慧厳2  東晋仏教人物史

さて、劉義隆りゅうぎりゅうは仏教徒であったが、

どうもその信心は余り深くなかった。

なので仏教とはどのようなものかを、

臣下の何尚之かしょうしに尋ねたことがあった。


そこで何尚之は、

東晋とうしん五胡十六国ごこじゅうろっこく時代の仏教について、

以下のようにまとめている。


西晋せいしん以前はすでに遠い昔ともなり、

 つぶさに語ることはできませぬ。

 しかし東晋以降の著名人物として、

 以下のような方が挙げられます。


 王導おうどう周顗しゅうぎ庾亮ゆりょう王濛おうもう謝尚しゃしょう

 郗超ちちょう王坦之おうたんし王恭おうきょう王謐おういつ郭文かくぶん

 謝敷しゃぶ戴逵たいき許詢きょじゅん

 我が曾祖父何準かじゅんに、その兄何充かじゅう

 王珣おうしゅんと、その弟王珉おうみん

 そして范汪はんおう孫綽そんしゃく張玄ちょうげん殷顗いんぎ


 あるいは宰相として政務トップに立ち、

 あるいは人々の規範そのものであり、

 あるいは天と人との関わりを考察し、

 あるいは俗世を超越しておりました。

 とは言えいずれの方々も、

 仏教をよくお信じでおられた。


 これら大名籍に肩を並べる名僧として、

 于法蘭じくほうらん竺法護じくほうご于法開うほうかい竺法潛じくほうせん

 康僧淵こうそうえん支遁しとん竺法崇じくほうすう于道邃うどうすい

 と言ったあたりが挙げられましょう。


 どなたも物事を聖人がごとくわきまえ、

 あるいは凡俗では測りようもない

 境地に達せられた方ばかり。

 以上が近世における

 道俗にある仏門の偉人であります。


 もし、この話を国内外に広げ、

 時代をかんにまで遡らせれば、

 奇才や異德の人物を、

 いかほど挙げることになりますのやら。


 慧遠えおん法師はかつて仰りました。

仏陀ぶっだの教化はあらゆる先に及ぶ。

 真理に向かおうとするのであれば、

 その教えは修行の根源となる。

 ならば俗世を救済するにあたっても

 重要な役目を持つであろう』と。


 密かにこのお言葉について

 考察すれば、なるほど、

 これが道理の奥にある考えなのだ、

 と得心させられます。


 なぜでしょうか?


 もし、あらゆる家が

 戒律を守ることができたのであれば、

 そこにトラブルの生じる余地はなく、

 すなわち国が刑罰を

 執行する必要もなくなります。


 この点は、仏図澄ぶっとちょう後趙こうちょうに赴き、

 石勒せきろく石虎せきこの暴虐を

 抑え込んだところに見出せましょう。


 また前秦ぜんしん苻健ふけん

 宝灯の光を浴びることで

 その暴虐の心を減らしました。


 このように御仏の道が

 人々の教化を助けてきたこと、

 おのずから示されておるのです」




中朝已遠,難復盡知。度江以來,則王導、周顗、庾亮、王蒙、謝尚、郗超、王坦、王恭、王謐、郭文、謝敷、戴逵、許詢,及亡高祖兄弟、王元琳昆季、范汪、孫綽、張玄、殷顗,或宰輔之冠蓋,或人倫之羽儀,或置情天人之際,或抗迹烟霞之表,並稟志歸依,厝心崇信。其間比對,則蘭、護、開、潛、淵、遁、崇、邃,皆亞迹黃中,或不測人也。近世道俗,較談便爾。若當備舉夷、夏,爰逮漢、魏,奇才異德,胡可勝言。慧遠法師嘗云:『釋氏之化,無所不可。適道固自教源,濟俗亦為要務。』竊尋此說,有契理奧。何者?若使家家持戒,則一國息刑。故佛澄適趙,二石減暴;靈塔放光,符健損虐。故神道助教,有自來矣。


前代の群英が如きに至らば、則ち明詔に負かざらたらん。中朝は已に遠く、復た盡く知るは難し。江を度りて以來、則ち王導、周顗、庾亮、王蒙、謝尚、郗超、王坦、王恭、王謐、郭文、謝敷、戴逵、許詢、及び亡き高祖が兄弟、王元琳が昆季、范汪、孫綽、張玄、殷顗は、或いは宰輔の冠蓋、或いは人倫の羽儀、或いは情を天人の際に置き、或いは迹を烟霞の表に抗すも、並べて歸依に志を稟り、崇信に心を厝す。其の間に比對せるは、則ち蘭、護、開、潛、淵、遁、崇、邃。皆な迹を黃中に亞ぎ、或いは人にては測りざりたるなり。近世の道俗の談を較ぶれば、便ち爾れり。若し當に舉を夷、夏に備え、爰に漢、魏に逮ばさんとせば、奇才に異德を胡んぞ言に勝るべからんか。慧遠法師は嘗て云えらく:『釋氏の化、可ならざる所無し。道を適くに固より自ら教源なれば、俗を濟せるに亦た要務を為さん』と。此の說を竊尋せるに、理が奧に契せる有り。何ぞや? 若し家をして家に戒を持たしむらば、則ち一國の刑は息む。故に佛澄の趙に適けるに、二石が暴は減ず。靈塔の光を放てるに、符健は虐を損ず。故に神道は教を助け、自ら來たれる有りたり。


(高僧伝7-2_為人)




この話、正確には建康けんこうにあんまりにも寺がたくさん建ちすぎたから丹陽尹たんよういん(東京都知事みたいなもん)が「いい加減にしろや」って仏教の流布を抑え込もうとしてて、で劉義隆は仏教にあんまり詳しくないから反論できなかったので何尚之に問い合わせた、って来歴があるんですよね。


そっから引っ張れば、これだけそうそうたるメンツが信奉して、しかも五胡勢力の暴虐まで抑え込んだんだから仏教は偉大! みんな奉じろ! 的になるわけですが、いえあの、東晋五胡十六国時代って稀に見る動乱期だったことを考えれば、この論旨ってかなり筋悪なのでは……?


ともあれ、どういった人物が東晋期仏教の浸透に携わったかを教えてくれる、大切な史料だと思ったので紹介させていただきました。ていうかここだけ切り出すと慧厳えごんすらいねぇな! わらうしかない。なお慧厳はこれにて終了です。

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