死屍を抱いて獅子となる⑩
そこで漸く、ノヱルは湖上に浮かび上がったその天使が本体ではないことを確信した。
水に形と命とを宿すことのできる天使、その姿でさえその能力で創り上げた虚像。
本体は湖の中にあり、騙すために天使の虚像だけに色をも与えたのだ。
その解をノヱルが体内に内蔵された索敵機能の反応から見出したのと、ほぼ同時に。
今までは在り得なかった、天使そのものの突出という行為が、戦士たちに対応を遅らせた。
「貴女が頭ですね?」
両手剣を盾のように構えても意味は無い。
剣を、そして障壁魔術すらをも貫いて――その身を
◆
その夜。
エーデルはシシが自室へと戻ったことを確認すると、未開封の酒瓶を二本持ってノヱルの部屋を訪ねた。
ドアには鍵がかかっておらず、乱雑にノブを捻って開け放ったエーデルは、そうした後で思い出したようにドアをノックした。
「……開ける前にやるんだよ」
「知ってるよ。人を非常識人みたいに……」
「その通りだろうがっ。今何時だと思ってんだ!」
そんなノヱルの嘆きを受け止めず、にへらと笑いながら部屋に入ったエーデルはぼすんとベッドに腰かけた。
そして片手に持っていた酒瓶のうち片方をノヱルに投げ渡す。
「へへ、やろうぜ兄弟」
「……己れは酔わねぇぞ」
「ザルかい? なら願ったり叶ったりだねぇ」
「違う――己れが
告げられ、きょとんと小首を傾げるエーデル。
「ひとがた、って何だい?」
嘆息したノヱルは、右側頭部をがしがしと掻きながら端的にヒトガタについて説明した。しかしその説明の途中で聴くのに飽きたエーデルは自らが保有する酒瓶のコルク栓を開け、ポンと威勢のいい音が部屋に響く。
「お前なぁ……」
「堅っ苦しいこたぁいいんだよ。アンタは自分で考えて動ける人形、ってのはよく解ったさ。でも、飲めないこたぁ無いんだろ?」
「……ああ、喉の奥に流し込むことは可能だ」
「だったらそれでいいさ。歳のせいかなかなか寝付けなくてね。困っちまうよぉ」
そして同じように音を響かせて栓を開けたノヱルは、エーデルと酒瓶の口同士をコツンと軽く当て、瓶から直に酒を喉に流し込む。
味など、彼にとっては無いも同然だ。アルコールを嗜む機能が彼には無い。しかしそんなことは関係なく、ただ誰かと飲めるという幸せを、エーデルは喉を焼くほどの熱とともに噛み締めている。
「くぅ~っ! こりゃあ度数が高いねぇ、酔っぱらっちまいそうだよぉ」
「勘弁しろよ……」
「へへ、押し倒してくれても……いいんだよ?」
「お前の場合、逆だろ」
「えっ? いいのかい? おばさん張り切っちゃおうかな……誰がおばさんだっ!」
「お前だっ!」
げはげはと笑うエーデルに再びノヱルは溜息を吐いたが、それでも悪い気はしなかった。
絡み方は雑だが、エーデルは竹を割ったようにすっぱりとした性格をしている。メリとハリが効いているのだ。オンとオフが確りしている、とも言える。だからその性質を、悪いものとはノヱルは考えていなかった。
「……で、本題は何だよ」
「何だい何だい、急く男は嫌われちゃうよ?」
「シシのことか?」
「……それもある。でも訊きたいのは多分、アンタのことさ」
ノヱルは目を細めた。ぐい、と酒瓶の中身を喉奥に流し込んだエーデルは、据わった目でノヱルを睨むように見詰める。
「
眼力。外は雨の振る薄暗い部屋で、ただただその双眸だけが光を帯びていた。
しかし輝きを点しているのはノヱルの双眸もまた一緒だ。金色の虹彩は力強さを帯び、真っ直ぐの視線を受け止めて返している。
「……死者の魂を根幹に、……構築する輪郭にはそいつの遺体の一部を使う」
「
「己れが創った術じゃない」
「同じだよ。創ったことが問題なんじゃない、使っていることが問題なんさ。――そして、それをあの子に何故あげた?」
嘆息の返しに、ノヱルもエーデル同様に酒を
「……己れはシュヴァイン・ベハイテンのことはよく知らない」
「……シシの父親代わりの人、だね」
エーデルはその名前に聞き覚えがある。彼女も長らくここイェセロの
「ただそいつはシシに、生きて欲しいと願った」
「……何だい、アンタ、同情したのかい」
「その感情かどうかはよく分からない。ただ己れは、そう願われたアイツが、喪った悲しみに浸りきって生きることを放棄し、それなのに己れを恨みがましく睨み上げているのが気に食わなかったんだ」
憂鬱、怠惰、嫉妬――――最後のひとつはどうかは知らないが、彼の中にある感情に紐づけられた悪魔の統べる罪と、少なくとも二つは合致する。それが、自らを見ているようで赦せなかったとノヱルは語った。
「己れの
「……ちょっと待ちな、アンタ――」
「己れは
睨み付けるような鋭い双眸は今や見開かれていた。エーデルは、二人がそんなことになっているなどと思いも寄らなかったのだ――当然だ、彼女が見聞きしてきた魔術の中に、そんな得体の知れない挙動を見せる魔術など、一つとして無かったのだから。
「繋がったって……どういうことだい?」
「別に、考えてることが駄々洩れなわけじゃない。ただ、術を介して知り得た故人の記憶や知識が、互いに垣間見えてしまうことがあるだけだ」
最悪な内容では無かったことから、ほっと胸を撫で下ろしたエーデル。そして酒瓶の残りの全ての酒をぐびりと飲み干すと、酒気を帯びた溜息を盛大に吐き付けた。
「……アンタ、あの子をどうするつもりだい?」
「どうする……考えたことが無いな」
「焚き付けたのはアンタだよ。せめてケツは持ってあげな」
「随分と庇護欲を剥き出しにするな。なりたいんならあいつの母親にあんたがなればいい」
「なれないから言ってるのさ。アタイは子供をこさえたことは無いし、こういう性格だ、産んだって碌な母親になんかなれやしない。解ってんだろ?」
「それこそ理解不能だ。己れは確かに母親というものを知らない。でもあんたがシシと共にいる時、あんたは母親のように見えるぜ?」
「はぁ――?」
ガタリ、と床板を鳴らして立ち上がったエーデル。相変わらず椅子に腰かけるノヱルは、その様子を見上げながらぐい、と酒を呷って飲み干した。
「ほら、ご馳走様でした」
ぽい、と投げられた酒瓶を慌てて受け取り、目を泳がせたエーデルは軽く舌打ちして、赤い髪越しに頭を掻くと踵を返した。
「邪魔したね」
「ああ、本当にな」
「相変わらず口が減らないねぇ!」
「……己れはシシの何かにはなれないよ。それこそ仇敵くらいにならと思ったが、どうもそれも上手くいかなかったらしい」
「……そうだろうね。アンタ、不器用だからね」
「あいつももう、大人の歳だ。だからこれからのことは、あいつが決めればいい――って言うのは、天みたいで気持ち悪いが」
「じゃあノヱル」
半歩、後ろに下がって、ドアの前でエーデルが身を翻して振り向いた。
「シシがアンタについていくことを選んだなら。その時は……シシの兄貴にでもなってやりな。父親はもういたんだからね」
「……参ったな、己れはあんたから産まれた記憶が無いんだけどな」
「ものの例えだろうがぃよっ!」
「はぁ――そういうのは天と山犬に任せるよ」
「駄目だね。アンタじゃなきゃ駄目だ」
「何で?」
「アタイがそう言ってんだ。文句あっかい?」
「……しか無ぇよ」
「んじゃあ勝負で決めよう。明日――はシシの訓練で埋まってるから、明後日だね。明後日の午後、いつもの模擬戦で。序でにこの前の結着もつけようさ」
「……拒否権は?」
「無いね」
はぁー……がしがし。
「……分かった。勝てばいいんだろ?」
「そういうこった。覚悟しておき、本気で行くからね」
「はいはい。さっさと帰れ」
◆
しかし、その日は訪れないだろうことをエーデルは確信した。
その身を、巨大な槍と化した天使の尖鋭が穿ったのだ。盾とした剣も、張り詰めた障壁魔術も無意味だった。胸骨を破り、肺を抉り、背骨を突き抜けたのだ。
「エーデルさんっ!」
吹き飛び、跳ねながら転がった身体に力は入らない。まだ絶命していない、という猶予の中で、エーデルの目は駆け寄ってくるシシの姿を捉えていた。
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