部長と卓球
朝である。
「なんで!?」
見おぼえのあるひろい部屋に、
昨日、私のアパートが
で、夜にシャンパンを飲みすぎた。
そのあとの記憶がない。
「……もえさん?」
いきなり
ねおきの彼が、とろりとした瞳で、私をとらえる。
「おはよう、がっくん」
ちいさくあいさつをすると、彼がゆっくりとまばたきをして、わらった。
「あたまをよけてもらわないと、ずっとこのままですけど?」
うでまくらを本人に
こうなった
すぐに頭をどけようとするが、彼の
そのうえ彼からは、まったく協力の
もしかして、抱きしめているという意識がないのかな。
それならば、と、ことばを選びながら、口をひらく。
「がっくんの
「……そうですか? ほんとだ」
そういいながら、彼の腕の力がゆるむことはない。
どうやら、寝ぼけているみたいだ。
もうすこしおおきな声で、
「
「もうすこし、ねたい……」
「月曜日ですよ」
「……会社いきたくない。いっしょに休みましょう」
「たーきーもーとーせーんーぱーい! おきてくださーい!」
彼はうるさそうに両目をつぶり、ちいさくうめいた。
「じゃあ、キスしてくれたら起きる……」
彼が、
これは、私ができないと思って言っているに違いない。
彼らしからぬチキンレースのお誘いに、
「は!?」
いきおいよく彼が
ウォーターベッドの
「な、なに、え、いま、なにして」
頬に手をあて、こぼれんばかりに目を見開き、しんじられないものを見るように、私をみつめる。
その
よくかんがえてみたら、ふつうはしないな。
でも、私だけが悪いわけではないはずだ。たぶん。
「してって言ったのは、がっくんだよ」
「言われたらするんですか!?」
「てっとりばやく、起きるならいいかなって」
「起きましたけど!」
彼は、手の
あ、ちょっと。
それから、あんまりさがると、ベッドから落ちるよ、と心配していたら、彼はギリギリのはしっこで止まった。
おおきなウォーターベッドの、
「……ちょっと聞きたいんですけど。俺のこと、好きなんですか?」
「うーん、好きか嫌いかでいったら、好きだけど」
「そこで
彼がふとんに突っ伏す。
だんだん気の毒になってきたので、素直にあやまることにした。
「
「嫌か、そうじゃないかの二択の中に、答えはありません」
スンッと彼がいきなり冷静になった。
「この家の物は、好きに使ってください。俺はシャワーを浴びてきます」
「昨日も浴びてなかった?」
「昨夜はお湯、今朝は水です」
「水!?」
「顔を洗うついでに、頭を冷やすだけなので」
「そうなの? 風邪ひかないようにね?」
彼の目が死んでいたような気がするが、きっと気のせいだろう。
そう結論づけて、私も出社の準備をすることにした。
時間を確認するためにスマホを見ると、管理会社から
『21時に、無事に電力が
「よかった……」
これでアパートに帰れる。
「アパートの電力が復旧したって。泊めてくれて、ありがとう!」
「そうですか。長引かなくて、よ、よかったですねっ」
しぼりだすような声音で、返答された。
胸をおさえる彼に、すこしだけ不安になる。
「がっくん? 水を浴びたから、体調がわるくなったんじゃ」
「元気なので、おきづかいなく!」
そういった彼は、たしかに元気そうだった。
「萌さん、朝ごはんは何を食べますか? といっても、あまり食材が無いんですけど」
冷蔵庫を開けたがっくんの後ろから、のぞきこむ。
「がっくん」
「はい」
「ふだん、なにたべてるの?」
新品のようなキレイな庫内に、パックの野菜ジュースが数本ならんでいるだけだ。
「萌さん、知らないんですか? これ1本で、1日分の野菜がとれるんですよ」
「野菜室と冷凍室を開けてもいい?」
「いい、ですけど」
野菜室には水のペットボトル。
冷凍室にいたっては、アウトドア用の保冷剤しか入ってなかった。
「
「コンビニです」
「
「あ、
がっくんが、
「がっくん。とりあえずコンビニに、食材を買いにいこう。
「ほんとうですか。めちゃくちゃうれしいです」
ほんとうに、ちゃんと食べようよ、と思った。
今朝のメニューは、めだまやきと野菜炒め、
コンビニで調達できる食材だと、これくらいしかできない。
ならべると、なんとかそれなりに見える。
『いただきます』
ふたりで声をそろえて
「萌さん。めちゃくちゃおいしいです」
「それはよかった」
「ひさしぶりに
「ごはん、たべないの?」
「萌さん。世の中には、パックごはんという便利なものがあるんですよ」
「がっくん。コンビニの冷凍食品にも、肉入りカット野菜という便利なものがあるんですよ?」
「はじめて知りました」
「だろうね」
そんな会話をしながら、朝食を食べる。
テレビからは、朝の情報番組が流れてくる。
今朝は、とくに重大なニュースはなかった。
CMに入り、同局の
『春・夏に一押しの最新アウトドアギアを、日本全国のアウトドアメーカーがご紹介!』
ふたりそろって画面に見入る。
キャンプ系女性ユーチューバーが、ギアを実際にためして、リアル評価をする企画らしい。
女性目線のコメントが、「
たしかに辛口かもしれないが、どれもこれも
『おどろきの最新ギアが盛りだくさん! 今夜9時から!』
「がっくん。ぜったいに見なきゃね」
「ですね。忘れないうちに、
そういって、がっくんがリモコンを操作する。
「私のテレビ、録画機能がないから、うらやましい」
「見たくなったら、うちに来てください」
秒で、そういう返しをされるとは思わなかった。
「がっくんって、やっぱり私に甘くない?」
「そうですか?」
そしてやはり、ふしぎそうに首をかしげる。
それを見て、社交辞令ではなく、本心からそう言ってくれているんだと伝わってきた。
「じゃあ、見たくなったら行くね」
番組が始まるのは、夜の9時。
今は
見逃すことは無いだろうけど、彼の申し出を断ってしまうのは、もったいないような気がした。
「はい。いつでも」
そう言って、彼が笑う。
その笑顔を見れたことが、なんだか嬉しかった。
「
「
会社では
「
「
営業スマイルで、かなり強めに
その時だけかと思ってオッケーしたが、まさか仕事中も呼ばれるとおもわなかった。
事あるごとに萌ちゃん呼びは、正直しんどい。
もう学生ではないので、いいかげん宮崎さんで統一してほしい。
「
「ありがたいです! あ、ちょっと私、
今日も理解してもらえなかった。
それなのに、大久保主任は、こちらの耳をうたがうようなセリフを口にした。
「俺も給湯室に用があるんだ。萌ちゃん、いっしょに行こうよ」
せまい給湯室に大久保主任とふたりきりって、気まずいことこのうえない。
「では、おさきにどうぞ! 私、お手洗いに行きたくなってきたので、気にしないでくださーい」
さすがに女子トイレには入れまい。
ポケットにスマホが入っているのを確認して、私は脱兎のごとく女子トイレに駆けこむ。
始業1分前まで、個室でスマホゲームに
仕事も順調に進み、これなら定時にあがれるな、と一息ついていた午後3時。
杉山部長が、笑いながら経理部にもどってきた。
「いやー、
唐沢部長というのは、営業部の部長だ。
さきほどまで部長会議があったので、そこでなにかあったのだろう。
深刻そうなかんじではないので、たいしたことではないのかもしれないが。
「
杉山部長に声をかけると、彼は人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「おお、宮崎君。営業部の
営業部の、
同期の女性社員で、ショートカットが似合う美人だ。
ハーフのような顔立ちだが、純日本人だと、本人が言っていた。
「はい。同期です」
「そうかそうか」
部長はひとりで納得し、席にもどる。
「皆、ちょっと手を止めて聞いてくれ」
皆の視線が部長に集まる。
「さきほどの部長会議で、唐沢部長に
「またですか!?」
声を上げたのは、原課長だ。
「杉山部長、いいかげんにしてください」
佐々木係長が、あきれたように続ける。
「いちおう聞きます。今回は、何が原因なんですか?」
大久保主任が、ためいきまじりに部長を見た。
女性社員も、あきれ顔で杉山部長を見ている。
そんななか、私だけが状況をのみこめず、こっそりとがっくんに問う。
「どういうこと?」
「杉山部長は、よく唐沢部長と、勝負の約束をしてくるんです」
「勝負って?」
「内容は、その時々によって変わりますが、社員を巻きこむので、
「あ~、なるほど」
皆に責められている杉山部長だが、本人は、まったく気にしているようすがない。
慣れっこだというように、大きな腹をゆすりながら笑った。
「今回は、宮崎くん!」
「はい?」
急に名前を呼ばれ、返事をする。
「宮崎くんのことを、わが部の期待の新人と自慢していたら、唐沢部長が秋津さんの自慢をし始めてな。どちらがかわいいか、勝負をすることにした」
自分の耳をうたがう。
しかし、経理部の全員があっけにとられた表情をしているのを見るかぎり、私の
息を吸って、吐く。
そうして、部長に営業スマイルを向けた。
「私の負けでいいです」
「何を言うんだね!? この1週間、宮崎くんのがんばりは目を見張るものがあるぞ!」
「その評価はありがたいのですが、かわいいという
現に、女子高生の「かわいい」は、すでに共感できない。
「宮崎くん」
「はい」
「だから、卓球で勝負をつけることにした」
おもわず、がっくんを見る。
彼が首を左右にふる。
杉山部長は、これが平常運転なのだ、と
「当事者の宮崎くんは参加決定だが、他に今夜、出られる社員はいないか?」
「杉山部長。私、今夜は用事があるので、欠席します。負けでいいので」
こんなことで、9時からのキャンプギア特集を見逃すわけにはいかない。
「宮崎くん」
杉山部長の空気が変わった。
「はい」
杉山部長は、私のそばまで歩いてくると、顔を上げた。
その表情は、歴戦の猛者のように、きびしいものだった。
「
「えっ……」
「君が今夜、参加してくれるなら、終わってから好きなだけ
「杉山部長」
気がつくと、杉山部長とがっしりと
「でます」
「宮崎くんっ……!」
杉山部長が、感動したように目をうるませる。
それにしっかりとうなずき返し、ワインバーに思いを
「もぇ……宮崎さん、いいんですか!?」
腕をゆすられ、現実に
がっくんだ。
それを見た杉山部長が、不敵に笑った。
「なんだね滝本くん。本人の意思を尊重したまえ」
「杉山部長。お言葉ですが、部長の言動は
「それがどうした? 終業後のプライベートまで、君にとにかく言われる
杉山部長が、勝利の高笑いを決める。
となりから、
――舌打ち?
杉山部長と同時に、がっくんを二度見する。
「滝本くん……? いま、わしに対して、舌打ちした?」
「するわけないじゃないですか。杉山部長、俺も出ますから」
「おお、そうかね! 滝本くん、君にも
「そうですねー」
あ、がっくんが適当になっている。
上機嫌になっている杉山部長を
「滝本先輩。いいんですか?」
「宮崎さんを見捨てるわけにはいけませんから」
ほんとうに面倒見がいいな、この人。
「ありがとうございます」
「いいえ。ワインバーにも、ついていきますから」
「それはさすがに悪いので――」
断りの途中で、強めに名前を呼ばれた。
おもわず姿勢を正す。
「昨日飲みすぎて倒れたこと、もう忘れたんですか?」
そのことか。
でもあれは、
そう思ったが、
「今日は、飲みすぎないようにします」
「危険な目にあってからじゃ、遅いんですよ?」
オカンだ。
オカンがいる。
「杉山部長、俺も参加でおねがいします」
このイケボは。
もしかしなくても。
「大久保くん! いやいや、君が参加するとは、めずらしいね」
「たまには、杉山部長に勝たせて差しあげようかと」
「はっはっは、期待しているよ」
杉山部長は、スキップでもしそうないきおいだ。
部長が席に戻ったのと同時に、話しかけられる。
「がんばろうね、萌ちゃん」
「はい。大久保主任、仕事中は、名字で呼んでもらえると、たすかりますね!」
「
「そうですねー」
つい、
ついでに、舌打ちまでしそうになる。
もしかしてさっきの舌打ちは、無意識に私がしたのかもしれない。
気をつけなきゃいけないなー、と遠い目で時計を確認する。
終業まであと2時間。
仕事が早く終わってほしいような、終わってほしくないような、複雑な気持ちだった。
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