神亡き世界の呱呱の聲⑳
◆
「
彼女が臥せる寝室へと続く廊下では、他所より侵入した赤い兵達と同じく赤い役人達とが進撃と抗戦とを繰り広げていた。
胸の内に爆ぜる不安と焦燥が少女を圧し潰そうとしていたが、しかし少女は己が表情を歪ませることでそれに耐え、そして意を決して掌から紅蓮を練り出した。
「やめてください、
噴き出した焔は赤を焼き、勢い付いていた叛逆者達の足並みを乱す。
その隙を衝いて役人達は慣れない武具を振るって赤い兵達を押し返す。
「天使様っ!」
「今のうちに、創造主様の下へ!」
大きく頷き、少女は彼らの背中を擦り抜けて続く廊下を駆け抜ける。
窓の外ではもうもうと黒煙を上げる戦火が街を包んでおり、この国の至る所でこの城内のような侵略が拡がっていることを少女は悟る。
早く、駆け付けたい。
早く、彼女に会いたい。
そんな想いを汲み取らない身体の動きがもどかしい中、とにかく少女は全身全霊で駆け抜けた。
そして遂に彼女の寝室が見え、その手前で倒れ伏す赤い死体達を踏み付けることにも臆さずに、ただただ彼女を
「
黒い血を吐きながら、彼女は部屋の中心に立っていた。
役人達も叛逆者達も皆、赤い血を流して彼女の周囲に倒れ伏している。その輪の真ん中で、召喚した
「
叫ぶ声に、安堵の色が濃く込められた。既にもつれそうな足で、それでもまた駆けた少女は彼女の下に辿り着いた。
抱き締めた身体は、異常な程に冷たかった。生者のとは思えない体温が、それでも少女の抱き締める力を増強させた。
「
「……良かった、……生きて、いたのね」
「逃げましょう! まだ、」
「駄目よ」
ごぼ、と吐き出された血の塊は床に黒い華を咲かせる。
絶句した少女は、目鼻の先で困ったように笑む彼女の表情にまたも青褪める。
「もう、駄目なの」
「そんな……そんなの、」
嘘だ――――とは、言えなかった。
何せ少女は天使だ。神の言葉を、認めないことがどうしても出来ない。
天使にとって神は絶対だ。神の言葉は絶対だ。神の命は絶対だ。それに抗っては、天使ではいられなくなってしまう。
「どうしても、どうしても駄目なのですか?」
柔らかく微笑んだまま、黒い血で顎を濡らしたままの彼女は頷いた。
「だから、あなただけでも、――――」
「そんなっ!」
「聞いて、聞いて頂戴。これが最期の、」
「最期だなんて!」
最期の――ならばそれを聞き遂げなければ続く筈だ。最期にはならない筈だ。
何と稚拙な抗いか。そうだとしても、少女には認められなかった。
事実だと、認められなかった。
だが神が嘯いているとも、認めることは許されない。
「嫌です、
「ねぇ、お願い。私のことは置いて、」
「神を討て!」
怒号が舞い上がる。
赤い叛逆者達が来たのだ、もうすぐそこまで辿り着いているのだ。
「――――っ!」
だが先程までのように、彼らを跳ね除けるだけの力はもう彼女には無い。
無論少女もまた、武装など非日常だったあの赤い役人達に助けられてここまで来たくらいだ。当然、彼女はおろか自分自身すら守れる力は無い。
だが彼女はそうと知りながらも少女を押し退けて前に立とうとする。
魔杖で身体を支えながら、少女を守る盾となることをもう決めている。
「
「神を討て!」
「神は何処だ!」
「隠れるな! 討たれよ!」
怒号はどんどんと近付いてくる。それに合わせて、靴底が床を叩く音、剣戟や爆発といった戦闘音、それもまた響きの強さを増していく。
またもごぼりと黒い血を吐き出す彼女を離さずに、少女は彼女を呼ぶことだけを繰り返した。そうしながら、何をすればいいのかもどうすればいいのかも解していない身体でただただ彼女を抱き締めていた。
「
馬鹿みたいに、ただただそうしていた。
「討て! 神を討て!」
「死を!」
「世界に始まりを!」
「我らの始まりを!」
「新たな始まりを!」
とうとう赤い叛逆者達は乗り込んで来た。
目の前の惨状を見て足を止めるも、元より承知と、抱き合う二人を目に見据えて突撃の意思を身体全体に漲らせる。
それに慄くあまり自我を獲得したばかりの幼子のように理解を放棄した少女だが、しかし彼らが彼女を、創造主にして神である彼女を殺してしまうことは明らかだった。
このままでは。
このままでは彼らが、神を、彼女を殺してしまう。
神は、彼女だから。
神を、彼らが、神は、彼女で、彼らは、神を、彼女は、彼らに、神だから、彼らは、彼女を、神を、神は、神、彼女、神、神神神神神神神神――――
「神なんていない!」
彼女を抱き締めたままそう叫び上げた少女の声の響きがその場にいた誰しもに染み渡ると、残響だけを残して場は静寂に包まれた。
「神なんて、ここにいません、何処にもいません、ここに、ここにいるのは神じゃなくて、私の、私の――――」
その言葉に耳を疑った彼らは、だが直ぐに春先の雪解けのように疑心を無くし、顔を見合わせて互いに頷き合うと踵を返した。
何事も無かったようにぞろぞろと出て行く彼らの靴音に振り返った少女は、その背中を見送りながら何が起きたのかを理解できずにいる。
しかしそれを理解するより前に、互いに抱き締めいた筈の四つの腕のうち、少女のものでは無い二つがだんらりと垂れた。
「え」
少女の腕の中で、彼女の身体はぐゆらりと傾いた。それを支え切れずに、呆けた少女の身体を離れて彼女の遺体は黒い血に濡れた床の上にどしゃりと横たわる。
「あ」
何か意味が込められていたような音では無かった。
そんな、腑抜けた声しか出せなかった。
何かを思おうとしたが心はそれどころでは無かったし、何かを考えようとしたが脳もそれどころでは無かった。
ただ、その事実を少女の身体は本能のままに全力で拒絶していたのだから。
「
何も答えない。それはもう遺体なのだから。
「
何も答えない。それはもう遺体なのだから。
「……
何も――――何時だって、
そっと手を伸ばした少女は、死して尚も微笑む彼女の頬に指で触れた。
もう、何も感じなかった。
柔らかく、温かく、滑らかだった筈の彼女の、感触すらも死んでしまったようだった。
いや。
死んだのは、それをそう感じる自分の心なんじゃないか――少女は考えようとしたが、すぐにどうでも良くなった。
ただ、目の前の死だけが、どうでも良くなくて。
それだけがどうしても、どうにも出来なかった。
「あ――――夢だ」
そう独り言ちた少女は、眠るように瞼を閉じた。ひんやりと横たわる遺体に身を預け、静かに呼吸を二度ほど繰り返した。
(そうだ。確かに、何もかもが夢みたいだった)
目覚めて、愛しい人がずっと傍にいてくれた。
天使の身体は不完全でも、命題を秘めた名前は無くとも、役割は常に与えられていた。必要としてくれていた。
驚きはあり、不安はあった。失望という絶望に似たものはいつも側にある気配を感じていた。だが彼女の柔らかい笑みがそれを拭い去ってくれた。
二人だけの聖域とも呼べる世界――それでも少しだけやはり寂しい世界に、やがて命が芽生え始めた。
初めて遭遇した仔犬はとても可愛らしく、初めて交流した人間は温かかった。
巡ることを思い出した風は涼しく、雨は冷たくも地面を叩く拍子に心が弾んだ。
幸せ、と言えば幸せだったのだろう。
夢を見たことは無い少女だったが、夢がどういうものであるかは蓄えられた天使の記録が教えてくれた。まさしくそれは、何もかもが夢の様だった。
「夢なんかじゃない」
はっと目を開いて跳ねるように起き――そこで漸く、少女は自分の過ちに気付いてしまった。
そして同時に。
自分に付けられた名前を――課せられた命題を。
そこで、漸く思い出した。
「私は――――
――――
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