法顕6 晋地にて寂滅
南下を志した。
時の青州剌史は冬が明けてからでも
良いのではないか、と提案。
しかし、法顕は言う。
「
身を投じ、経典をこの地に広めたい、
と志した者です。
その思いを果たせずして、
どうして留まっておれましょうか」
そうしてついに建康入りし、
当時
ブッダバトラの監修をも得、
『摩訶僧祇律』『方等泥洹經』
『雜阿毗曇心』を訳出。
その総文字数は百万を超えてきた。
一方、法顕は独力で『大泥洹經』を
訳出しており、こちらも広く
世に伝わっていた。
大泥洹經については、こんな話がある。
どこの家の者かは
記録が残っていないのだが、
建康都城の内外を区分けする南の門、
日々仏教の布教に務めていた。
彼はまた自身で経典を筆写し、
唱謡し、供養もしていたのだが、
ただ供養のための一室を
特別に設ける、と言ったこともなく、
経典らは様々な書物とともに
一緒に保管されていた。
ある日、風の強い日に火事が発生。
火の手は瞬く間に彼の家にも及び、
家にあったものは焼き尽くされたのだが、
なぜか『泥洹經』だけは
ほんのわずかにも煤を浴びたり、
焦げたりもせず、厳然と保たれていた。
この話は建康じゅうに伝えられ、
誰もがその奇跡を聞き、驚嘆した。
後に法顕は
そして辛寺にて死亡した。86 歳。
人々はその喪失に慟哭した。
なお、法顕のインドへの旅路は、
別途大伝が存在している。
頃之,欲南歸,青州剌史請留過冬,顯曰:「貧道投身於不反之地,志在弘通,所期未果,不得久停。」遂南造京師,就外國禪師仏駄跋陀羅,於道場寺譯出『摩訶僧祇律』、『方等泥洹經』、『雜阿毗曇心』,垂有百餘萬言。顯既出『大泥洹經』,流布教化,咸使見聞。有一家失其姓名,居近朱雀門,世奉正化,自寫一部,讀誦供養,無別經室,與雜書共屋。後風火忽起,延及其家,資物皆盡,唯『泥洹經』儼然具存,煨燼不侵,卷色無改,京師共傳,咸歎神妙。後至荊州,卒於辛寺,春秋八十有六,眾咸慟惜。其游履諸國,別有大傳焉。
之の頃、南歸せんと欲せど、青州剌史は冬を過ぐるまで留まらんことを請う。顯は曰く:「貧道は不反の地に身を投じ、志は弘通に在らば、期せる所未だ果さずにて、久しく停むるを得ず」と。遂に南の京師に造り、外國の禪師の仏駄跋陀羅に就き、道場寺にて『摩訶僧祇律』『方等泥洹經』『雜阿毗曇心』を譯出し、有せるは百餘萬言に垂んとす。顯の既に『大泥洹經』を出だすに、流布教化し、咸な見聞せしむ。一なる其の姓名の失われたる家有り、朱雀門が近きに居し、世よ正化に奉じ、自ら一部を寫し、讀誦供養し、經室の別無く、雜書と屋を共にす。後に風火の忽ち起つるに、延ぶるに其の家に及び、資物は皆な盡くるも、唯だ『泥洹經』は儼然と具存し、煨燼は侵さず、卷色に改む無く、京師は共に傳え、咸な神妙なるに歎ず。後に荊州に至り、辛寺にて卒す、春秋八十有六、眾は咸な慟惜す。其の諸國を游履せるには、別に大傳有り。
(高僧伝3-6_文学)
法顕さん「そういう方向で称揚すんのやめろ、読んでくれ頼むから」
経典を広めたいのであって、ありがたがってもらうのは……いやまぁそれが読むきっかけになってくれるってんならいいのかもですが。とは言え、どこまで人間「ありがたいもの」を読もうとするか、どうか。
ともあれ、
https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%BD%9B%E5%9C%8B%E8%A8%98
こちらが本文に言う「別の大伝」。マジで長い。けどこっち読んだらはじめ
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