宋書列伝
巻96 吐谷渾
吐谷渾1 慕容吐谷渾の子孫
その始祖は
父の死後に兄弟間で諍いが生じると、
戦いが激化するより前に別離を選択。
慕容氏が活動していた
遠く旅立ち、蜀の西の地にまで
たどり着いた。
その地で生活を開始し、吐谷渾は死ぬ。
その後を息子の
更にその後を
葉延の代で吐谷渾を姓とした。
その後
視羆死亡時に子の
いちど視羆の弟、
烏紇提の死亡後、改めて樹洛干が継ぐ。
吐谷渾樹洛干。
かれが車騎將軍を自称したのが、
ただ、まもなく死亡した。
その後を弟の
驃騎將軍を自称した。
この頃、隣の
吐谷渾阿犲は甥の
派遣して道を切り開き、
譙縱に対する牽制をなした。
劉義符はこれに応じ、詔勅を下す。
「吐谷渾阿犲は辺境の地より、
我が国への忠誠を誓ってきた。
これは祝福すべきことであり、
朕よりも寵を与えたく思う。
その遣使に報いるべく、
督
吐谷渾阿犲が官位を受領しました、
という知らせが宋に届くよりも前に、
426 年、
使者を飛ばした。
その使者が到着するよりも前に
吐谷渾阿犲は死亡。
その弟の
阿柴虜吐谷渾,遼東鮮卑也。父弈洛韓,有二子,長曰吐谷渾,少曰若洛廆。若洛廆別為慕容氏。渾死,子長吐延嗣。長吐延死,子葉延嗣。命姓為吐谷渾氏。葉延死,子碎奚嗣。碎奚死,子視羆嗣。視羆死,弟烏紇提嗣。烏紇提死,視羆子樹洛干立,自稱車騎將軍,義熙初也。樹洛干死,弟阿犲自稱驃騎將軍。譙縱亂蜀,阿犲遣其從子西彊公吐谷渾敕來泥拓土至龍涸、平康。少帝景平中,阿犲遣使上表獻方物。詔曰:「吐谷渾阿犲介在遐表,慕義可嘉,宜有寵任。今酬其來款,可督塞表諸軍事、安西將軍、沙州刺史、澆河公。」未及拜受,太祖元嘉三年,又詔加除命。未至而阿犲死,弟慕璝立。
阿柴虜吐谷渾、遼東の鮮卑なり。父の弈洛韓に二子有り、長なるを吐谷渾と曰い、少なるを若洛廆と曰う。若洛廆は別に慕容氏と為る。渾の死すに、子の長吐延が嗣ぐ。長吐延の死すに、子の葉延が嗣ぐ。姓を命じ吐谷渾氏と為る。葉延の死すに、子の碎奚が嗣ぐ。碎奚の死すに、子の視羆が嗣ぐ。視羆の死すに、弟の烏紇提が嗣ぐ。烏紇提の死すに、視羆が子の吐谷渾樹洛干が立ち、車騎將軍を自稱す。義熙の初なり。樹洛干死し、弟の阿犲は驃騎將軍を自稱す。譙縱の蜀を亂せるに、阿犲は其の從子の西彊公の吐谷渾敕來泥を遣りて土を拓き龍涸、平康に至る。少帝の景平中、阿犲は使を遣りて上表し方物を獻ぜしむ。詔して曰く:「吐谷渾阿犲は遐表に介在し、義を慕えるは嘉すべからば、宜しく寵任有すべし。今、其の來款に酬い、塞表の諸軍事を督し、安西將軍、沙州刺史、澆河公とす」と。未た拜の受くるの及ばざるに、太祖の元嘉三年、又た詔し除命を加う。未だ至らざるに阿犲は死し、弟の慕璝が立つ。
(宋書96-1_政事)
吐谷渾は蜀の更に外にいるわけですが、この時代にはそれほど暴れん坊って感じでもないですね。北魏とは結構バトってるんですけど。
考えてみれば、吐谷渾にとって北魏は宗族をボコしてきやがったにっくき相手だものなあ。そりゃ南朝と手を組んで叩こうとしますわね。
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