第十九話 死の足音

 裏社会で仕事をしていると、ドラッグに手を出した人間の末路がよく見える。そうした人々を見ていると、とても自分に薬物を使う気にはなれないものだ。ノアを始め、組織の上層部の者達は誰も自身では使用しなかった。

 しかし今、抗いようのない誘惑に襲われている。ケシの実から精製された禁断の物が目の前にある。極少量を吸引しただけで、苦痛が快楽に変わることは分かっていた。クリスは洗濯へ出て行き、まだ戻らない。


 ——まだ、駄目だ。


 まだ耐えられる。今はその時ではない。急いで残りの全量を確認し、頭の中で消費量を予測した。そしてすぐにバッグの中へ戻す。

 ノアは、自身の体に起きつつある異変に気づき始めていた。


 やがて小屋へ戻ってきたクリスに、ノアはある物を手渡した。戦利品の中で見つけた、二つのネックレスだ。ノアにとっては価値のない黄龍会の遺物だが、彼女なら正しい扱い方を知っているような気がした。


「黄龍会の女が持っていた。もう一つは、最初に別れた男の方が持っていた。捨ててもいいが、方法は任せる」


 ネックレスは一見、同じ物のように見えた。金色のチェーンの先に、金色の龍の飾りが付いている。クリスはそれを受け取って切なげに眺めた。


「あの二人は夫婦だったようなんだ」


 クリスが龍の飾りを重ね合わせると、パズルのピースのようにぴったり合って、絡み合う二頭の龍となった。


 クリスは岬へ歩いていき、ノアはその背中を見守った。彼女は二頭の飾りを海へ投げ入れた。そして両手を合わせ、頭を垂れた。


「龍はね、水中に潜み天へ昇るそうだよ」


 彼女はそう天を仰ぐ。

 遺体を埋めたときにクリスが黒蛇の持ち物を見て涙したことを思い出した。彼女はカルロスの遺品もわざわざ水中から回収していた。

 ノアも同胞に対してはそのような思い入れも抱く。しかし敵とみなした相手ならば躊躇なく殺すし、余計な感情など抱かない。

 だが彼女は敵味方関係なく、同情を抱くようだ。根っからの博愛主義者なのだろう。

 自分は敵を敵として処理することに慣れ過ぎていた。敵であろうと、他人の人格を思い敬う彼女は、忘れていた何かを思い出させてくれたような気がした。

 心の中の毒気が抜かれていくのを感じる。



 無人島での生活も慣れた今、水と食料の確保も日課のルーチンワークとなり、手際良くこなせるようになっていた。その代わり、二人で過ごす時間が増えた。

 丘を登った。雲のない晴天に、太陽が眩しい。木陰に丁度心地よい風が吹く。高台に腰を下ろすと、穏やかな青い海が一望できた。

 クリスが背中を預けてきて、ノアは両腕で包み込んだ。オリーブ色の長い髪が揺れ、太陽光を吸収して淡く光る。


「味噌汁を作ってくれたとき」

「美味かったか?」

「いや、薄くて全然味がしなかった」

 クリスは笑った。

「じゃあ、なんで泣いてた」

「それでも丁寧に作ってくれたんだって、誰かが私のために一生懸命作ってくれたんだって、そんな気がして……暖かくて嬉しかった」


 当時の自分はとても正直だったのだろう。


「昔な、……いや昔から今も、お前のことが好きだった」

「実は、私もなんだ」


 俺は夢を見ているのだろうか——。ノアは心の中で呟いた。打ち明けるはずではなく、墓場まで持っていくつもりだった。互いに相容れない、理解し得ない運命だと思っていたから。

 視線を落とせば彼女の白い鎖骨が目に入り、思わず手を伸ばす。うなじから頬へと手を滑らせ、彼女の髪を耳へ掛けた。はにかんだ横顔は木漏れ日で輝き、神々しくも思えた。

 身体中が幸福で満ちていくのを感じながら、回した腕をさらに強く締め、彼女の華奢な肩に顔を埋めた。


 陽気の下で眠気に負けてしまったクリスの背中を支えながら、自分を待つ人々へ思いを馳せた。パパ、同胞、側近の者達、そして死んだカルロス、モハメド、李秋リーシュウ、ティム、ソンミン。ノアには帰る場所がある。

 しかしノアはもう、世界の潮流に気が付いていた。闇組織の未来は、目を背けることが出来ないほど鮮明になっている。香港、ニューヨーク、シチリア島——地下社会にかつての輝きはない。鉄の掟で統率され、市民を守り、羨望の眼差しすら浴びるマフィアの姿は、既に過去のものとなった。アジャリ・マフィア達も多くは、圧政に対抗する義賊として生まれた本来の意義を見失った。


 摘発の流れは遠くない将来、アジャルクシャンにも届くだろう。豊かな法治国家へと成長するほど、それは加速する。しかし、それでいい。国が民にとって良い国になれば、闇組織は必要ないのだから。

 だから運命は彼女を選んだのかも知れないとさえ思う。——自分ではなく。


 だが、ルーベンノファミリーだけは違う。民を苦しめる他の組織から、市民を守れるのは、ファミリーだけだ。腐敗した政権には何もできない。力がいる。自分はまだ必要とされているのだ。

 かつて少年だった頃、ただ居場所を求めて、自分を受け入れてくれた闇組織に安易に足を踏み入れた。今は違う。ファミリーの一員であることに信念と誇りを持っている。その信念が行き着く先は、願わくば彼女と同じであって欲しい。




 日は流れ、十日目の夜を迎える。

 クリスは、ノアの体に異変が起きていることを察していた。日に日に増していく彼の痩せ細り具合はクリスの比ではなかった。もちろんクリスだって遭難して以降痩せてきていたが、ここ数日は効率よく食料を得られるようになり、十分なカロリーを摂取できたので、さほど変化はなかった。虫刺されや擦り傷は絶えないものの、体は適応しつつあるらしい。

 彼に尋ねても何も答えてはくれない。当然島に病院はなく、クリスには何もできなかった。


 その夜クリスは、事態が差し迫っていることを知った。

「……ノア?」

 横で寝ていた彼の体が激しく痙攣していることに気付き、目を覚ます。

「ノア!」

 返事はなく、大量の汗をかいている。呻き声と歪んだ眉間が、苦痛を訴えていた。

「どうしたらいい? 何か薬は……」


 ノアが持っていた簡易救急キットをあさる。錠剤があるが、暗くて種類までは読み取れない。この中に使える物があるのだろうか、と考えていると、彼は何かを発した。


「……ケース……バッグの中」

「えっ?」


 彼は救急キットの横の小さな入れ物を指差しているように見えた。黄龍会が残していった物だ。すぐさまその入れ物を開けると、ピルケースが入っていた。ピルケースの中には何かの粉末が入っている。


「火……炙れ……」


 彼は息も絶え絶えにかすれた声を絞り出す。話こともままならない様子だ。


「これを炙るんだね、分かった、待ってて!」


 クリスは小屋の外へ飛び出し、昨夜の消し炭から火を焚く準備をした。尋常ではない苦悶の様子を見れば、一刻の猶予もないことは明らかだ。

 火起こしは何度か自力で成功させている。しかし、いざ道具を持つと焦燥が先走り、手が滑って上手く木を回せない。こうしている間にも彼は苦しんでいる、そう焦れば焦るほど手が震えた。


 二十分ほどしてようやく火が付いた。灯りを得て、改めてピルケースに目を移す。粒の大きい白い粉末が入っていた。潔白な道を歩んできたクリスは、ドラッグとは無縁である。しかし、黄龍会が持っていた白い粉、炙って使う物、という点を踏まえれば、何らかの麻薬だということは想像できた。

 とにかく今はそれを使うしかないのだろう。拾っておいたペットボトルに粉末を入れ、底を火で炙った。

 炙ったペットボトルを鼻へ近付け、吸引させた。程なくして、苦痛の表情が柔らいでいくのが分かった。やがて痙攣も収まり、様子は徐々に安定した。

「……もういい」

 彼は体を起こしたが、荒い呼吸をしている。クリスはその汗を拭った。


 呼吸が少し落ち着いたのは、明け方だった。

「俺は何かの感染症にかかってしまったようだ。手足が痺れて動かなくなっている。段々酷くなってる」

「そんな……! せめて、私に何かできることはない?」

「ここじゃ無理だ。だが幸いなのは、黄龍会が置いていったヘロインだ。少しでも苦しみから逃れさせてくれる」


 彼はヘロインを少しずつ使用して症状を誤魔化していた。だが、苦痛が柔らいでも治ることはない。治療を受けさせなければ、病は進行する一方だ。


「必ず助けを呼んで病院へ連れて行くよ、待ってて」



 十一日目は陰鬱なものになった。午前中、ノアは辛うじて立って歩くことが出来たが、容態の悪化が目に見えて分かった。尋常でない苦しみ方に、命が差し迫っていることは素人目にも分かった。


 クリスは必死に救援を探し求めた。もう何日も前から、見通しのいい地面という地面に、SOSと大きく刻んでいるし、航空機や船影が見えたときには、ゴミを燃やして黒い煙を焚いて合図を送っている。いずれもまだ成功していない。飛行機も船も、あまりに距離があって合図が届かないのだ。


 その日の午後にはもう、彼は起き上がることすら出来なくなっていた。食事は喉を通らなくなり、クリスは食料を液体状になるまで噛み砕いてから、喉に詰まらせないよう慎重に口移した。痙攣が激しくなり、呼吸も苦しそうになる一方だ。彼の苦しみを見ることも辛かった。

 辺りを囲むのはいつも変わらない、スカイブルーの海と晴天の空。数日前にはあれほど美しく見えた世界も、今は醜く淀んで見えた。美しい自然は、残酷に二人を追い詰めて行く。徐々に迫る命の期限を目の当たりにし、泣きたいのを必死で堪えた。水は一滴でも多く彼に与えなければいけないのだ。


 日が落ちてからは、彼の手を強く握り続けた。灯り取りに焚いている小さな火が、薄暗く彼を映し出す。あまりに辛くて目を逸らしたくなるが、助けられるのは自分しかいないと言い聞かせる。


「いいかクリス……お前は必要とされてる。必ず生きて帰れ。俺は死ぬのは怖くない……だが苦しみたくはないから、そこはうまくやってくれ」


 クリスは震えながら首を振った。まるで最後の言葉のように聞こえた。


「俺がお前を助けたのは運命だったと思う。思い返せば全部の出来事がそうだったのかも知れない。迷ったりもしたが、今はお前が生きていて良かったと思う……本気だ。不思議と、お前なら世界をより良くできる(Make it a better place)って、思えてくるんだ。だから俺は後悔してない」

「やめてよ……」

「組織の未来は長くない。……お前が生きるべきなんだ。俺よりも」

「違う!」


 クリスは感情を露わにして叫んだ。


「運命なんてない! お前が私を助けたのは、お前自身の意志だ! 私は運命なんて信じない。お前を生かすのは、お前の生きる意志だけだ! ……だから、絶対諦めないで」


 すると彼は意外そうにクリスを見つめた。しかしすぐに寂しげな表情を浮かべた。


「だが、どうせ生きていても俺とは二度と会えないんだぞ。この先関わることもない」

「二度と会わなくてもいい! 私の唯一の理解者が、世界のどこかに生きていてくれるだけで、私は充分幸せなんだ! ……お前に生きていて欲しい。他の誰を差し置いても」


 彼の言葉がどれほど勇気をくれただろう。この人が遠くから見守っていると思うだけで強く生きていける。本心だった。

 ノアは微かに微笑んだ。



 十二日目、彼は目に見えて衰弱していた。死人のように土気色になっていく顔色と、窪んだ頬。

 クリスは天を仰ぎ、助けを乞った。医学の発展した現代、病院で治療さえ受けられていれば、決して命を奪うことはなかったはずだ。

 空に海鳥が歌声を響かせながら舞い、海に大小様々の魚影が列を成して往来する。自然に対して人間はこれほどにも弱い。なのにどうして人は、自分が他の生き物より優れていると思えるのだろうか。

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