第九話 信念の対立

「貴方も同じ人間だろ……? 暴力で支配して人を苦しめて、何も感じないのか……?」

 無機質な白い部屋で、クリスは覆面の男を睨みつけた。男の紫色の目は揺るがない。アジャルクシャン連邦共和国にあるルーベンノファミリーのアジトに拉致されたときだ。

 ここで殺される——そう覚悟したが、覆面の男は身を翻して部屋から出て行った。残った部下は、ヴォズニセンスキーに刺されたクリスの太腿を洗って、包帯を巻いた。先ほどのは単なる脅しだったのだろうか。

 その次に通されたのは、殺風景だがマットと毛布もある、もう少し居心地の良さそうな部屋だった。クリスが折れてファミリーに金を出すことを約束するまで、帰す気はないらしい。窓のない部屋に閉じ込められたクリスは、ひたすら逃げ出すことだけを考えていた。


 夜になり、構成員らしき人物が食事を運んできた。クリスは盆の上に置かれた料理——季節野菜を添えたカレイのソテー、ボルシチスープ、山羊のミルクプリン——を見ても、手を付けずにいた。監禁されている状況で、食事など喉を通るはずがない。

 やがて交代で見張りをしているらしい別の構成員がやって来て、手付かずの食事に目を落とした。


「毒なら入っていないぞ」

 顔を上げると、クリーム色の髪色をした若い男が見下ろしていた。その構成員は屈んでボルシチを一口すくい、自らの口へ運んで見せた。

 その声といい紫がかった珍しい瞳の色といい、先ほど脅してきた覆面の男と同一人物だ。顔を見れば二十代前半くらいだろうか、自分とさほど変わらないが、頬に入った刺青が威圧感を与える。


「なんでこんなに良い料理を……まさか最後の晩餐?」

「妙な深読みをするな。パパのために作った残り物なんだから」

「お前が作ったのか?」

「ああ。あの方は側近以外を厨房に入れないし、側近以外が作ったものは食べないから」

 彼はパパ——つまり組織のトップの側近らしい。そう言われてクリスはようやくスプーンを手に取った。


「美味しい……」

 一口食べると、ほっと生き返った気持ちになった。


 少しの間黙って見ていた男は、低い声で意味深に言った。


「本当の最後の晩餐はこれからだ。人生の最後の食事は何がいい?」


 心臓が凍りそうになる。食事の手が止まった。死ぬのは嫌だ。まして、こんな見ず知らずの土地の、見ず知らずの者達の屋敷で、孤独に最期を迎えるなんて絶対に嫌だ。

 クリスは俯き、張り詰めた思いで呟いた。


「……味噌汁が飲みたい。……お母さんの」

「ミソ……スープ?」


 彼はピンとこない表情だ。当然だろう。最後の晩餐はこれから、と意味深な言葉を言い残したまま、男はその場を去った。

 クリスは結局料理を最後まで食べたが、味はしなかった。



 食事を終えると、彼はまたクリスの元へやって来た。

「話がある」

 彼はクリスを屋上のバルコニーへ連れ出した。空は満点の星空で、眼下には森が広がる。遠く向こうに街明かりが見えた。ここがアジャルクシャンのどの辺りかは見当も付かないが、逃げてあの街まで辿り着くのは容易ではなさそうだ。


「この星の下には、沢山の光の当たらない人々がいる。飢えても病気になっても、誰にも気付かれず、誰の助けも得られず、路上で人知れず死んでいく。それはこの国に力がないからだ。この国の闇組織は、人々を助けるために存在している」


 男はヴォズニセンスキーとは別の方向からクリスを説得しにかかったと見える。


「政府の手が届かない人達に、シェルターと無料の食事を提供したりもしている」

「でも、その金は武器や麻薬を売って得た金だろ? その人達を助けるために他の誰かを傷付けてるんじゃ、意味ないじゃないか」


 マフィアが慈善事業を行うのは、市民の反感を防ぐため。悪事を正当化するためのポーズだ。惑わされるはずもない。


「悪党や金持ちが自らの行いで自滅していくのは知ったことじゃない。この世の中には、救われるべき弱者を虐げることで利益を得ようとする奴らも大勢いる。アジャルクシャンにもだ。俺達はそんな奴らと戦う」


「弱者を虐げることで利益を得ようとする……お前達は違うとでも言うのか?」


「違う。俺達は民間人に危害を加えることを掟で厳しく禁じている。人身売買、臓器売買はもちろん、民間人がいる場所での発砲、交戦も禁止だ。きっとお前はまだ、どうしてこの国にブラックマーケットが必要なのかを理解してない。……それもそうだろう。お前が来た豊かな世界のように、欲しい物を自由に買えて自分の人生を自分で選べる国なら、俺達のような存在は必要ないからな」


 クリスにとっては闇組織の幹部と一対一で率直な意見を交わすのはこれが初めてで、マフィアが世の中の大義を熱心に語るのを、意外に思いながら聞いていた。

 彼の言う通り、自分はこの世界の窮状を本当には理解していないのかも知れない。貧乏生活を経験したことはあっても、貧困とは違う。本当の貧困は努力に関わらず決して変えることができない、絶望に等しい。

 クリスの知らない世界を見ている彼らにとって、自分が語る夢は絵空事にしか聴こえていないだろう。


「……でも、私はこう思うんだ。制度を変えなくちゃ、いつまでも弱者が生み出される。いくら助けても、永遠に終わらない。だから社会の仕組みを変えるべきだし、そうしたいんだ。麻薬や武力に頼らず真っ当なやり方で」


「ずっと昔から政治家達の私物と化している今の体制を変えるのはそう簡単じゃないぞ。たかが小さな会社一つ持って、何ができる」

 

 マフィアやギャングといった存在は多かれ少なかれ彼らなりの正義や美学を持っているものだが、クリスには私利私欲を正当化するための薄っぺらい後付けの理由にしか聞こえなかった。しかし、彼の静かな口調の奥には本物の情熱が見えるような気がした。


「貴方の名前は?」

「ノア」

「あ、……私はクリス」

「知ってる」

「お前達の言い分は少し理解できた気がするよ。それでも私は、仕組みを変える方を目指したい」


 彼の目を見据え、理解はしても同じ道を行くことはできないことをはっきりと伝える。彼の大きな瞳は何かを言いたげに光を湛えていたが、説得を諦めたのか、結局それ以上何も話さなかった。

 闇の世界に手を貸すことに同意はできない。だが目指す世界が同じなら、それぞれが己の道を行けばいいだけのことだ。あの対話でクリスは、互いの信念を理解し尊重できると錯覚していた。

 その後クリスはアジトから脱走し、彼も止めなかった。そして互いに二度と会わないはずだった。最後に向かい合う彼はまだ人間らしく見え、冷たい表情の裏に優しさを隠している——そう思わせた。そして魅力的だった。



 ——しかし、アジトを去って少しの時が流れたのち、彼はクリスの暗殺を試みた。結局は己の組織の利益のために、他人を犠牲にしようとしたのだ。

 一度は理解し合えるかもしれないと思ったのに、虫を駆除するように簡単に普通の人間の命を奪うその”向こう側の男”は、もう同じ人間として見ることはできなかった。



 クリスは空を見上げた。周囲に光のない孤島では、あの時以上に夜空の星が光る。夏の大三角形を構成するデネブ、ベガ、アルタイル、その間を横切る天の川が眩しく煌めく。

 ——あの時も、美味かったな。


 犯罪組織の本拠地にたった一人で監禁され、死を覚悟した。それでも、その一瞬だけは恐怖が和らいだのを覚えている。


 「山羊のプリン、美味かったのか?」

 ノアの声に、クリスはハッと我に返った。彼は変わらず伏した目で火元を見ながら、薪を寄せている。山羊のプリンと言えば、八年前ファミリーに拉致されたアジトで出された、あの食事のこと以外に思い当たらなかった。


「美味かったよ。……え、なんで?」

 突然その話が持ち上がったことに困惑した。

 ノアが顔を上げた。そこに浮かんでいたのは鋭い狩人の瞳ではなく、昔星の下で一度見た、少年のように無垢な瞳だった。

「パパには不味いって怒られたんだ。ミルクが腐ってたらしい」

「そうなんだ、気付かなかった」

「美味いと言ったのはお前だけだ。腹を壊さなかったのもな」

「なんだそれ、ははっ」


 思わず笑いが漏れる。心なしか、彼の口角も上がったように見えた。

 まるで心を読んだようなタイミングだった。そうでないなら、偶然彼もあの時のことを思い出していたとでもいうのだろうか。


 ノアは立ち上がって簡単に食事の後始末をすると、背を向けた。

「敵が近付いたら知らせる。お前は睡眠の確保に専念しろ。いいな」

 そう言い残して闇の中に姿を消した。

 睡眠の確保は重要課題だ。今日までのところ緊張状態で全く眠れなかったため、実際、焚き火を囲んでいる間にも何度か睡魔に襲われ意識が飛んだ。睡眠不足は体力と判断力に影響を与える。


 これまでの様子を見る限り、黄龍会の件を片付けるまでノアに殺される心配はなさそうだから、黄龍会の襲撃にさえ注意していればいい。眠るチャンスは、彼が見張りをする今だけだ。


 クリスは初日に作った、枝と葉を被せたテントの中に身を横たえた。一日目、二日目は木の上で寝たから、実はこのテントで寝るのは初めてだ。草のベッドの寝心地は、木に比べればとても良い。木の上ほど硬くないから背中に優しいし、体を水平にして寝返りもうてる。

 目を閉じてからすぐに眠気が襲ってきた。緊張状態から完全に解放された訳ではないので熟睡とまではいかず、途中で何度か目を覚ました。


 黄龍会がやって来る。今まで以上に命懸けで戦わなくてはならない。できるのだろうか。——自分を信じるしかない。

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