10 奇遇ですね

 「……ふあ……ねむ…………」


 パソコンの前で大きく口を開けて欠伸をした俺に、藍原さんがすかさず目線を向けてきた。窘める感じではなく、ちょっと心配そうな顔をしているように見える。


「樫野くん大丈夫? 最近ずーっと眠そうだけど」


 目の下に隈がうっすらと出てきたことなら自覚がある。だから当然、観察眼に優れた藍原さんにも最近の俺の寝不足はバレていることだろう。


「大丈夫です。はは、ゲームのし過ぎかなー?」


 本当はまったくやってないけど。どちらかというとここのところゲームに夢中になっているのはミケだ。でも、早起きして弁当を作って、夜中に二人が寝付くまで気が抜けないことなんて話せるわけもない。俺がゲームをしていたことを知っている藍原さんにはそう言った方が通じるはずだ。


「そんなにそのゲーム面白いの?」


 藍原さんは目を丸くさせて驚いた表情をする。ああ、なんだかやっぱり後ろめたい。


「面白いですよ。藍原さんもやってみます?」

「うーん。でも私、ゲーム下手だからなぁ……」

「ははは。慣れればある程度できるようになりますよ」

「そうかなぁ?」


 藍原さんは斜め上を見てうーん、と考える。それがなんだか微笑ましくて、俺は思わず口元から力が抜けた。


「あらぁ? なあに? 二人もあのゲームやってるの?」


 するといつものようにいつの間にか話を聞いている雨臣さんがぬっと顔を出す。手には何やら大きな封筒を持っている。


「私はやったことないんですけど、樫野くんはかなりプロですよ」

「あら、そうなの?」

「いや、プロって程でも……」


 藍原さん大袈裟です。俺は力なく笑みを返した。


「うちの子どもたちもそれにハマってるのよねぇ。勉強しないから、ちょっと厄介よ。こっちとしては」

「まぁまぁ、息抜きも大事ですよ」


 藍原さんはそう言って優しく笑う。


「なんか今度イベントがあるみたいでねぇ? 行ってもいいか、って許可を求められてるところなの。行かせてあげてもいいかしら? 危ないところじゃない?」


 雨臣さんは俺の方を見て不安そうな顔をする。

 そういえば運営からの重要なお知らせはそのイベントについてだったな。リアルイベントに参加したことはないから分からないけど、年齢層も幅広いはずだし、多分運営も気を付けているだろう。


「大丈夫じゃないですか? 遅くまでならないようだったら」

「そう? なんかお友だちとリアルで会うチャンスなんですってね。北海道の子らしいの。遠いのによく来るわねぇ。感心しちゃう」

「ははは。イベントは頻繁にやってないですからね」

「ふうん……。そういうことなら、行かせてあげてもいいかなぁ」


 頬に手を当てて、雨臣さんはまだ少し悩みながらそう呟いた。

 でも子どもが心配な気持ちもわからなくはないけど。俺はたぬきの塾で学んでいるはずの天使と悪魔のことを思いながら雨臣さんにしみじみと共感した。

 すると、どさっと重たいものが机に置かれた衝撃が腕の振動を通して伝わってきた。藍原さんとは反対側の隣を見ると、春海が重そうな段ボール箱を机に置いたところだった。


「樫野さん。呼吸器センターまでヘルプに行ってもらえます?」

「え? どうして?」

「看護士さんのパソコンが調子悪いんです。俺、このパソコンのチェックしないといけないんで、樫野さんにお願いしようかと」

「それなら俺がパソコンのチェックするけど……なんで春海は行かないんだよ」

「いやー、手間じゃないっすか」


 春海は悪気がなさそうに淡々とした調子で言う。こいつはまったく正直者だ。


「俺の手間はいいの?」

「いいとは思ってないですけど。樫野さんの方が説明とか上手なんで。角が立たないじゃないですか」


 自分に難があることは自覚しているようだ。いや悪い奴じゃないし、仕事もできるいい奴なんだけどな、春海は。でもそうと決めたのならもうこいつは動かないだろう。


「しょうがないな……」


 忙しい看護士さんを待たせるわけにもいかない。

 俺は渋々立ち上がり、段ボール箱を開け始めた春海の肩を叩いて呼吸器科へと向かった。

 春海に言われた通り看護士さんのパソコンの調子を見る。どうやら院内のネットワークに繋がらないらしい。俺は忙しなく動き回る看護士さんたちを背に、接続設定に問題はないかを確認した。

 なんだ。ただパスワードが間違っているだけじゃないか。キーボード設定がおかしくなっていただけだ。看護士さんにそのことを伝えると、恥ずかしそうに笑っていた。目の前の機械どころじゃないから、別にしょうがないことだと思う。俺は呼吸器センターのエリアを出て執務室へと戻ろうとゆっくり歩き始めた。


 意識してゆっくり歩いたわけではない。ただ眠くて、油断すると勝手に足が重くなるだけだ。

 飽きずに出てくる欠伸を抑えながら瞼を開けると、少し遠くに見慣れた人影が見えてきた。

 白衣を着たその人は外科医の風見斎先生だ。彼とは昼に弁当を買いに行く定食屋が同じで、よく顔を合わせることから知り合いになった。風見先生は患者さんからの信頼も厚く、腕もいい医師として評判だ。でもそのおかげか手術にも引っ張りだこで、いつも忙しそうにしている。そんな多忙な中でも定食屋で会った時に俺が声をかけると気さくに会話してくれる優しい人だ。

 久しぶりに顔を見たので挨拶でもしようと思ったけど、どうも患者さんと話をしているみたいだった。彼が話している相手。そちらに目をやってみたところ、思いがけず俺はその人から目が離せなくなった。


「あれって…………」


 少し低い身長に自然な流れの髪の毛。見覚えのあるその人は、確かに俺も知っている人だった。

 前に歩きスマホをしてしまった時にぶつかった女性。風見先生と話をしているのは間違いなく彼女だ。

 彼女は風見先生との会話が終わったのか、ぺこりと頭を下げて先生に挨拶をする。先生もそのまま彼女を見送ってから反対方向へと歩いていった。

 彼女は俺の方に向かって歩いてくる。手に持っている紙に目を落とし、その瞼が少し落ちたように見えた。

 そんな彼女の眼差しの変化が気になって、俺は何故かその場に根を張ったように動けなくなってしまった。


「あ…………」


 立ち止まっていれば当然のこと。彼女は俺の目の前まで歩いてきて、ふと俺の顔を見て足を止める。彼女の澄んだ瞳が俺を映し、何かが体内に流れ込んできたように錯覚した。


「あっ……。す、すみません。邪魔ですよね」


 しかし彼女が瞬きをした瞬間に道を塞いでいることを自覚し、俺は咄嗟に彼女の前を開けた。


「いえ。ふふふ。ここの廊下は広いですから」


 彼女はそんな俺の動きが可笑しかったのか控えめに笑った。

 なんだか気まずい。俺は恥ずかしくなって弱弱しく笑い返す。


「あの……この前、ぶつかった方……ですよね?」


 俺の気恥ずかしさを知ってか知らずか、彼女は俺の顔を窺うようにして尋ねてくる。


「はい。そうです」

「やっぱり……!」


 俺が肯定すると、彼女は嬉しそうに手を合わせて喜ぶ。


「あの時は本当に失礼しました」

「いえっ。こちらこそ」


 彼女が頭を下げるので、俺も慌ててそれに返す。


「あ、えっと……風見先生、の患者さんですか?」

「はい! そうなんです。ふふ。見られちゃいましたか」

「あ、ごめんなさい……なんか、気持ち悪いですよね」

「いいえ。そんなことありませんよ」


 気まずさを消し去りたくてなんとか会話を続けようとしたけど、その結果なんか不審者みたいなことを言ってしまった。俺は情けなくて手から力が抜けていった。

 彼女はそれでも俺が見ていたことを気にしていないようで、朗らかに微笑みかけてくれる。


「あ、あの……わ、私の方もちょっと、お尋ねしたいことがあるんですけど……」

「? なんでしょうか」


 微笑んでいた彼女が不意に恥ずかしそうに声を潜めるので、俺はきょとんとして彼女のことを見る。


「この前、スマホの画面に映ってたゲーム……あ、あれ、あなたも、やってるんですか?」

「え? ゲーム、ですか?」


 そういえばスマホを拾ってくれた時にゲーム、開いてたっけな。当時のことを思い出し、俺は彼女に向かって首を縦に振る。


「はい。最近は、サボり気味なんですけどね」


 ははは、と力なく笑う。さっき藍原さんが言っていたプロ並みという言葉が胸に刺さったまま残っていた。


「そうなんですね。えっと……あの、わ、私もやってるんです。あのゲーム」

「そうなんですか?」


 彼女が俺の答えにほっとしたように頬を緩めたので、俺はなんだか嬉しくなって声の調子が少し上がる。


「はいっ。あ、えっと……だから、その……プレイヤーの方だって思ったら、なんだか親近感が湧いてしまって」

「分かります。同志って感じで嬉しいですよね」

「はい! あのゲームすごく好きで……! あっ。ごめんなさい。急にこんな話……お仕事中、ですよね……?」


 彼女は嬉しそうに表情を輝かせた後で、俺の首からぶら下がっている通行証を見てすぐに肩をすくめてしまった。


「大丈夫ですよ。俺の部署緩いんで」


 まぁこの病院内では比較的そうだろう。とにかく彼女が気負う必要はない。


「ふふふ」


 それでも彼女はまだ申し訳なさを残して笑う。


「樫野至です。ここでシステム部門の仕事してます。だから、医療のこととか、そこまで詳しくもないんです。病院にいるくせに」

「ふふっ。医学は奥が深すぎますもんね。私は初橋直音です。えっと……風見先生にお世話になっています」


 後半、彼女の声色が少し重くなったような気がした。彼女はここの患者。ということは、どこかしらの体調が悪いのだろう。あまりそういったことに踏み込むのは良くない。俺は医者じゃないし、彼女のことを患者としては診れない。だから、彼女もそういった話は気にしないで欲しい。それを伝えたくて、俺は彼女に向かってそっと笑いかけた。


「……ふふ」


 そうしたら彼女も少し気が軽くなったのか、柔らかに笑ってくれた。


「あ、そうだ。良かったらプレイヤーID交換しませんか? 俺は基本的にチームを組まないで黙々やってるんで、交換したところで力にはなれないかもですが」

「いいんですか? 嬉しいです。私もフレンドは多くないので、力にはなれないと思うのですが……」

「はははっ。じゃあお互い様ですかね?」

「ふふ。そうですね」

「のんびりやっていきましょう」

「……はい。それが一番楽しいです」


 ポケットからスマホを取り出し、同じく鞄からスマホを取り出した彼女とプレイヤーIDを交換した。彼女のプレイキャラクターは、俺とは違って人型だった。白に近い淡い青系の髪の色をした三つ編みの少女。和装の装備で、魔法使いみたいだけど巫女のようにも見えてなんとも可愛らしいデザインだ。


「可愛いキャラクターですね」

「好きなキャラクターを参考に作ったんです」

「へぇ。すごいセンスある。俺とは大違いですね」

「樫野さんのキャラクターも、素敵ですよ」

「はは……ありがとうございます」


 画面に目を向けると、狼型のキャラクターは俺が遊んでいた時とは違ってパリコレに出てくるみたいな戦闘服を身につけていた。これはミケが勝手に装備を変更したな。


「あ、そうしたら……私、もう行きますね。お仕事の邪魔をしてしまいすみませんでした」

「いえいえ。こちらこそ足止めしてしまって申し訳ないです」


 出会った時と同じように頭を下げ合う。

 顔を上げると、彼女は朗らかな瞳をこちらに向ける。


「では、また」

「はい。お気をつけて」


 彼女が会計に向かう姿を見送ってから、俺はまたスマホに視線を落とす。

 開きっぱなしのゲーム画面では、彼女の分身でもあるキャラクターがいたずらに笑っていた。

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