33 結んで
「樫野さん! すっごく美味しかったです……!」
机の上に広がっていた食欲を刺激する鮮やかな具材たちが少なくなったところで、直音さんが瞳を輝かせてこちらを見る。
彼女の隣では、いくつ食べても上手くトルティーヤを巻けないミケが、お腹がいっぱいだというのにめげることなく再度トライをしているところだった。
「良かった。タコス、初めて作ったので、大丈夫かなぁってちょっと思ってました」
「味付けは樫野さんのオリジナルですか?」
「はい。レシピを参考にしながら」
「すごいっ。エヤちゃんたちが羨ましいです! こんな料理が毎日食べられて」
「んふふふふふ」
直音さんの最大級の賛辞になぜかエヤが得意げに笑う。
「ありがとうございます。直音さんはお世辞が上手ですねぇ」
「お世辞じゃないですよ? ふふ。ごちそうさまでしたっ!」
手を合わせて頭を下げる直音さん。ミケはまた上手く巻けなかったみたいで、不格好なタコスを口に運んでいた。
「……おなかいっぱいだ」
不格好なタコスをきちんと最後まで食べたミケはぱたりと後ろに倒れ、大の字になる。
「エヤももういい?」
「はいだす。ごちそうさまだす」
エヤはご丁寧に床に手をついてお辞儀をしてみせる。
「じゃあ俺、片づけますね。直音さん、ちょっと二人のことお願いします」
「はいっ。お手伝いもせずにすみません」
「何言ってるんですか。十分に手を貸してくれてますよ」
「ふふふ」
皆が食べた食器を重ねて流し台に運ぶと、エヤは直音さんに何かを耳打ちして、二人してくすくすと笑い合う。
一体何を話しているのかと思っていると、エヤは寝っ転がっているミケにも耳打ちをした。
するとミケはすくっと起き上がり、直音さんを見て親指を立ててこくりと頷いた。
さぁ、何をするんだろうな。
良からぬ企みではないことを祈りつつ、俺は自分の役割へと身体を向ける。
一人増えただけだけど、タコスパーティーのせいでお皿をたくさん使っていたから、いつもよりも作業に時間がかかってしまった。その間、さっきとは違って後ろは静かだった。
水の音にすべてがかき消されていただけかもしれないけど、それでも本当に三人はいるのかと疑うほどに存在感が消えていたように思う。
ようやく洗い終えて後ろをちらりと振り返ると、三人はちゃんとそこにいた。
では一体何をしていたのかと思うと……。
「あ……樫野さん。洗い終わりました? ありがとうございます」
直音さんが小さく頭を動かす。だけどぺこりとは頭を下げられず、その動きはえらく控えめだ。
それもそのはず。
直音さんの両サイドでは、エヤとミケが彼女の髪の毛を手に取って三つ編みをしている。それでは彼女も自由には動けないし、大きく動くと二人の手を止めてしまう。
二人とも真剣な顔をしているようだけど、エヤとミケの編む髪の毛はそれぞれの個性が出ているようだった。
エヤの方は割と大胆に編んでいき、一つ一つが大きい。
反対にミケの方は一つ一つが細かくて、緻密に編んでいる。
一見すると左右は非対称で、見方によっては斬新な髪型となっていた。
直音さんは俺と目を合わせて柔らかに微笑むと、目の前に置いてあるスマホの画面に目を落とした。
エヤとミケも時折そちらに目を向ける。
どうやら、直音さんの髪を実験台として二人は色々な髪型を完成させることに挑戦していたようだ。
俺の髪だと短すぎて到底出来るはずもないし、二人の髪も直音さんよりは短い。
だから、エヤたちは普段することができない髪の毛遊びに没頭しているのだろう。
キッチンの方から彼女たちのことを観察してみる。二人のことを気にかけながらも直音さんは次はどんな風になるのだろうとワクワクしている様子だった。
今、三つ編みを施されていく彼女はゲームで見る彼女の姿と似ていて、俺は思わず微笑ましい気持ちになる。
彼女もそれを意識したのだろうか。完成間近の髪型を前に、少し恥ずかしそうに表情を崩した。
「ノトチャン、今度はどうだすかねっ?」
エヤが手鏡を手にそわそわとした様子で正座をする。
「うん。すごくかわいいね。二人は本当に美容師さんみたい」
「へへ」
ミケも自分では二つ結びしかしないから、他の人の髪をいじれるのが楽しいみたいだ。
「じゃあ今度はこれやってみるだすー!」
「これは……編み込み……かな? ふふふ。どうなるかなぁ」
完成したばかりの三つ編みを崩して、直音さんはまた二人の実験台として背筋を伸ばした。
二人は直音さんに手を伸ばして、躊躇うこともなくその髪に触れていく。
直音さんはくすぐったそうにくすくすと笑うけど、二人はそんなことも気にしていない。
俺は自分が出来ないことをいとも容易くやってのける二人にちょっとした羨ましさを感じる。
彼女は今ここにいる。
すぐそばで、飽きることのない表情を揺らめかせて。
だけど俺は彼女に触れられない。
もちろん、つい彼女に触れたくなってしまうのは隠してもしょうがない本心。
でも彼女がそれを望んでいないことが分かるから、俺は手を伸ばそうとしても伸ばせない。
いいや。正確には、彼女のためだと言い訳しているだけかもしれない。
本当は、彼女に指先が一瞬触れただけでも、きっとその途端に堰を切ったように決意が揺らいでしまうから。それを恐れているだけ。
彼女のことを自分の願望のためだけにこの場に留めてしまいたくなってしまう。ただそれだけなのだろう。
彼女の意志に寄り添い尊重する。そんな崇高なこと、実のところ俺にはやり遂げる自信なんてない。
だからほんの僅かな虚勢として、俺は彼女に触れることを赦さなかった。
もし直音さんが聞いたら、馬鹿みたいだと笑うだろうか。
世の中にはもっと上手いこと折り合いをつけられる人間がたくさんいるだろう。でも俺には難しい。
それでもいいや。彼女を傷つけるくらいなら、そんなことはどうでもいい。
俺がスマートな人間になるには、ちょっと時間が足りないだろうから。
*
「駅まで送りましょうか?」
「いいえ。大丈夫です。今日は遅くまでお邪魔しちゃって、すみません。ありがとうございました」
靴を履いた直音さんは深々と頭を下げてから明るくなった表情を上げる。
「ノトチャンっ! 今日は楽しかっただす! またヘアアレンジさせてくださいだす」
「われも、またゲームしよ?」
「うん。楽しみにしてるね。二人とも、可愛くしてくれてありがとう」
直音さんは二人が完成させたおとぎ話のお姫様のような緻密に編み込まれた髪型に触れてからはにかむと、今度は俺に視線を移す。
「樫野さん。タコス美味しかったです。今日は本当にありがとうございました」
「いいえ。良ければまた来てくださいね」
「はいっ」
「じゃあエヤ、ミケ、俺は下まで送ってくるから、二人はそろそろ寝る支度」
「わかりましただす!」
エヤはぴしっと手を挙げてから敬礼をする。
玄関の扉が完全に閉まるまで、二人は直音さんに手を振り続けていた。
マンションのエントランスまで下りると、直音さんは一歩前に出たところでぴたりと立ち止まる。
「樫野さん。……この前は、ありがとうございました」
「……この前?」
何か感謝されるようなことをしたっけ?
俺はふと考え込む。
「ふふふ。会社に病気のこと言ったって、私が勝手に落ち込んでいた時に……。樫野さんの言葉で、また課長と顔を合わせる勇気が持てました」
「……ああ。あの時の」
顔を上げ、そんなに立派なことを言った自覚のない俺は逆に恥ずかしくなってはにかむ。
「…………樫野さん。あの……」
「……はい」
直音さんは口をもごもごとさせて、出て来ない……いや、言うことを躊躇っている言葉をどうにか伝えようとする。でも彼女はどうしても言うことが出来なかったようだ。形にならなかった言葉を飲み込んで、切なる表情を振り払うように微笑む。
「え、エヤちゃんたちに、よろしく言っておいてください。そ、それじゃ……」
「…………はい。気を付けて帰ってくださいね、直音さん」
「はい。で、では……!」
直音さんはもう一度深く頭を下げると、踵を返して早足で去って行く。
何を言おうとしたのか。
ズキズキと痛む心臓が治まるまで俺はその場に佇むことしかできなかった。
部屋に戻ると、エヤとミケがトランプを片付けているところだった。
「カシノ! ノトチャン、帰っただすか?」
「うん。片付け、ありがとな」
「んふふふふ。いーえだすっ。ノトチャン、元気になったみたいで良かっただすなっ」
エヤは満面の笑みでトランプを胸に抱え込んだ。
確かに、玄関で見た彼女の表情には気が取り戻っていたように見えた。二人と遊んでいる時も素のままで笑えているみたいだったし。元気が出たのなら、それは良かったと思う。
「……ノトの病気も、元気になれればいいのにね」
ぽつりとミケが呟くと、エヤがバッとミケの方を振り返る。
「びょうき…………?」
「うん。ドナーがいないんでしょ。父親、どこにいるか分かんないって」
すらすらと言うミケのことを凝視したエヤは目を丸くしたまま、雷に打たれたように固まってしまった。
でも俺も他人事ではない。エヤと同じように彼女の発言に全身が痺れていく。
「ミケ……? どこでそれを……」
放心状態のまま、静かな瞳でこちらを見上げるミケに問う。
「……話してたでしょ。電車で」
聞いていたのか。
あの水族館の帰り道。
左腕に微かに感じた感覚は錯覚ではなかった。
あの時、ミケも目を覚ましていたのだ。
「ミケ……! それ、誰にも言ってないよな……?」
慌てて俺はミケの肩をそっと掴んで真っ直ぐに彼女のことを見る。ミケはこくりと頷き、「内緒だもん」と続けた。
彼女の回答に一ミリの安堵を感じた俺は力の抜けた手を下ろす。と、ため息も同時に出て行った。
「ミケ、ありがとう。彼女にもそれ、黙っていてくれる……?」
「うん。ノトにも言わない。われ、秘密は守れる」
「……ありがとう。……エヤ、エヤも頼む。このことは内緒にしておいてくれないか? 彼女があまり人に言いたくないことなんだ」
エヤの方を見ると彼女はまだ固まったまま、瞬きもせずに一点を見つめていた。
「エヤ……?」
微動だにしない彼女に不安を覚えて首を傾げる。ミケもきょとんとしていて、俺の方を見てから肩をすくめた。
「エヤ……? 聞こえてる……?」
エヤの傍に寄ってその表情を窺うと、エヤはハッと意識を取り戻したように顔を上げて咄嗟に首を縦に振る。
「言わないだすよっ! ノトチャンが嫌がることはしないだすっ!」
「ありがとうエヤ。ごめんな、こんな……」
「気にしないで欲しいだす! カシノ、しーってするだすから!」
エヤは人差し指を唇の前に持っていき、イーッと歯を見せて笑った。
「じゃあエヤはお風呂に入るだすっ!」
「われも……」
エヤはわたわたと洗面所の方へと駆けて行く。
二人が直音さんの病気のことを知ってしまったことに肝が冷えたが、この様子なら心配をしなくても大丈夫だろうか。仮にも二人は普通の子どもではないし。言葉の意味をそれなりに理解しているはずだ。
とはいえ、なんだか巻き込んでしまったようで申し訳なくなる。
直音さんは、きっと二人にこのことを知られたくはないだろう。
なんの懸念もない健康な人間として彼女たちの前では振舞いたかったはずだ。
「ああ…………」
情けない声が漏れ、俺はその場に項垂れる。
「ごめん……直音さん…………」
懺悔の言葉を述べても罪悪感が消えることはなかった。
風呂からあがったミケはすぐに布団へと向かったが、エヤは長いこと歯を磨いているようでなかなか洗面所から出て来なかった。
「エヤ? 俺、そろそろ風呂入るよ?」
流石に待ちくたびれて顔を覗かせると、エヤは止まっていた手を慌てて動かして歯磨きを再開させた。
「ごめんなはいだふ。ちょっひょまっふぇほひぃだふ」
「分かった。分かったから焦んな」
豪快に歯ブラシを動かすものだから、誤って喉に突き刺したりでもしたら大惨事だ。
俺は彼女を急かさないように洗面所から退き、どこか上の空な彼女に対して首を捻った。
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