたんです。リヌセホス倒したんですか? って。すごいすごいって言われて、なんだか照れてしまいました」

「ははは。でも確かに、今の状況だと凄いことだと思いますよ。どーんと構えていても今なら許されそうです」

「そう、ですかね……。ふふ、でも慣れないから、きっとまた恐縮してしまいます」

「それでもいいと思います。むしろかっこいいかも」

「…………ふふふ」

「ヒーローは控えていても、派手に動いていても、どっちでも魅力的ですから」

「私、ヒーローですか?」

「はい。少なくとも、リヌセホスは倒しましたからね」

「ふふっ。そうしたら、樫野さんもヒーローですねっ」


 柔く笑う彼女の声が胸をくすぐり、表情を見失いそうになった俺は微かに彼女から視線を逸らした。


「でも本当に、嬉しかったんです。だから、本当に感謝しています。ありがとうございます」


 直音さんはしっかりとした眼差しで俺を見つめ、丁寧に頭を下げた。

 再び見えた彼女は、俺と目が合うなり口元で緩く線を描いて誇らしげに微笑んだ。

 薄暗い視界に途端に陽が差したように見えた。そんなことはあり得ないのに。でもその瞬間、確かに俺の目は光を大きく取り込んだ。


 指先まで張り巡らせた神経が耐え切れないと暴れ出す寸前だった。

 ああ、もう誤魔化せない。いつからか誤魔化すことも止めていた正直すぎる感情は今にも雪崩のように身体中を覆ってしまいそうだった。

 二つに割れた自分を繋ぎ止める彼女の表情は、まるで金継のように美しく心に流れ込んでくる。


「……あの、樫野さん」


 だからそのままでいたくて、彼女が口を開くと同時にその先を聞くことを拒みたかった。

 それでも彼女の静かな声が悟性を教えてくれるから、俺は心の奥底で煮えた欲望に蓋をして彼女の言葉を待つ。

 彼女から目を逸らすことを止めた俺と再び目が合った彼女は、ほんの僅かに唇を噛む。


「私、あのボスを倒すことが目標だったんです。だから……その……。最初は、怖かったです。ゲームだけど、ずっと捧げてきたことすべてを失うような気がして。だけど、樫野さんがいる、から……樫野さんがいれば、大丈夫って……。一人じゃないって、思えたので……。それがすごく心強かったんです」


 膝の上に置いた彼女の両手が力強く握りしめられていく。彼女は耳を赤くしたまま顔を伏せた。

 もうじき命を失う彼女。彼女に与えられた時間。それは俺に与えられた時間と同じこと。

 彼女は余命を知った時、その時間に未練を残したくないと誓ったことだろう。あの清々しいまでの美しい表情にはそんな覚悟と意地が見てとれた。

 何もゲームに限ったことじゃない。今の現実を生きる彼女が残したくない未練は、それだけじゃないはずだ。


 中身の見えないプレゼントをもらった時、箱を開けるまではその重みや音でしか本当のプレゼントが何なのか理解はできない。開けるまでのワクワク感。開けた後の喜び、あるいは落胆。

 その後にプレゼントとどう過ごしていくのか。ずっと大事にするのか、放置するのか。手放してしまうのも一つの手だろう。

 プレゼントは大事にするもの。そんな理想はただの理想でしかない。

 大事なのは中身じゃない、気持ちを受け取るべきだ。確かに正しいのかも。

 だけど、その後の処理を的確に出来る人は、贈り主の気持ちなんて不確実なものよりも、目の前にある物に対する判断が出来る人だ。


 そんな人が羨ましくもある。でも俺も彼女もそこまでスマートな人間じゃない。

 彼女は貰ったプレゼントは大事に抱え込み、一つ一つに真摯に向き合ってしまう。感受性が豊かだといえば聞こえはいい。だけどその一方で、優しさを呪縛のように保ち続けるのはしんどい。


 歪んでいる。


 そんな叱責が聞こえてくる気がする。

 でもそんなの、当人以外が決めるな。

 彼女は鼻をすすり、こみ上げてきた声をこぼす。


「樫野さんに声をかけて良かった……。私…………」


 直音さんの肩が微細に震えた。彼女はすでに伏せられた表情を隠すように両手で顔を覆う。

 押し殺したような息遣いが指の間から漏れ、彼女の願いがそこに滲む。

 彼女は望んでいない。

 この気持ちを知ること。この想いは、誠実で、優しくて、不器用な彼女にとっての未練になるから。


 誰かに分かるだろうか。彼女の本当の恐れを。

 いいや、分からなくていい。

 これを知っているのは俺だけでいい。二人だけの約束ルールでいいんだ。


「直音さん…………」


 指先が彼女の細い髪の毛を掠るように伸びていく。


 …………………………駄目だ。


 彼女が繋ぎ止めてくれた箇所からまたほつれが出てきそうになり、ぐっと抑えこむ。

 伸ばした指をそっと戻し、彼女の温もりが爪に伝う寸前で俺は痛みを飲み込んだ。

 音が聞こえないように息を吸い込み、瞼で深呼吸をする。


「イベントに誘われた俺は、本当に幸運でした。……直音さん、どうして、声をかけてくれたんですか?」


 直音さんは塞いでいた顔を手の平から離し、若干赤くなった瞳と頬を恥ずかしそうに緩めた。


「あのゲームは私にとっての心の支えでした。もう生きていたくないと思った時も、支えてくれたんです。思い入れがあって……それで、樫野さんのスマホを見て……偶然、同じゲームをやっている人にぶつかったのが印象的だったんです。なんだか嬉しくて、心に残っていたところ、また会えました。もうずっと一人で遊ぼうって思ってたんですけど、さいごに、我儘が出てきちゃいました」


 彼女は目元を指先で拭うと、俺の目を見て照れを誤魔化すように笑った。


「さいごまで、ゲームを思いっきり楽しみたいな、って。この人なら、きっとそれが出来るって思ったんです。……我儘に付き合わせたみたいに聞こえますね……ふふ。ごめんなさい」

「そんなことないです。これ以上ない最高の我儘ですよ。自信持ってください」

「ふふふ……っ」


 声を零して笑った彼女。つられて笑いながら、俺はそんな彼女から目が離せなくて表情一つ一つを窺うように彼女を見つめ続けた。

 すると彼女も朗らかな目元を綻ばせてこちらを見つめ返してくる。

 人と目が合うのって、そこまで得意じゃない。査定されたり、心を見透かされるんじゃないかってやけに緊張してしまうから。


 でも彼女とこうやって目を合わせていてもそんな緊張なんて感じないし、それどころか心が和やかになる。

 晴れ晴れしくて、くすぐったくて。

 いつまでもこうしていられたらと望んでしまう。きっと永遠すら一瞬だ。

 心で望むくらいなら誰にも咎められないと信じ、俺は隠したつもりの眼差しで彼女の姿を求めた。


 しばらくして遠くで誰かの話し声が通り過ぎていき、俺は不意にそちらに視線を向ける。

 そういえば買い出しに行く途中だった。

 すっかり忘れていた使命を思い出し、近くにあった時計を見上げる。


「ふふ……ごめんなさい仕事の途中なのに、足止めしてしまって」


 直音さんはそんな俺を見て肩をすくめた。だけど表情は柔らかで、そこまで気負いしていないように見える。


「いいえ。全然気にしないでください。直音さんは、もう帰りますか?」

「はい。随分と居座ってしまいました。もう帰らないとですよね」


 椅子に置いていた鞄の中をがさごそと探ってから、彼女は鞄を肩にかけた。


「途中まで送りましょうか?」

「いえいえ! まだそこまで遅い時間じゃないので大丈夫ですよっ! そんなこと、悪いです」

「はは。気にしなくていいのに」

「私が気にしてしまいます……! タイムロスして遅くなると、エヤちゃんたちも心配させてしまいますし」


 直音さんは豊かな表情で首を横に振り、くすくすと笑った。


「……気を付けて帰ってくださいね」

「はい。もちろんです!」


 同時に立ち上がると、直音さんはキリッと背筋を整えた。


「そうだ樫野さん」

「はい?」

「お誕生日、おめでとうございます……!」


 名残惜しい笑顔で祝福をくれた彼女。

 一瞬飲み込めなかった。だけどすぐに答えが分かった。

 ゲームアカウントの必須項目に、馬鹿みたいに正直に誕生日を入力していたこと。


「ありがとうございます」

「残業、頑張りすぎないでくださいねっ」

「はい。肝に銘じます」


 手を振る直音さんを見送り、俺はまた薄暗くなった廊下を見やる。

 世間からしたら特別でもなんでもないこの日。このまま望み通り平穏に幕を閉じてくれることだろう。

 そんな一日の終わりに、俺は思いがけず無二のプレゼントを受け取った。


 そして俺の誕生日を最後に、直音さんはゲームからも姿を消した。


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