第二十一話 進む道

 銃声と共に、手に反動が来る。しかし発射の反動だけでなく、別の力も加わったように感じた。コトリ、と地面に何かが落ちた。——ナイフだ。

 クリスは発射の瞬間へ記憶を巻き戻す。発射の直前、このナイフが飛んで来て銃身に当たったのだ。その結果、銃口の向きが逸れ弾は女の真横を掠めていった。心の中でホッと安堵している自分に気付く。

 女とクリスは、ほぼ同時にナイフの飛んできた方向を見た。


「味方だ……二人とも……」

「……ボス!!」


 女が驚きと歓喜の入り混じった声色で叫ぶ。

 クリスは漁師小屋の壁に持たれるようにして立っているノアと、そこへ駆け寄る女の背中を茫然と見つめた。

 ——ルーベンノの仲間だったのか……。


 ノアは立っているのが限界に来たのか、膝を突いて地面へ倒れた。女は目に涙を浮かべながら彼を抱き起こした。


「申し訳ありません、ボス! 迎えが遅くなって」

「ソンミン、か……生きてたのか」

「私だけが生き残りました……。黄龍会の奴らに船で奇襲を受けたとき、私だけが船室内にいたんです! 船が沈没して、酸素ボンベで海中に潜んで助かった……でも肺をやられて……ううん、そんなこと関係ない。本当に……申し訳ありません……!」


 ソンミンと呼ばれた女——会話から察するに、ノアが待機させていた仲間のうちの一人だろう。


「お前だけでも……生きてて良かった……」

「あたしに取っては、貴方の無事が何よりです。貴方が生きていると知ったら、死んだあいつらも浮かばれるってもんです!」


 ソンミンは微笑んだが、顔には悔しさが滲み出ていた。

 ノアはその言葉を聞き終わる前に意識を失ってしまった。歩くことも話すことも出来なかったはずだ。立ち上がって小屋から出るために、相当な体力と精神力を費やしたに違いない。そして薬物も。


 クリスはソンミンと二人がかりで彼の体をボートに載せた。互いにわだかまりは残るものの、彼を助けるという目的だけは一致していることを認識した。


「一番近い町は?」

「ひとまず首都に向かうわ。でも頼れる病院を見つけないと。本国の仲間に何度も応援を頼んでるんだけどさっぱり音沙汰なくて。あたし一人ここへ来るのが精一杯だった。だから今無一文よ」


 ソンミンの持ち物からしてそのような気はしていた。


「私が交渉してみる」


 四人乗り程度のごく小さなプレジャーボートに船室はなく、デッキの上に剥き出しの操舵席がある。ソンミンは後方のデッキへ彼を横たえた。その所作、心配そうに見つめる目には慈愛が込められ、ファミリーの絆の強さを窺わせた。

 小型ボートに付属したGPSマップを確認する。沿岸までは五十海里と少しといったところだ。全速力で三、四時間も走れば、何処かの港へは着けるはずだ。クリスは桟橋からボートを離岸させ、進行方向へ船首を向けた。

 その時、ソンミンの顔から血の気が引いた。


「ボス……?」


 彼女が恐る恐る語りかける。


「ボス……!」

「どうしたの?」

「ボスが息をしていないの!」


 背筋にサッと寒気が走った。クリスは胸に耳を近付けた。体はまだ暖かい——が、心音が聞こえない。氷水をかけられたように、心臓が締め上げられる。

 クリスは歯を噛みしめ目を伏せる。その表情を見て察したソンミンは、デッキに崩れ落ちた。


「嘘、どうして……! ここまで来たのに! 後少しだったのに! そんなのいや!」


 縋り付いてこの世の終わりの如く絶叫するソンミン。その目からは、止めどない涙が溢れる。

 一方凍り付いていたクリスは、その絶叫で我に返った。


「諦めるな、バカ!」


 彼女を一喝する。会社ですらそのように部下を怒鳴ることはないクリスだったが、始めて声を荒げた。


「この船にAEDは?」

「……ない!」

「なら私が心肺蘇生する! 貴方はボートを走らせて! 貴方だけが頼りなんだ!」


 ソンミンはしゃくり上げながら立ち上がった。再び操縦席に立ってハンドルを握る。


 胸骨のやや下を、両手で強く押す。胸部圧迫を連続で三十回、人工呼吸を二回、無心で繰り返した。

 何度繰り返していたか分からないが、体に反応を感じた。手を止め、反応を窺う。胸が微かに上下している。口元に耳を近付けると、呼吸が確認できた。


 ——良かった。


 体の力が抜けた。彼の胸の心臓の鼓動に耳を傾けるクリスの表情は、静かな歓喜に満ちていた。



 ソンミンは病院の待合室で報告を待った。クリスは本社に連絡して、どう言い包めたのか分からないがこの国最高の医療が受けられるよう手配してくれた。

 そんな彼女は病院の中へ入らず、外で待つという。BEC社と言えば、反社会勢力を徹底的に排除していることで有名だし、ソンミンも彼らは敵対する関係だと認識していた。つまり一緒にいるところを人に見られたくないのだろう。

 道中、彼女から事のあらましをおおよそ聞いた。グスタボが黄龍会の内通者だったこと、ノアがクリスと協力して黄龍会を倒したこと、その後彼が病に倒れたことを。


 ——ボスがあんた達の仇を取ってくれたわよ、モハメド、李秋、ティム。


 ソンミンは天井を見上げ、唇を結んだ。ソンミン、そして戦争孤児のモハメドや、農村部で売られた李秋らにとって、黄龍会は共に憎い因縁の相手でもあった。

 皆、黄龍会が元締めにいる人身売買組織で売られてきたのだ。密航者や孤児は、人身売買組織にとって格好のターゲットだった。

 流れてアジャルクシャンへ辿り着き、彼女らを黄龍会から解放したのは、ルーベンノファミリーだった。身元も親もなく、誰の庇護も受けられない自分達はそのままファミリーに加わることになった。ファミリーのために働けば、住む場所にも食べ物にも困らなかった。


 囲い主が黄龍会からルーベンノに変わっただけだと言う人もいる。ソンミンはそうではないと信じている。ファミリーは弱者を守るために戦っている。黄龍会と正面から戦うルーベンノファミリー、そしてそれを率いるノアは、英雄そのものだった。そんな姿に憧れ、これまで仲間達と共に、尊敬するその人の背中を追ってきた。


 ヘリで異常事態に巻き込まれた上司を救援に行くのは、ソンミン達の果たすべき仕事だった。しかし黄龍会の想定外の奇襲に、応戦の準備もできていなかった自分達は惨敗した。

 グスタボが黄龍会に寝返っていたと聞けば納得する。そうでもなければ、あの奇襲の説明がつかなかった。逃げ延びたソンミンが本部に支援を要請しても冷たくあしらわれたのは、他にも裏切り者がいるからかも知れない。


 上司は辿り着いたソンミンを責めるどころか、『生きていて良かった』と声をかけた。本人は死の瀬戸際にいるというのに。


 あたしが最後の一人になろうと、付いていきます。死んでも貴方の背中を、ボス……。



 日が暮れた後、ソンミンは外へ出た。乾燥した暑さの中にスパイシーな異国の香りが漂う。寂れた石造りの街並みが広がり、点在する僅かな街灯が足元を導く。

 病院へ隣接する小さな公園で、クリスは待っていた。周囲に人気のないことを確認して話をする。


「……何とかなりそうよ。まだ危険なことに変わりないけど、ボスは強いから。あとは祈るだけよ」

「じゃあ、私にできることはここまでだね。あとは貴方に任せるよ、ソンミン。お願いだ、必ずあの人を助けて」


 ソンミンは頷いた。


「あたし達といるところを見られたらまずいんでしょ?」

「うん。貴方達のことは誰にも言わない。だから……どうか、私のことも忘れて」


 クリスは頭を垂れて懇願する。強い憂慮が窺える。同じ女として、ボートでの態度を見ていればクリスが彼へ並ならぬ想いを抱いていることは一目で分かった。マフィアの幹部を助けた——その上深い仲を疑われれば、会社に致命的な損害を与えるだろう。人に知られることを恐れるのは当然である。

 ソンミンがこの情報をリークすれば、BEC社を追い込むことだってできるのかも知れないが、あれほど必死に上司の命を救ってくれたクリスだ。ここで見聞きしたことを一切忘れる——それくらいの恩返しは構わないだろう。

 上司にとっても不利な話だ。元より言うつもりはない。他の女ならともかく、BECのクリスとなれば別だ。女の色香に惑わされ、敵対相手の女のために組織を裏切ったのではないかと疑われては、彼の立場が悪くなる。彼が情に流されて組織を裏切るような人ではないとソンミンは知っているが、他の幹部が信じるとは限らない。


「言われなくてもそうするわ。あんたのこと誰にも言わないよ」


 その言葉を聞いたクリスの顔は、憂いの表情から安堵の微笑に変わった。


「これを、返しておいて」


 クリスから差し出されたのは、白い男物のシャツだった。ソンミンが戸惑いながら受け取ると、彼女は名残惜しそうに、しかし肩の荷を下ろしたように笑って背を向けた。


「クリス! ……ありがとう」


 彼女の背中へ声をかける。クリスは歩みを止めないままソンミンに目配せし、挨拶をした。

 再び前を向いた彼女は、BEC社のCEOの顔に戻っていた。力強く、進む道を見据える。クリスは振り返ることなく、文明の営みが広がる街並みへ溶け込んで姿を消した。その背中を見送ったソンミンは、白いシャツを脇に抱えて上司の待つ病院へと引き返して行った。

 誰もいなくなった公園を、地中海特有の乾いた風が過ぎ去った。

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