喰み出した野獣、刃乱した除者⑫

「山犬さん」


 宴も終わり、夜警を自ら申し出て集会所のある建物の高い屋上の中心に胡坐を掻いて座る山犬の下に訪れたのはエディだった。

 振り返った山犬の表情はいつも通りとは言えず、月に照らされた少女の仄かに憂う顔貌はやはり愛らしいと言えた。


「どしたん?」

「いえ……」


 言い淀むエディににこりと微笑んだ山犬はちまっこく手招きをする。誘われるがままにエディはその隣に座り、同じように胡坐を掻いた。


「悩み事があるんなら言ってみ? 山犬ちゃんが聴いてあげるから」

「そう、ですか……」

「あ、でも期待しないでね? 山犬ちゃんはあくまで聴くことしか出来ないからね? それでも君の心のつっかえが少しでも無くなるんならいいんだけど」

「いえ、ありがたいことです。では……」


 飲んだ唾が覚悟を硬化させる。エディは湿潤を纏った喉で、潮の匂いのする大気に言葉を零した。


「神は……殺さなくてもいいんでしょうか」

「いや知らないけど」


 驚いたような、困ったような表情だった。それを眺める山犬は、実につまらなさそうな表情だ。互いに見合い、少しの間沈黙がその場に立ち込めていた。

 夜風はほんのりと冷たく、幸い風はそよいではいないがこの時だけはひゅうと吹き抜けた。


「し、知らない?」


 どうにか驚愕を押し潜めて問いを振り絞ったエディに、山犬は呆れたような笑みで答えを返す。


「知らないよ。だって山犬ちゃんは神様と会ったことも喋ったことも無い、そもそも知らないんだよ? どんな相手かが解らなかったらそれが殺されるべきかどうかなんて判らない。つーまーりー、神様を殺さなくてもいいかなんてことも判らない」


 唖然とするエディに山犬は、「ね、言ったでしょ? 期待しないでって」と追い討ちをかける。

 放心したまま二つ頷き、馬鹿馬鹿しくなってしまった少年兵は前を向いて笑った。


「……そうなんです。そうなんですよ、その通りなんです。ただ俺たちはそんな風に教えられてきたからそれに従っているけど、それでいいのかな、って思ったんです」

「ふぅん。いいんじゃない? 殺したければ殺せばいいし、殺したくなければ殺さなくても。ただね、山犬ちゃんは殺すよ」

「……どうしてですか?」

「だってそれが、山犬ちゃんの命題だから」


 天真爛漫な少女の破顔に、エディは再び真摯な顔つきとなる。


「でも天さんはその命題を」

「天ちゃんは天ちゃんだからね。山犬ちゃんとは規格が違うの」

「……はい」

「天ちゃんは何にも縛られたくないって気持ちでいるけど、実際には自由って言葉に一番縛られてる。ノヱル君の受け売りだけどね?」


 エディは混乱した。しかし聡明な彼は直ぐに、その言葉の意味を“自由であろうとし過ぎていて却って選択肢を減じている”と理解する。


「山犬ちゃんやノヱル君は、自由もいいけど、不自由を受け入れることもまた自由の一つだって思ってるよ」

「何だか難しいですね」

「そだね。ごちゃごちゃ考え過ぎると混乱するよね。だから山犬ちゃんは、あまり深く物事は考えないようにしているよ? 考えるのは全部ノヱル君にお任せ放題。その代わり、ノヱル君のことは絶対に守り切るの」

「それが、山犬さんの……」

「そうだよ。それが山犬ちゃんの、自分で決めた命題」


 ますますエディは困惑した。目の前にいるのは自らを道具だと信じて疑わない機械人形ヒトガタだ。にも関わらず、自らに与えられた命題、道具としての意味をどうでもいいと論じ、剰え自ら命題を規定する。

 到底、道具だとは思えない所業だ。


 しかし寧ろ清々しかった。エディはそれを聞いて、理解はしかねたものの納得した。

 これまで同様に、深く考えず彼らを共に戦う仲間として認識していればいい、それでいいと思ったのだ。


 そして自らに課せられた神殺しとしての矜持も。

 その是非を問うのは、神と遭遇を果たした時で構わない。今はただ、襲い来る脅威を排除するために全力を傾ければ良い――そう決めることで心のしこりを取り除いた。


「山犬さん、ありがとうございました。おかげでスッキリしました」

「うーうん。山犬ちゃんは何もしてないよ。スッキリしたんなら、それは君自身の何かの結果だよ」

「何かって、何ですか?」

「わかんない。わかんないから何かなんだよ」


 はははと笑い合う二人。そして一時の別れを告げ、エディは建物の中へと入っていった。



   ◆



「……何ですか、賤方こなたを誘っていながらこの体たらく。初戦ですからまだまだ出し切っていないのですが?」


 集会所の地下。長老であるキユラスの寝室では、きぬを纏わぬ天が同じく裸体を晒すキユラスを見下ろしながらそう告げた。

 キユラスは眦を滲ませ灰褐色の身体を上気させながら、ただただ荒く呼吸を繰り返すばかりで何も応じようとはしない――いや、出来ないのだ。


「……まぁ、いいでしょう。此度は少しは楽しめた方です。いいですか? 戻ってきた折には全てをますからね? 斯様かような醜態を晒すのならすぐに飽いてしまいますよ?」


 ベッドに投げ出された身体に近付き、手をついて天はキユラスの顎を撫でた。その指遣いですら、キユラスは肉の悦びに身体を跳ねさせてしまい双眸までをもさらに濡らしてしまう。


「ふふ。それでは」


 離れる身体を引き留めるために腕を伸ばすことすら出来ず、キユラスは惚けたまなこで衣服を着て佇まいを直し去っていく背中を見送った。


 正直、ここまでのものだとは思ってもいなかった。


 沈む人族フィーディアンは母となる女児の出生率が異様に高く、男性はこの集落から消えて久しい。

 長命、そして表面的な老化の無い彼女たちはに飢えていた。だから時折潮流に乗って訪れる余所者トランジエントは昼も手厚く迎え、なるべく長く留まってもらうための手練手管を研鑽してきた。


 その長であるキユラス一人で臨んだ夜――天には通用しなかった。剰え引っ繰り返され、陸に打ち上げられた魚のような醜態を晒すに至ったのだ。

 キユラスの肉体からだは未だ悦びの渦に飲み込まれていたが、その精神こころには危惧が生まれていた。

 天は明日からフリュドリィス女王国クィーンダムへと最後の勤めを果たすために旅立つ。そしてこの地にまた戻ってくるのだ。

 その時までに、今度こそ万全を期して迎え入れなければならない。

 穏やかな凪のように見えてその実、嵐すら生温いに耐え抜き、築き上げてきた智と技の全てを費やして覆さなければ。


 自由を善しとする暴嵐を、この地に留めることは出来ないのだ。




(朝までかかると思っていましたが……拍子抜けですね)


 夜警の拠点である集会所の屋上を目指し、天は黙々と階段を上る。


(まぁ、帰って来た時の楽しみが増えたと思って善しとしましょうか)


 施錠された鉄扉を開き、屋上へと身を晒した天。その眼前には、屋上の中心に膝を抱いて座る山犬の小さな背中があった。


 コツ――靴底が堅い床を踏む響きに山犬は振り返り、冷めた目で天の姿を見据えた。


「朝までかかる筈でしたが――先方がようですので切り上げさせていただきました」

「へぇ、そう」


 振り向いた首を再度前へと向けて、空に煌めく星を眺める山犬。

 天はそのそっけない様子に浅く嘆息して困った笑いを零すと、歩み寄らずにその場で夜空を見上げる。


「月は出てはいませんが――星は綺麗ですね」

「……そだね。誰かさんの中身とは大違いだね」

「誰かさん……もしかして、賤方こなたですか?」


 くつくつとした笑い声と共に疑問らしからぬ問いを放つ天に、やはり山犬は振り返らずに答える。


「どうだろう? 天ちゃんが自分のことをそう思ってるんだったらそうなんじゃない?」

「……山犬。ひとついいですか?」

「はいはいどーぞ?」

「どうして貴女は、賤方こなたにそのように振舞うのでしょうか? 賤方こなたの振る舞いが気に入らないとて、貴女がその魂に抱く“邪淫”もまた、賤方こなたの振る舞いと何ら変わりない筈です」


 確かに。山犬の魂に紐づいた“獣性”が象徴するひとつ“邪淫”は、天の行いに通じるものがある。

 天のそれは彼の魂に紐づく“悪意”が象徴するひとつ“強欲”から来るものだ。ありとあらゆるを欲す業の深さは、それだからこそと言う欲求にも繋がっている。山犬が抱く“邪淫”と同質だ。

 だからこそ天は山犬の振る舞いが解らない。彼女もまた、自らと同じ欲求を抱いていると言うのに。どうして自らのみを忌避するのか、理解できないのだ。


「どうして貴女は貴女の行いを許容しながら、賤方こなたの行いのみを断じるのですか?」


 すっくと立ち上がった山犬は、星明かりの僅かな輝きの下で表情に光と影の二つを纏いながら、同じく照らされながら陰る天の綺麗な顔を真っ直ぐに見詰める。


「――自分ばかりを優先して、他を全く省みないからじゃないかな?」


 その顔は、もはや同胞はらからとは言い難く。

 文字の四つで言うなれば、“一触即発”――まるで仇敵同士が対峙したようだった。

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