九
刹那、息が詰まった。
(人の…………)
傲慢さを久しぶりに見た気がした。
あれもこれも哀れだ。あれもこれも惜しい。あれもこれも救えと、神に祈るような気安さで梔乃に請う。
そういう卑しい人間の顔を幾度も見てきた。
(だけど…)
不思議と不快ではない。琉霞の言葉からは、痛いほど切実な想いが伝わってくる。
梔乃は自分の手を強く握りしめた。
同じ気持ちだった。梔乃もまた、琉霞たちと同じように、人の子であるからだ。自分自身が、何よりも傲慢な人間であるから。
「
「え?」
「あれに纏わり付いた穢れを祓う」
梔乃の言葉に、琉霞はぱちくりと目を瞬かせた。
「梔乃、やはり貴女、
梔乃は不快そうに目を細める。やっていることは巫とそう変わり無いのだが、巫女のような扱いをされるのは不本意であった。
「穢れを祓えば、あの狐は救われますか?」
「不浄を落とせば、魂はもとのかたちに戻って
「かくりよ? あの世のことですか」
梔乃が無言で頷いた。
「それは良いところ?」
「さぁ、一回死んでみないと分かんないんじゃない」
救いを求めて問うたのに、すげなく返され琉霞がむくれる。
その表情を見た梔乃が、ふっと微笑った。
(あ、笑った)
初めて見た梔乃の笑顔に琉霞は一瞬だけ見とれる。
「生者は生者のいるべき場所に。死者は死者の還るべき場所に。……うまく輪廻の輪に乗れば別の命に生まれ変わることもある」
「生まれ変わる…」
この話には諸説あるが、それを云うのは流石に野暮だろうと、梔乃はこの先を噤んだ。
「っあ」
声を上げた琉霞の視線の先、妖弧が飛び上がった。
庭の松に頭を思い切りぶつけて跳ね返る。その後も石壁に自ら突進していったり、土を掘ったりとよく分からないことを繰り返している。
「……あれ、何してるんですか?」
「混乱して我を忘れてる。たぶん自分でも何をやってるか分かってない」
壁や木に衝突する度に、傷ついているのは狐自身だ。
ほとんど自傷ともいえるような行為を繰り返す姿は痛々しい。血走った瞳には憎悪と恐怖が入り混じって混沌としていた。
ふるふると乱暴に頭を振って、今度は石畳の方へと走っていく。助走をつけて飛び上がった。
「っあ、逃げられますよっ」
「いや…」
跳躍して石壁を飛び越えようとした妖弧は、しかし空中で見えない何かにぶつかって跳ね返った。その後も何度も外に出ようとするが、庭を覆う見えない壁に阻まれて、一向に抜け出せない。
「死霊は基本、生前に縁のあった場所に縛られる。自分の家、大切な人のところ、あるいは、自分が死んだ場所」
「じゃあ、あの狐はこの庭で死んだから、ここから出れないということですか」
琉霞の声に、梔乃は頷いて返す。
「夜が明ける前に捕まえて祓わないと、真白は助からないかも知れない」
「どうすれば祓えるんですか?」
「捕まえて…
「じゃあ、捕まえるのは僕に任せて下さい」
云うや否や、琉霞は木陰から飛び出した。「っあ」と云って梔乃が手を伸ばすも一瞬遅い。
意外にも、琉霞の身のこなしは疾風のように俊敏であった。
梔乃の横から駆けだして行って、妖狐に飛びつくまでは、正に転瞬の間。
狐の腹あたりを両手でかっちりと抱え込んで、誇らしげに梔乃を仰ぎ見た。
一瞬呆けていた梔乃であったが、すぐに気を取り直して琉霞の傍に向かう。
しかし、ばたばたと暴れだした狐が、琉霞の腕に噛みついた。痛みで力を緩めた拍子に拘束からするりと抜け出して、桜の木の下へと駆けて行った。
「大丈夫?」
「平気です。ちょっと驚いただけ」
着物の上から腕を摩る琉霞は悔しそうに顔を歪ませた。
「捕まえたと思ったのに…油断しました」
そう云って狐の消えていったほうに目を向けるも、そこには夜の闇が広がるばかりで、何もいない。
木陰に隠れているのかと思い桜の木の後ろに回るも、やはり狐の姿は無かった。
「あれ……消えた?」
確かにさっき、ここへ走っていったと思うのに、狐の姿はどこにも無かった。首を傾げる琉霞の横で、梔乃もまた思案顔をしている。
その後もあちこち庭中を手分けして探し回ったが、どこにも狐の姿は無かった。
「これは………どういうことでしょうか」
徐々に焦り始めた琉霞が、にわかに声を震わせて云った。
「こうなったら、屋敷中の者を叩き起こして探させるしか」
そうは云っても、今晩は父も他の兄たちも留守にしている。皆、他所の里に出掛けて、医師を探しているのだ。それに追従していった下男や使用人諸々も出払っていて、今屋敷いるのは真白の世話をするために残った女中と、厨の者くらい。あとは門にいる兵だけだ。
「…いや、その必要はない」
「え」
何かに気が付いて歩き出した梔乃の後を追っていくと、先ほど狐を見失った桜の木々が植えられている場所に来た。
「ここは散々見たでしょう」
「………ねえ、こんなのあった?」
「え?」
呆れたように云う琉霞の横で、梔乃は一本の木を指さした。まだ芽吹いて間もない
他の木はもう、ほとんど散ってしまっているのに。
「これ…」
琉霞が瞠目する。確かに、こんな木は無かったはずだ。
「梔乃、これもしかして」
琉霞が云い終える前に、梔乃は両手で幼木を引っ張る。すると、木がひとりでにぶるぶると震え出して、朧に空気が揺れたと思ったら、その姿が狐の尻尾に変わった。
地面から狐の尾が生えている。なんとも珍妙な光景であった。
「頭隠してなんとやら、ですね。これだけ見ると阿呆の子みたい」
「琉霞みたいにね」
「っな! それ、どういう意味ですか!?」
憤慨する琉霞を無視して、梔乃は遠慮なしに尾を引っ張った。土が柔らかいのか、案外簡単に狐の体がするりの抜け出てくる。
「ギャアアァ」
再び暴れ始めた妖狐を梔乃は自分の胸に押し付けた。ぎゅっと抱きしめるようにして、頭を撫でる。
「よしよし。もう大丈夫。もう誰もあなたを傷つけない。痛いのも、辛いのも怖いのも、もう全部終わったの」
包み込むような優しい声で梔乃が云った。
未だ
次第に妖狐は落ち着きを取り戻していった。血走った目は少しずつ本来の様に戻り、逆立った体毛も凪いでいく。
琉霞はその光景にいつの間にか見入っていた。
――
ほとんど抑揚の無い声で梔乃がそう云った。
すると、妖狐を覆っていた青白い光が消えた。同時に真っ黒だった体毛も、輝くような美しい金色に変わっていく。
―光が。
気づいた琉霞が上を見上げると、東の空が明るくなり始めていた。
「梔乃、朝が」
云いさして、梔乃のほうを見る。すると、梔乃は狐を抱きかかえたまま、さきほど狐が出て来た穴のあたりをなにやらまさぐっていた。
「これ」
「あ」
引っ張り出した梔乃の手には、桜の花の紋様が散った可憐な手巾が。
「それ、姉上のです」
「狐はいろんな物を土に埋める習性があるからね」
大事に隠していたのかもしれない。
黎明を迎えた
風になびく己の髪を抑えながら、琉霞が感慨深く呟く。
「これで終わったんですね」
梔乃が狐の穢れを祓い、不浄は取り除かれた。
真白もきっとすぐに目を覚ますだろう。
不意に、梔乃の持っていた手巾が奪われた。「あ」と声を上げるより早く、その犯人はするりと腕から抜け出して、桜の木の上に登っていく。
上から見下ろされ、琉霞は首を傾げた。
「…? 穢れが落ちたなら、幽世に渡るのではないのですか?」
「………そう思ったけど」
梔乃にも判らないのか、訝し気に狐を仰ぎ見た。
立派な桜の木には、青々とした若葉が生い茂り、桜の花はほとんど残っていない。
梔乃は葉桜も好きだったが、多くの者はやはり、春爛漫とした満開の桜を拝みたいものだろう。
「今年は姉上に、桜を見せて上げられなかったのが残念です」
横からそんな声が聞こえて、不意に梔乃が「あ」と声を上げた。
「どうしました?」
「……まだ心残りがあるんだよ」
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