第98話 ホノカだって思い出が欲しい

 すっかり日も暮れてきたので、美海の家から脱出、もとい、帰る事にした。


「大晴くん。大晴くん。また来てね? 週に1回来るの、約束だよ」

「僕はどうして軽々しくあんなことを口走ったのだろう。……まあ。言ったのは僕だから、なるべく忘れないようにするよ。忘れた時は謝る」


「大晴くんは約束を忘れる人じゃないもん」

『そうです! 大晴くんは義理と人情に厚い、今どき珍しい日本男児ですよ!!』

「うっ! ホノカにまで言われると……! 分かったよ。ただし、ゴミ屋敷になってたら次はないからね? 速やかにダスキンに電話して、僕は帰るから」


「あぅ。が、頑張るもん。私、やればできる子だよ?」

「僕はやればできる子よりも、最初からできる子の方が好きだな」


 玄関を開けっぱなしでこれ以上会話をしていると、蚊とか蛾が家の中に入ってしまう。

 送ると言う美海の厚意に一応お礼を言って、丁寧に断ったのち、僕とホノカは帰路に。


 やれやれ。

 何と言う長い1日だったのだろうか。


 さすがの僕も疲れた。

 今日は熱めの風呂に浸かって、ゆっくり休もう。

 そんな事を考えていたところ、ホノカが不意に言った。


『大晴くん。あの、そのですねー。良かったらでいいのですがー』

「うん? どうしたの?」


 ホノカにしては、歯切れの悪い口調だった。

 僕たちは恋人。お互いに思った事や感じた事は全て包み隠さずに言い合える関係。

 ならば、僕が何を言えば良いのかなんて、おのずと分かる。


「ホノカの言う事なら、どんな事でも耳を貸すし、何でも包み隠さず言ってほしいな」


 すると、ホノカは両手を顔の前で組んで、まるで清水の舞台から飛び降りるような覚悟を秘めた表情で答える。



『あの。大晴くん。ホノカも、ホノカもですね! その、今日はデートの日だった訳で。だから、ホノカだけの特別な思い出が欲しいです!!』



 僕の返事は決まっている。

 だが、少しだけの沈黙を許してほしい。

 ホノカに相応しい、彼女だけに贈る事のできる、特別とはなんだろう。


 僕の脳裏には、とある場所が浮かんでいた。

 そうだ。ホノカには、僕のとっておきをプレゼントしよう。


 誰にも言った事のない、文字通り秘密の場所。

 それを共有する相手は、彼女をおいて他に誰がいると言うのだろう。


「それじゃあ、ちょっと寄り道して帰ろうか」

『ほわっ!? あの、大晴くんも疲れているでしょうし、無理しなくても良いんですよ!?』


 僕は返事をするのと同時に歩き出した。

 ホノカの顔を見る必要はない。

 きっと、数分後にはとびきりの笑顔を見せてくれるだろうから。


「ホノカとぜひ、一緒に見たい景色があるんだよ。他の誰でもない、ホノカと」


 その場所が、美海の家からほど近い事に、少しばかり運命を感じたりなんかしてしまう、まるで三次元の恋愛脳みたいな思考が湧いて来た。

 デートと言うのは、人格にまで影響をもたらすらしい。


 これは、親父に研究させなければ。



◆◇◆◇◆◇◆◇



 この辺りは高台になっており、坂道を少し上ると公園がある。

 正確を期すには、昔公園だった場所と言うべきか。


 今は雑草が生い茂り、古びたシーソーが一台あるだけの寂しい場所。

 だけど、僕にとっては特別な思い入れのある場所。


 小学生の頃、母親が浮気相手とどこかに消えてしまったあの日。

 僕は全然平気なふりをしていたが、実は結構なダメージを受けていた。

 それはそうだ。小学生にとって母親の存在の大きさを考えれば、まだ脳が未熟だった僕が心細さを感じないはずもなかった。


 だが、親父に心配をかけたくなくて、僕は学校が終わったら日が暮れて夜のとばりが下りてくるまでの時間をこの広場で過ごしていた。


 太陽が仕事を終えて、月が出勤してくる。

 そうするとこの寂しい広場は、特別な場所に変わる。


 楽しそうな級友を三次元と区分して壁を作った僕に、ここは優しかった。


「ほら、ホノカ。見てごらんよ。この季節でもまだちゃんといてくれた。こいつらと、下に広がる夜景が合わさると、これがなかなか幻想的なんだ」


 草むらに足を踏み入れると、ふわりと光の粒が浮き上がった。


『ほわぁぁっ! すごいです! これは……蛍ですか!? 実物は初めて見ましたぁ!!』


 かつて、僕の心を癒してくれて、三次元世界なのにまるで二次元の世界に迷い込んだような情景は、今もまだここにあった。


「僕の秘密の場所だよ。親父にだって教えてない、本当に僕だけの秘密。ただ、蛍以外にも虫がいるから、腕や首筋を刺されるのが難点なんだけど! はは!」


 しばらく目を丸くして、口を開けたまま固まっていたホノカ。

 ふと思い出したかのように、僕に聞く。


『こんなステキな場所を、ホノカに教えて良かったんですか!?』


 ホノカともあろう者が、これは少し見当違いな事を言う。

 そんな彼女も当然愛おしかった。


「ホノカと一緒にいつか見たいと思ってたんだ。夏休み、なんだかバタバタしてて機会がなかったけど、今日一緒に来られて本当に良かったよ」


『……大晴くん。ホノカ、絶対にこの景色を忘れません! 何十年も、何百年も!!』

「あはは! その頃には僕、もう死んじゃってるなぁ!」


 それからしばらく、言葉少なに2人で蛍と街の織りなす光を眺めていた。

 今日は、割と、いや結構、いいや、自分に嘘をつくのはヤメよう。


 とても楽しかった。


 そんな楽しい思いをさせてくれたのは、他ならぬホノカ。

 ならば、今日の最後を締めくくるのは、ホノカと一緒でなければならない。


 当たり前の道理を構築して、ひとりで満足げに頷く僕を見て、ホノカが口を開く。

 いつもとは違った調子で。


 きっと、何か大切なことを言うのだろう。

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