巻98 氐胡伝

仇池1  名将楊定    

仇池きゅうち。いわゆるしんしょくとの間の山間に

拠点を構える勢力で、

西の端の胡漢の境界に位置しており、

そのためよう氏が代々半独立勢力として

この地に割拠していた。


しかし前秦ぜんしん苻堅ふけんにより、遂に陥落。

一時滅亡し、ここまでを前仇池ぜんきゅうちと呼ぶ。


前仇池の王族であった楊定ようてい

苻堅の配下将として活躍したのだが、

転機は 383 年、淝水ひすいの敗戦を経ての、

苻堅の敗亡。苻堅が死ぬまでは

楊定も尽力していたものの、

苻堅死亡後には隴右ろうう地方に一門で脱出。

天水てんすい西さい県近くの歷城れきじょうを修繕した。

そこは仇池より百二十里の場所である。

そして、倉庫を百頃ひゃっこうに構えた。


混乱した関中で行くあてを失った

漢人胡人を拾い上げ、数千世帯を確保。

龍驤將軍、平羌校尉、仇池公を自称し、

しん孝武帝こうぶていの配下入りを宣言した。

孝武帝もこの自称をひとまず承認。


楊定、更に天水の西県、武都ぶと上祿じょうろく

一部を割り、仇池郡にしたい、と要請。

中原で手いっぱいの東晋であるから、

この地にアンチ関中勢力にいてくれるのは

御の字なのである。なので、認可した。


390 年にはさらに、楊定を

輔國將軍、秦州刺史に任命したのだが、

この時すでに楊定は征西將軍を自称。

だいぶやりたい放題である。

とは言え先述の事情の通りであるから、

東晋からもさらに持節、都督隴右諸軍事、

輔國大將軍、開府儀同三司を与え、

平羌校尉、秦州刺史はそのままとした。


同年、楊定は兵を進め、

天水の略陽りゃくよう郡を平定し、

秦州の地を手中に収め、

隴西王ろうさいおうを自称し始めた。


やったねたえちゃん!




孝武帝太元八年,苻堅敗於淮南,關中擾亂,定盡力奉堅。堅死,乃將家奔隴右,徙治歷城,城在西縣界,去仇池百二十里。置倉儲於百頃。招合夷、晉,得千餘家,自號龍驤將軍、平羌校尉、仇池公,稱蕃於晉孝武帝,孝武帝即以其自號假之。求割天水之西縣、武都之上祿為仇池郡,見許。十五年,又以定為輔國將軍、秦州刺史,定已自署征西將軍。又進持節、都督隴右諸軍事、輔國大將軍、開府儀同三司,校尉、刺史如故。其年,進平天水略陽郡,遂有秦州之地,自號隴西王。


孝武帝の太元八年、苻堅の淮南にて敗るるに、關中擾亂せば、定は力を盡し堅を奉ず。堅の死せるに、乃ち家を將い隴右に奔じ、徙りて歷城を治め、城は西縣の界に在り、仇池より去ること百二十里なり。倉儲を百頃に置く。夷、晉を招合し、千餘家を得、龍驤將軍、平羌校尉、仇池公を自號し、晉の孝武帝に稱蕃し、孝武帝は即ち其の自號を以て之を假す。天水の西縣、武都の上祿を割し仇池郡と為さんことを求め、許さるを見る。十五年、又た定を以て輔國將軍、秦州刺史為らんとせるも、定は已に征西將軍を自署す。又た持節、都督隴右諸軍事、輔國大將軍、開府儀同三司に進み、校尉、刺史は如の故し。其の年、進みて天水の略陽郡を平らげ、遂に秦州の地を有し、隴西王を自號す。


(宋書98-1_政事)




淝水が終わってから、やったぜ東晋大逆転の始まりだって言いたいところなんですが、よりによって東のほうで勢力伸ばしてきやがったのが慕容垂ぼようすいだったし、どさくさに紛れて謎の厄種翟遼てきりょうが暴れ回るしで、西のほうにまではなかなか手を伸ばし切れない状態だったのですよね。荊州けいしゅう雍州ようしゅうには桓玄かんげんとか楊佺期ようせんき殷仲堪いんちゅうかんみたいなのはいたけど、この辺をどれだけ制御し切れていたのか。


ともあれここでちょづきにちょづきまくってる楊定ですが、次話にていきなりオチがつきます。はえーよ。

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