慧観2  宋帝よりの厚遇

クマーラジーヴァが死んだあと、

慧観えかん荊州けいしゅうに赴く。

まさに教えを実践せん、としたのだ。


ときの荊州刺史は、司馬休之しばきゅうし

のしあがる劉裕りゅうゆうを良しとしない、

最後の東晋とうしんの重鎮である。


司馬休之、慧観を大いに敬い、重んじた。

更には高悝寺こうりじを建て、与える。

こののち荊州や江州こうしゅうの民が

邪な教えから正しき教えに目覚めること、

邪宗者の半ばにも至る勢いであった。


やがて司馬休之は劉裕の攻撃を受け、

後秦こうしんに亡命する。

ただ、劉裕が江陵で慧観に接見すれば、

そこでのやり取りは、旧来の知人と

接するがごとくであった。


そんな慧観を重んじた劉裕、

司馬休之の後任として赴任させた劉義隆りゅうぎりゅう

すなわち、のちの文帝ぶんていの指南役として

その役割を与えた。


まもなく建康けんこうへの帰還命令が発される。

が、慧観、道場寺どうじょうじに留まった。


この伝では全く言及されていないが、

慧観、どちらかと言えば

クマーラジーヴァではなく、

ブッダバトラの弟子なのである。

「おいおい、お前ザコじゃん」と、

当代一流のクマーラジーヴァを

一刀のもとに切り捨てた、あの。


そういうわけで慧観、

ブッダバトラが訳経をなした道場寺で、

おそらくブッダバトラの探求を継承した。

そこで仏典に合わせて老莊ろうそう思想も検証。

更には『十誦律じゅうようりつ』にも精通し、

多くの思想の検討に当たる。


このため、慧観のもとには

真理を探求せんと志すものが集い、

聴講者のために敷かれたむしろに

空きスペースができることはなかった。




什亡後,迺南適荊州。州將司馬休之甚相敬重,於彼立高悝寺,使夫荊、楚之民迴邪歸正者,十有其半。宋武南伐休之,至江陵與觀相遇,傾心待接,依然若舊。因勅與西中郎遊,即文帝也。俄而還京,止道場寺。觀既妙善佛理,探究『老』『莊』,又精通『十誦』,博採諸部,故求法問道者,日不空筵。


什の亡き後、迺ち荊州に南適す。州將の司馬休之は甚だ相い敬重し、彼に於いて高悝寺を立て、夫れ荊、楚の民をして邪を迴し正に歸せしむるは、十に其の半を有す。宋武の休之を南伐せるに、江陵に至りて觀と相い遇し、心を傾け待接せること、依然として舊なるの若し。因りて勅し西中郎と遊ぶ。即ち文帝なり。俄に京に還じ、道場寺に止む。觀は既に佛理に妙善にして、『老』『莊』を探究し、又た『十誦』に精通し、博く諸部を採らば、故に法を求め道を問う者は日に筵を空けず。


(高僧伝7-4_寵礼)




これは慧観、いわゆる武関ぶかんルートを使っていますね。要は長安ちょうあんから直接荊州に向かえるルートです。あそこって、地図を見た感じだとめっちゃ盗賊さんの稼ぎ場感がするんですよね。なにせ山間の道、隠れ家に困ることもない。軍隊や隊商でもない限り、めっちゃ危ない。まぁ、さすがにクマーラジーヴァの直弟子ですし、それなりの護衛はつけられた旅路だったんでしょうが。


しかし、ブッダバトラ伝を見返す感じだと、慧観ってかなりガチガチのブッダバトラ系法師だったっぽいんですよね。なのに本人の伝では全くその辺りが匂わされてない。むしろクマーラジーヴァ直系みたいな印象にもなります。まぁクマーラジーヴァとブッダバトラは割と仲良かった感じもしますけど。


この辺、どんなロジックが働いてんのかなあ。なかなか妄想が楽しそうなテーマだな、と思いましたのです。

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