少帝   423年

1 月


建康

永初えいしょから景平けいへいに改元した。賜位を二等進めさせた。北魏ほくぎ将の達奚印たつけいいん奚斤けいきん金墉きんようを破り、虎牢ころうを囲んだ。毛德祖もうとくそは城内に深さ七尺の穴を掘り、城外に二つの地下道を通し、背後から敵軍を襲う決死隊数百人を募った。范通はんつうを隊長とした決死隊は城を囲む北魏軍の背後から徐ろに太鼓、歓声を上げたうえ突撃。数百の首を上げ、攻城器具を焼き払った。この強襲に北魏軍は一時引いたが、まもなく再び大挙して包囲した。拓拔嗣たくばつしもまた平安涉歸へいあんしょうきに青州を攻撃させた。一方建康けんこうでは蔡廓さいかくを吏部尚書とする詔勅が発された。蔡廓が到着すると、傅隆ふりゅうに言う。「選出はみな私がやってもよいのか?」傅隆がこれを徐羨之じょせんしに伝えたところ、徐羨之が答える。「黃門以下はみなお任せする。それ以上はみなで協議する」それを聞き蔡廓は「徐干木(=徐羨之)の横に名なぞ置けようかよ!」と就任を退けた。


以永初四年春正月己亥朔大赦,改元為景平元年。文武各賜位二等。乙巳,虜將達奚印破金墉,進圍虎牢。毛德祖于城内掘地深七尺,旁穿二道出城外,又分為大道出賊後。募敢死士數百人,隨參軍范通基出自圍外,鼓噪斬虜。虜陣擾亂,斬首數百級,燔其攻具。虜雖暫退,衆還復合。拓拔嗣又遣平安涉歸寇青州。己未,詔徵豫章太守蔡廓為吏部尚書。廓至,謂尚書傅隆曰:「選皆出我乎?」隆言執政,徐羡之云︰「黃門已下專以委蔡,已上衆參也。」廓曰︰「我不能為徐干木署紙尾!」遂不就。



通鑑

于栗磾うりつていが洛陽の金墉城を攻撃。陥落させた。拓跋嗣は垣岳えんがくを経てぎょうに到着した。

檀道濟だんどうさい軍が彭城ほうじょうに到着。この頃臨淄りんしには叔孫建しゅくそんけんが攻め寄せており、周辺の城を軒並み陥落させていた。竺夔じくき東陽とうよう城に立て籠もり、なんとかこらえていた。濟南さいなんを守っていた垣苗えんびょうも東陽に合流した。

鄴で拓跋嗣は刁雍ちょうように叔孫建らの救援を命じた。率いるはおよそ六万騎、また道すがらで募兵をかけたところ五千の追加兵力が軍資とともに集まった。




2 月


建康

蕭文寿しょうぶんじゅが死亡した。遺令に言う。「我が夫が世を去ってより五十年余りが経っております。古の漢の例でも、これだけの時差があれば夫とは別の墓に葬られるものでした。ならば私を夫と別の墓に葬るのも、不可能ではありますまい」

沮渠蒙遜そきょもうそん吐谷渾阿豺とよくこんあさいからの遣使があった。沮渠蒙遜を河西王かさいおう、吐谷渾阿豺を澆河公ぎょうがこうとした。富陽ふよう孫法光そんほうこうが謀反を起こした。冠軍大將軍を自称し、山陰さんいんを攻撃。山陰令の陸邵りくしょうが迎撃、柯亭かていにて戦い、敗走させた。

劉粋りゅうすい許昌きょしょうを攻撃、北魏将の庾龍ゆりゅうを攻め殺した。北魏軍は高平こうへいを劫掠した。以前に劉裕りゅうゆうと北魏軍が黄河こうが北岸で衝突したとき、和親が結ばれたのだが、劉裕の死亡により襲いかかってきたのだ。


二月丁丑,太皇太后崩。遺令曰:「先皇棄世,五十餘載。古不封樹,漢亦異陵。今將外營别壙,亦無不可。」大沮渠蒙遜、吐谷渾阿豺遣使貢獻。庚辰,爵蒙遜為河西王,以阿豺為安西將軍,封澆河公。辛未,富陽人孫法光宗親反,自號冠軍大將軍,寇山陰。山陰令陸邵拒之,戰柯亭,賊敗走。

甲子,豫州刺史劉粹遣將軍襲許昌,殺西潁川太守庾龍。乙丑,虜騎掠高平。初,虜自河北之敗,請修和親;及聞高祖崩,因喪來寇,河北騷然矣。



通鑑

柔然じゅうぜんが北魏領に侵攻してきた。北魏は長城を赤城せきじょうから五原ごげんにかけて敷設、その長さは二千里あまりに及んだ。




3 月


通鑑

蕭文寿が興寧陵こうねいりょうに葬られた。

拓跋嗣は一万あまりの兵を更に発した。

朝廷は前線にいる劉粋や高道瑾こうどうきん壽陽じゅようまで引き返すべく進めたが、劉粋らは抗戦を申し出た。朝廷も受け入れた。

拓跋嗣が枋頭ほうとうに至った。

毛徳祖は公孫表と旧交があった。そしてその知略も知っていたため離間策を講じた。策略は成功、公孫表は陣中で殺された。

拓跋嗣が陳留ちんりゅうに至った。

叔孫建らは東陽城に迫るが、竺夔、垣苗によって撃退された。この頃檀道濟は彭城ほうじょうに到着した。

拓跋嗣が盟津めいしんに出た。河內かだいを中心としたエリアに侵略。更には湖陸こりく、高平を襲撃、あるいは殺し、あるいはさらった。鄭順之ていじゅんしは湖陸を守っていたのだが、あまりの兵力差に救援を出すことができなかった。

伊樓拔いるいばつに奚斤の虎牢攻略を手伝わせたが、引き続き毛徳祖に跳ね返された。この頃になり、北魏軍の士気に陰りが見え始めた。




4 月


建康

檀道濟が臨朐りんくに到着した。北魏軍は攻城器具を焼き払い、青州から退去した。今回の事態を受け、孫琳そんりん徐羨之じょせんしに対し弾劾提議をなした。徐羨之は孫琳の弟である孫璩そんきょに釈明を伝えるよう依頼。最終的には却下されたが、孫琳に対し、みなが恐れ憚るようになった。

青州の侵攻は食い止められたが、虎牢は陥落した。毛徳祖も捕らえられた。虎牢は唐突に包囲されたため城内にまともな軍資もなく、兵士も馬もみな水不足にあえいでいた。皮膚は黒くなり、あるいは爆ぜ、病に冒され死んだものは、まともに血も残されていなかった。そのような事態にあっても毛徳祖は最後まで戦った。側仕えたちが毛徳祖だけは逃がそうとしたのだが、「城を亡ぼしてこの身を存らえさせることのどこに義がある!」と、兵らと共に捕まった。


夏四月,檀道濟北征,次臨朐。虜焚攻具,去青州。孫琳為御史中丞,以事忤徐羡之,羡之遣琳弟璩自釋。琳曰:「我觸忤宰相,罪止一身,差不及爾,無忙懼。」遂劾免羡之,雖不獲命,朝廷憚之。

己未,虎牢城陷,虜執司州刺史毛德祖歸。初,虎牢圍急,城内無水,士馬皆渴,皮膚黑爆,人皆患瘡,至死無血。城潰,左右扶德祖使逃,德祖曰:「義不使城亡而身存!」與衆俱執。



通鑑

拓跋嗣は成皋関に出、虎牢にいたる水路を封鎖させた。そして自ら虎牢を攻めたが、落とせない。

叔孫建は檀道濟の到着を見て撤収した。

西秦せいしん乞伏熾磐きっぷくしばんは劉宋よりも北魏につくべきであると表明した。




4.5 月


通鑑

虎牢陥落。この事態を受け、拓跋嗣は毛徳祖を必ず生きて連れてくるよう命じた。大体の者は捕まったが、范道基はんどうき率いる二百人だけは包囲を突破、南に帰還した。

北魏軍でもこの頃疫病がはやり始め、十人のうち二人、三人が病に倒れる有様だった。戦いを終えた北魏軍は各地に守将を配置、地域の民を慰撫して回った。

徐羨之、傅亮ふりょう謝晦しゃかいは今回の事態を受けて引責辞任を申し出たが、却下された。

徐羨之の甥である徐珮之じょはいし王韶之おうしょうし程道惠ていどうけい邢安泰けいあんたい潘盛はんせいらと結託していた。謝晦が病気を理由に客との面会を断っているのを聞き何か良からぬことを企んでいるのでは、と傅亮に密告。そのようなことがありえるはずがない、と傅亮は却下した。




5 月


通鑑

拓跋嗣は平城へいじょうに帰還した。




6 月


通鑑

拓跋穆觀たくばつぼくかんが死亡した。

拓跋嗣は參合陂さんごうはを巡察した。




7 月


建康

少帝の母、ちょう氏を皇太后とした。住まう宮殿を永樂宮えいらくきゅうとした。旱害を理由とし、五歲刑以下の罪人に大赦がなされた。


七月癸酉,尊帝所生張夫人曰皇太后,宮曰永樂。丁丑,以旱故,詔赦五歲刑已下罪人。




8 月


通鑑

柔然が河西を攻撃。沮渠蒙遜は世子の沮渠政德に迎撃させたが、この戦いで沮渠政德が戦死した。沮渠蒙遜は沮渠興をかわりの世子とした。




9 月


通鑑

奚斤を平城に帰還させた。娥清がせい周幾しゅういくに枋頭を守らせ、司馬楚之しばそし汝南じょなん南陽なんよう南頓なんとう新蔡しんさいを与えた。




10 月


建康

彗星が尾宿にあらわれ、大角に向かった。

少帝は即位後礼に敵わぬ行為が多かった。范泰はんたいがその振る舞いを諫めて言う。「王の振る舞いが誤っておれば、下々もまた過つものでございます。臣は先帝よりの寵遇を賜って参りましたが、陛下の御振る舞いには心を痛めてばかり。愚臣の想いをわずかなりともお察し頂けたのであれば、この身葬られてもお恨み申しませぬ」

杜恵度とけいどが死亡した。地味な服装で粗食を貫き、よく交州こうしゅうを運営した。凶作で人々の生活が苦しくなれば、自腹を切って救済した。治下の十城の門は夜であっても閉ざされることなく、道に何かが落ちてもネコババする者はなく、海賊もいなかった。


冬十月己未,有星孛于天,指尾,貫攝提,向大角,仲月在尾,季月掃天倉而後滅。

帝既即位,多不率禮。范㤗上封事,深言其不道及多言,曰:「王言如絲,其出如綸,下觀而化,疾于影響。臣蒙先朝厚遇,思竭狂瞽。陛下若能留心鑒察,則臣無恨九泉。」

輔國將軍、交州刺史、龍編侯杜惠之卒,贈左將軍。惠之為刺史也,布衣疏食,治國如家。歲荒民飢,以私祿賦。十城門夜不閉,道不拾遺,海表大治。



通鑑

乞伏熾磐暗殺未遂事件が発生した。




11 月


通鑑

北魏の周幾が許昌を攻撃。許昌は陥落、李元德りげんとくこうに逃れた。更に汝陽じょようも攻撃。王公度おうこうどもまた項に逃れた。劉粋は姚聳夫ようじゅうふらに項の救援に向かわせた。北魏軍は許昌城を解体すると、その地に国境を設定する旨宣言した後撤収した。

拓跋嗣が死亡した。拓跋燾たくばつとうが立った



12 月


建康

寧州ねいしゅう江陽こうよう建安けんあん郡とした。


十二月丙寅,省寧州之江陽為建安郡。

是歲,索虜太宗死,子燾代立。



通鑑

拓跋嗣には明元帝めいげんていと諡され、金陵きんりょうに葬られた。

河內を守っていた、当時106歳の羅結らゆうを外都大官とした。

崔浩さいこうが老荘の書を読んで「これはクソ」と断じた。また仏教も嫌い、「えびすの神をなぜ崇めねばならんのだ!」と言った。拓跋燾即位に対し、周囲から崔浩を糾弾する声が上がり、結果崔浩は免職された。とは言え何か問い合わせたいことがあれば崔浩のもとに使者を飛ばした。

崔浩は婦人のような美しさ、自らを張良ちょうりょうに比すほどであった。家に戻ったのをいいことに美肌トレーニングに精を出した。

道士の寇謙之こうけんしが『科戒かかい』二十卷、『圖菉真經ずろくしんけい』六十餘卷などをもとに道教の基礎を創立。拓跋燾に献上した。まわりの者はその教えを怪しんだが、その中で崔浩ひとりが喜んで教えを授かった。そして崔浩づてに拓跋燾もこの教えを受け入れ、以降道教が北魏国内で一気に勢力を伸ばした。

このことに対し、司馬光しばこうは「寇謙之のような胡乱な者を信じるとは!」と批判している。




(建康11-2)

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