U-RED in THE HELL ―ナラクノネザアス―

渡来亜輝彦

序:淀む魔物の黄昏世界

 獣のような息遣いが聞こえる。それが自分の息遣いであると、彼は理解できていなかった。

 黄昏時の暗い路地裏、微かな灯りで相手が見える。

「いったい、なんだ、貴様!」

 相手はやせた長身の男らしく、彼を視認してからもゆうゆうと煙草を吸っているようだった。白い服が目立つ。男はそこに積み上げられているコンテナに軽く背を持たせている。彼は、それを睨みやった。

 その男がどこから入り込んだのかわからなかった。先ほど巡回したときは、そこには誰もいなかったはずだ。彼は縄張りを事細かにチェックしている。だから、いつの間に入り込んだのかと疑問に思うとともに、腹立たしかった。

 ただ相手が囚人狩りを行う獄卒だとはわかった。

 囚人狩りは獄卒に与えられた主な仕事である。

 彼はその為に縄張りを持っていた。誰にも入らせないようにし、入ってきた獄卒は返り討ちにする。それが日課となっていた。

 徐々に囚人を狩るのでなく、そちらが仕事になりつつあることを、崩壊しはじめた彼の精神は理解できなかったが。

 獄卒を管理する獄吏ですら、もはや手出しできぬ獣のようになりながら、彼自身はそのことに満足していた。

「どこから入り込んできた!」

「あっちから」

 冷たく男は答える。

「ただ通りすがっただけだ。ここはフェンスが破れているから、ゲートを通らずに居住区に帰って来られる。ゲートの獄吏にとやかくいわれるのは好きでないからな。俺はいつでも裏道を使っている。そこにたまたまいたんだろう、貴殿が?」

 にやっと男は笑い、ゆらめくように前のめりに身体を動かす。

「まァ、ここに住み着いている奴がいるらしいとは聞いてはいたが、鉢合わせたのは初めてだな」

 カートリッジ式の電子煙管をくわえていたが、その薄い煙がゆるやかに朱色の夕暮れの中に昇る。

 暗闇にも目立つ白いジャケットを長身痩躯にひっかけて、風が吹くと右袖が不自然にゆらりと揺れていた。

 彼も今や獣のように堕ちた存在だったが、相対していた男も人間のようには見えなかった。魔の気配を色濃く漂わせ、黄昏時に似合いの黒い気配を背負っている。男自身も煙のように、妖しく不確かな、しかし不吉な気配をまとっていた。

 彼がまっとうな精神状態だったら、その男の異常さに気付けたのかもしれない。しかし、彼はすでにそれを判断することができなくなっていた。

 暗くなり始めた空だが、差し込んだ光で男の姿がはっきりと見える。

 ふっと彼は笑う。

「なんだ、貴様は獄卒のくせに修復もできていないのか?」

 嘲笑う彼に、ほんの少し余裕の表情が浮かぶ。

 男の右袖は空だった。右腕を失っているのは明らかだ。それに、薄明かりで浮かび上がった長い顔の、その右半分が暗く見えているのは深い傷があるからで、白く濁った右目は失明しているらしい。

 戦闘に明け暮れる為、獄卒には簡単な治療で回復する不死身の肉体が与えられていた。しかし、獄卒になる以前に負った傷はそのままでは修復できず、金を払って修復してもらう必要がある。目の前の男が獄卒なのなら、通常強化された義手などをつけているのが普通だった。

 囚人狩りをする為、一人荒野に出掛けるような獄卒であるのなら、とにかく戦闘力をあげることが肝要だった。そうでなければ生き延びられないからだ。不死身であろうと、致命傷を受ければ意識がブラックアウトし、その間に汚泥に汚染されてしまえば自分が囚人になる運命なのである。

 だとすれば、目の前の男の力量など知れたものだった。いい獲物なのだ。

「ろくに囚人も狩れぬような体で、ここにくるとはな! それで正規のゲートも通れないのだろう!」

「はははっ」

 不意に男は笑い声を上げた。不気味に響く声だ。

「ふふふっ、俺の場合は特別だ。これでちょうどいいんだよ。いわゆるベストってやつだ」

 にやりと男は笑い、煙管をジャケットの内ポケットに押し込んだ。そして、不意にあくびをする。その不自然なものは、みかけほど呑気なものでなく、明らかな殺意を左目に浮かべていた。

「特にな」

 唐突に男の口調が崩れる。

「てめえみてえな狂った雑魚を、叩き斬るのにはなア!」

 明らかに挑発を含めてそう言う。

 彼の昂った精神にその言葉が突き刺さる。

「き、貴様、殺す、殺してやる!」

 いきなり猛りたった彼に、逆に男は表向き冷たさを保っていた。

「ほう、大分精神に来てるな。獄卒の耐用年数は五年と言われて久しいが、ふふふっ、ああ、そうだ、一回リセットしたほうがいいぞ。人の心配をしてくれていたが、てめえこそ医療棟で寝込んでりゃ、調子も良くなるだろう?」

 彼の声は優しいが、ねっとりとした湿りを帯びている。

「とはいえ、ちょうど良かった。俺もな、昼の狩りが物足りなかったから、貴様みたいなやつに用があったんだ」

 いつのまにか男は、剣帯風に改造した腰のベルトから刀を引き出していた。見かけは古風な刀だったが、改造がなされているらしく、柄がかすかに光っている。

 その目釘のあたりに舌を走らせながら、男は目を細めた。

 青ざめた顔をかすかに紅潮させ、陶酔したように彼に一眼をやる。

「お前は俺に喧嘩売って死にてえみたいだし、俺はお前を斬りたい。ふふふ、これで利害一致だな」

 その危険さを、彼の壊れた精神では感知できそうもない。

 男は立ち上がり、しなだれかかるように前のめりになった。

「どうせこんなことしてたら誰かに斬られるんだろうし。だったら。いいよな?」

 にやっと笑いながら、男はうっとりと頼むようにいった。

「俺に斬らせてくれても」

「黙れ! 死ね!」

 堪えきれなくなったように、彼が刃物をひらめかすと同時に男はがっと刀の下緒を咥えて、左手で柄を握った。

 彼の白刃が迫るその瞬間、男の口元から白い光が走った。

 鞘が落ちる。

 その瞬間見えた男の口元に明らかな歓喜の笑みが浮かんでいた。

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