夢現

麻賀陽和

第1話 夢

 「夢というのは遥かに人類を殺している造物だ」

 人類は絶滅の淵に立たされている。

 愛も、魂も、夢も。すべてが狂った。

 たった一人から始まった夢が。もはや夢とも呼べないが、狂った人々を十分に狂わせるまでに。




 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!


 ――――外した。


 サイドテーブルに叩きつけた手の横で、目覚まし時計は鳴り続ける。


 時刻は6時60分。壊れたか?


 「――――――――ッ」


 大きく背伸びと欠伸をする。1日の中で一番気持ちいい瞬間だ。もちろん就寝を除いて。


 「ヘイSari。プレイリスト、モーニング再生」


 ドラムのリズムと共に陽気な音楽が流れる。【俺】の好きな映画のオープニングで流れた曲だ。その主人公はこの音楽と共に楽し気なダンスをする。彼の周りは人食いの怪物で溢れているのにだ。


 オープニングは大切だ。1日の大半がこれで決まる。気分。体力。物の見え方。ジャーナリストにとってはこの空気の一瞬までもが世界を変える。


 【私】は寝室から出ると、12帖ほどのダイニングに出て、フライパンを火にかけ冷蔵庫を開けた。そこで卵を二個とウィンナーを取り出し、食パンをトースターにセットする。朝はパン派だ。


 俺がハミングをしながらウィンナーを炒めていると、玄関のカギに鍵を挿入する音が聞こえる。続けてカチャンと音がすると、金属製の重い扉の情けない音が廊下を渡ってくる。


 玄関を閉め、靴を脱いで整える音。聞きなれた音だ。築20年のマンションは、床を軋ませて足音を作る。


 「おはよーございまーす」


 ダイニングの扉を開けて彼女が入ってきた。私の可愛い助手だ。


 彼女の名前は”高山(たかやま)”都内の大学に通う4年生でジャーナリストを目指している。だからフリーランスの私に「助手にしてください」と頼み込んできた。あの頃の彼女は、今の私を見てどう思うだろうか。


「――――って。まさか寝起きですか?」


 ダイニングに入るや早々に、高山は呆れた眼差しを俺に向けて、アメコミの缶バッジを付けたリュックを、米俵でも下ろすかのように仕事机に置いた。


 このマンションは俺の家であり、俺たちの仕事場でもある。だから高山は毎日毎日ここへやってくる。正直少し目障りだ。


「本当に大丈夫ですか? 佐藤さんのアポ、7時半ですよね。もう出ないと不味いですよ?」


「大丈夫大丈夫。今日はタクシーで行くから」


「タクシーで? 日高(ひだか)さん、そんなお金あるんですか?」


 うるさい女だ。最初こそは人手が増えて助かっていたし、高山も俺を慕っていたのだが。それが今じゃどうだ。


「佐藤さんがタクシー代も出してくれるんだってよ」


 「佐藤」というのはその日私たちが取材をしに行く大学生だ。まるで成るべくして成ったと思わせるかのように、彼は私の申し入れを快諾してくれたのだ。


「へえ。やっぱり金持ちなんですね」


「ばか言え。どんだけ金持ちでも、記者のタクシー代まで出す人間なんていねえよ」


「で、そのタクシーはもう呼んであるんですか?」


 本当にため息が出る。高山は完全に俺を猿か何かだと思っている。


 腐っても俺はジャーナリストだ。大学を出た後は国営の放送局に就職し、世界中を回った。独立してからは、誰もが嫌がる場所までも取材へ行った。   

 だがそこで見た景色は、あまりにも夢とはかけ離れていた。


「――――当たり前だろ? 俺はチンパンジーかよ」

「いや、ナマケモノでしょ」


 焼きたてだったパンも、もうパサパサだ。なんで俺は高山をクビにしないんだろうか。今となっては高山が俺の助手である必要はない。それは高山自身も分かってる筈なのに。


「食べましたか?」

「ああ。行くぞ!」


 荷物は夜のうちに準備しておいた。俺は物忘れが激しいから、朝に準備するなんて器用なことはできない。


「ってスマホ忘れてますよ!」

「やば、早く持ってこい!」


 既に玄関を開けていた私は、彼女にスマホを取りに行かせた。


 私たちはエレベーターで一階まで降りると、すでにマンションの前で待機していたタクシーに乗り、運転手に行き先を伝えた。


「鍵かけました?」

「もちろん」

「これ間に合いますかね?」

「電車で行けばギリだけど、車なら間に合うさ」


 俺はあくまでも余裕を装った。というか、いつからだろうか。人との待ち合わせにこれほどまでにルーズになったのは? 


「昔は真面目だったのになぁ……」


「なんか言いました?」


「なにも」


 「ふうん」彼女は顔を除いてくるが、私はただひたすら窓の外を見ていた。皆何をそんなに急いでいるのだろうか。その時の私には窓の外がそのように見えた。


「――――ところで。その佐藤って人はどんな人なんですか?」


「一晩にして資産を何百倍にもした大学生だ。一体どんな手を使ったのか、それを突き止めに行く」


 心のどこかで……。いや、これは妬みだ。自分よりも10は離れていて、特に苦労もしてないガキが億万長者だという事実に、身も心もすり潰されそうになる。


 夢を持っていたときは金の事なんか一切考えていなかった。ただまっすぐ前だけを見ていたが、見るべきものを見失ったとき。俺の頭は空っぽになり、次第に金の事だけを考えるようになった。


「いわゆる成功者ってやつですね。うらやま」


 この時の私は彼女のことが見れなかった。というより、見ようとしなかった。理由はただ一つ。失うのが怖かったからだ。


「そういうことだ、ついでにFXのコツも同時に聞きに行く」


「結局カネかい、あんたは」


「為替で食えたらなんかカッコいいだろ?」


 冗談を言いながら俺は高山に微笑んだ。だが、高山は「はいはい」といった目で俺を見ている。日を重ねるごとに、どんどん生意気になっていくな。


「でも、最近多いですよねえ。ギャンブルや株で成功する人」


「まあ人間っていうのは、知らず知らずのうちに他人と波長を合わせるからな」


「なーんか聞いたことあるなあ。それ」


 そんな繋ぎのような会話をしていると、タクシーが道路の脇に停車した。ハザードランプの点灯音が車内に響く。


「着きましたよ。料金は4200円です」


 運転手が黒いポーチを取り出して金勘定をする。長旅ご苦労様と言いたいところだが、あいにく俺は現金を持っていない。


「クイックペイで」


「クイックペエですねえ」


 800円のおつりを準備していたところ申し訳ない。と心の中で平謝り。でも小銭は財布を膨らませるから嫌いだ。


「あと、領収書貰えますか?」


 ――――私と彼女はタクシーを降りると、目の前にポツンと建つ古い喫茶店の看板に目を向けた。


「ここだな」


 古い木製の扉を開けると、ドアについている鈴が甲高く鳴り響く。それはとても心地のいい音だった。


「うるさい鈴だな」


「そうですか? ちょっと音は大きいですけど、綺麗じゃないですか」


「そうか? ファミマの入店音の方が好きだな」


 耳障りな鈴の音に気付いた若い女店員がこちらに歩いて来る。そして彼女は俺と高山に目を配ると、ピースサインを作って――――。


「2名様ですね!」と、かわいらしい声色で言った。


「お前とそう変わらん年頃だな」


「あたしの前で鼻の下伸ばすの止めてください」


 そうして俺たちは店員に案内されたテーブル席に座る。

 ――――辺りを見回してみるが、佐藤はまだいないみたいだな。


「ところで日高さんはどう思いますか? 最近増えている成功者について」


 高山は店のメニュー表を楽しそうに眺めながらそう言った。多分その質問に深い意味はないのだろう。こいつの頭の中は今、何を食べるのか考えるのに必死だ。


 私は彼女のその姿を今でも思い浮かべる。幸せそうな女の子らしい姿だ。笑みがこぼれる程、ただただ愛おしい。


「さぁな。世の中が不公平だって事を俺に言い聞かせているみたいだ」


「結局、運と顔ですよね。世の中」


 メニュー表をパタンと閉じると、高山は何食わぬ顔でそう言った。お前も、俺と同じくらいの歳になればきっと分かるさ。


 私がそんな事を思っていると、先ほどのドア鈴が静かに音をたてた。店員の挨拶が聞こえ、私がそちらに目をやると、あの男が不気味な笑みを浮かべて立っていた。


「あっ。佐藤さん! こちらです」


 佐藤はこちらに気が付くとニコリと爽やかな笑みを浮かべて歩いてきた。俺は席を立ち高山の隣に座る。


「いやあ。本日は我々の取材に応じていただき、本当にありがとうございます」


「いえいえ。僕もヒマしてましたし。それに、こういうのは初めてなのでワクワクしてます」


 顔色の悪いその男はそんなことを口にしていたが、そんな感情は微塵も感じさせなかった。そう思わせる程、佐藤の言葉にはまるで感情が籠っていなかったのだ。


 そして佐藤はおもむろに呼び鈴に手を伸ばすと、こちらに断りもせずにそれを押し、甲高い電子音を店内に響かせた。


「そうでしたか。そう言って貰えると嬉しいです。仕事柄、あまりいい顔をされないのが大半ですからね」


「――――お待たせしました。ご注文をお伺いします」


 佐藤が勝手に呼び鈴を押したせいで、さっきの女店員がもう注文を取りに来た。俺と高山に聞きもせずに。勝手な奴だ。


「すいません。ホットコーヒーとミックスジュース。あとアイスコーヒーも頂けますか?」


 俺と高山は互いの顔を見合わせる。


「あはは。おひとりで3杯も飲むんですか? さすが若いだけはある」


 苦笑いを浮かべながら俺が言うと、男は不敵そうな笑みを浮かべて―――――。「いえ、お二人の分のドリンクですよ」と言った。


 この時、私と彼女は何とも言えぬ不気味さに襲われた。あの男は聞いてもいないのに、私達がその時飲みたかったドリンクを注文して見せたのだ。


「お前、ミックスジュースか?」


 引きつった笑みを佐藤に向けたまま俺は小声で高山に聞く。


「……いえ。アイスコーヒーです」


「――――さて、なぜ私が資産を80倍にすることが出来たのか。でしたっけ? あれ、それともFXのコツでしたか?」


 男は狐のような細い眼をさらに細くさせ、ニッコリと微笑んで俺たちにそう言う。

 不気味だ。取材内容は知っていても、FXのコツ云々は言ってないはずだぞ。


 そんなことはお構いなしに、佐藤は続ける。


「わかる範囲で良ければ、お答えしますよ。もっとも、あと五分くらいしか時間はありませんけど」


「それは一体どういう? お時間は十分あるんですよね?」


「それは直ぐに分る事です。早く取材を始めましょう」


 そんなことを言われても、こんな手品師みたいなマネをされたら、どこから突っ込めばいいのかわからない……。


「あ、それと」


 佐藤が切り出す。


「それ、いい腕時計ですね。でも今は外したほうがいい」


 一体何を言ってるんだこいつは。

 私のフラストレーションも限界に達しそうだったそのとき、彼女が睨むようにその男に言った。


「あの。先ほどから一体何を言ってるんですか?」


 しかし、男は絶えず笑みを浮かべながら彼女に返す。


「いえ。大したことではありません。――――ですが、もう時間がないので1つだけ教えましょう」


 佐藤はまるで、“それ”が来ること事前に知っていたかのように、ゆっくりと腰を滑らせながら窓際の方まで席を詰めた。


「……最初は骨です」


「ですから、わかるように説明してくれませんか!」

 

 高山が噛みつく。

 おいおい。大事な取材なんだぞ。仮にも記者目指してる奴が、相手の気分を損ねるような態度をとるなよ。


「お待たせしました! 先ずはホットコーヒーですね」


 女店員は小皿に乗ったコーヒーカップをトレーから持ち上げ、たどたどしくそれを俺の前に置こうとする。でもそれは佐藤のコーヒーだぞ。


「あ、ホットコーヒーは彼のです」


 こんな暑い日にホットとはな。成功者ってのは、頭のネジが飛んでるって話は本当なんだな。


「し、失礼しました!」


 新人なのか、女店員は慌てた様子で佐藤の前にコーヒーを移動させようとした。隣では高山が佐藤に質問攻め。今日の取材は失敗か?


 ――――ガシャン! 

 その音と同時に、木製の上等そうな机に黒い液体が広がる。


「あっちッ!」


 あろうことか黒い波は俺の方まで広がってきて、遂には膝の上にまで勢いよく流れ込んできた。


「あちちちち。まってマジで熱いこれ! やばいよやばいよ」


 腕時計も浸水してしまった。まあまあいいやつなのに。修理できるかな? コーヒーも左程熱くないし。


「あーあーあー」


 高山の表情から「かわいそうに」という言葉が読み取れた。もう少し心配そうな顔をしろよな。


「た、大変失礼いたしましたっ。直ぐに拭くものをお持ちします!」


 その時あの男は窓の外を眺めていた。佐藤にはすべて分かっていたのだ。じゃあなぜ佐藤はホットコーヒーなんか頼んだのか。――それは間違いなく、私たちの顔を見るためだったのだろう。次のターゲットととして最適かどうか見極めるために。


「――――どうやら、今日は取材どころではなさそうですね。火傷も酷そうだ」


 佐藤が気を利かせたかのように振舞うが、どうにも全ての動作が嘘くさい。

 俺が大変な時だってのに、よくもまあ冷静でいられるもんだなコイツは。だが、ここで堪えるのが大人の対応だよな。


「そっ、そうですね。せっかくお時間を作ってもらったのに、申し訳ないです」


「ここは僕が払っておきますね。あとこれは医療費の足しにしてください」


 そう言って佐藤は、机の上に黄色い封筒を置いてレジのところまで歩いて行った。もう俺たちに興味は無いといった嫌な感じで。


「やりましたねっ。日高さん!」


 高山は封筒の厚みに目を輝かせながら俺にガッツポーズをした。現金な奴だ。


 ――――それから私たちは店から代えの服をもらい、後日クリーニングした服を郵送で届けるという旨を伝えられた。火傷もなく、無駄にお金だけを受け取った私たちは、店を出た後も少し気分がよかった。


「しかし。何だったんだ? まるでこうなるのが分かってたみたいだったな」


「本当ですね。顔色も悪かったし。……ていうか、代えのシャツダサいっすねえ」


 店からもらったシャツを眺めながら、高山は笑いをこらえる。


「まあ、一晩中チャートと睨めっこしてたら、顔色も悪くなるだろ」


「確かに。でも、もしさっきみたいに未来を予知できてたのなら、為替で勝つことも容易ですよね?」


 空を眺めながら高山はそう言う。大学4年生にもなって何言ってんだか。SF映画かよ。


 今思えば、私はもっと彼女の言っていたことを真面目に受け止めるべきだったのかもしれない。そうすれば、少しは何かが変わったかも……。


「映画の見過ぎだよ」


 街道の中の日陰を選んで俺たちは歩く。今日も暑い。


「ええ? 日高さんも映画好きだから。こういうのって、なんかこう胸に来るものがあるんじゃないですか」


 天気は少し曇ってるが、それでも涼しくなることは無い。むしろサウナ状態だ。


「ねーよ。……でもまあ、最近多いんだよなあ。増え続ける成功者を取り扱う記事やニュースが」


 ジャケットを脱いだ、白いワイシャツ姿のサラリーマン達が、川の流れに身を任せる笹船の様に道を歩く。まだ1日は始まったばかり。


「だからそれに乗っかって一儲けしようってことですか?」


 バレている。だけど別に隠しているわけでもない。こいつの頭の中に、あの頃の俺はもういないんだから。


「バレた?」


「バレバレ」


「――――しかし困ったな。今日中に記事まとめてアップする予定だったのに。暇になっちまった」


 その言葉に高山の表情が明るくなる。元気な奴だ。


「じゃあ、今日の仕事は終わりですか?」


「まあ。そうだな」


「よし! じゃあ買物行きましょうよ。原宿とかに」


 まったく呑気なものだ。ついさっきまで青ざめていたのに、金が入った途端血相変えやがって。


 だが、そのあどけなさが彼女の良い所でもある。私は彼女のそこを気に入り、ずっと傍に置いていたのだ。だが愚かにも、この頃の私はまだそれに気づいていない。


「だめだ。俺はお前と違って忙しいんだよ」


「さっきヒマになったって言ってたじゃん」


 痛いところを突いてくる。しかもため口で。高山はたまにタメ口が出る。ここ最近その頻度が多くなっているのが、俺の悩みの一つだ。


「俺とお前は友達じゃないんだぞ。それに大学はいいのかよ」


「あたし、今日休講なんで。ていうか日高さん友達いないじゃないですか」


 なんなんだコイツは一体。――――明日だ。明日になったらクビにしてやる。それに、友達がいないんじゃない、少ないだけだ。地元に帰れば溢れんばかりの友達や女がいるのに。


「あ、」


 高山がピタリと歩みを止める。急に止まるなよ。


「どうした?」


「このパンケーキ屋さん。最近できたばかりなんですよ!」


「だから?」


「バイト代ってことで奢ってくださいよ」


 最早怒りさえ湧き起らない…………。しかし思えば、こいつには今まで給料とか見返りをやったことがない。「助手なんだから」と言い訳ばかりしてたっけ。


「やだ」


「ええ。いいじゃないですか。あたしのスイーツブログ。最近人気出てきたんですよ。だからこれは遊びじゃなく、取材です」


 つらつらつらつらと、本当にこいつは。でもまあ高山と居るのもあと少しだ。大学を卒業したら、こいつも俺の元を離れるだろう。


「分かったよ。30分だけな」


「よし! あたし席取ってきますね」


 この時の彼女の笑顔は他の何にも形容し難いものだった。「会いたい」今の私の中には、最早この言葉だけがとぐろを巻いている。


「いらっしゃいませー」


 最近できたばかりなので店の中はかなり綺麗だ。客層も若い連中ばかり。30代男は見た感じ少ない。それもそうだ。平日の午前にこんな店に来る野郎なんて俺くらいだろう。


「日高さん」


 高山が俺の方を見ながら手を挙げる。


「まあまあいい席ですね」


 日差しがよく入る窓際の席だ。どうして若い女ってのは、こうも窓際に座りたがるのかが分からない。さっきの古い喫茶店が恋しい。


「なんか、目が痛くなるような店だな」


「ラッキーですよ。この店、昼とか休日は滅茶苦茶並ぶんですから」


「へえ。駅前ってだけはあるな」


 知らず知らずのうちに、私も密かに楽しんでいたのかもしれない。なにより、誰かと飲食を共にすること自体が少なかった。


「――――お。このパンケーキが人気なんですよ」


 高山は、有名な記者が書いた記事を見るかのように目を輝かせている。その時ふと笑みがこぼれる。危ない危ない。こいつにだけは見られたくない。


「日高さんも何か食べますか?」


 そう言う高山の視線は、色彩豊かな甘い写真に食らいついたまま。

 ……まるで俺に奢るような言い方だな。


「俺はコーヒーだけでいいかな」


「じゃあ、店員さん呼びますね」


 後の流れは高山に任せることにして、俺はスマホを取り出して、ニュースアプリを開く。


 しかし、つまらない記事ばかりだ。誰かの成功体験。最新のテクノロジー。若者に人気の芸能人やユーチューバー。こういった眩しい記事ばかり見ると、自分が世界に置いて行かれているような気分になる。

 いや、こいつらは世界を知らないだけだ。俺の知ってる世界ってのは…………。


 ――――ここで一つの記事が私の目に留まった。その記事の内容はこうだ。【例年より増加の一途をたどる自殺者。未だ回復しない失業率が原因か?】


 いつの時代だって死んだ人間はこうやって数字に代えられる。それもそうだ。ニュースというのは膨大な量の情報をいかにしてコンパクトに伝えられるかが肝となる。問題は視聴者だ。この数字をどう捉えるかで社会が変わる。だが大半は、この自殺者の数を見ても一時的に気分が落ち込むだけで、次の瞬間には別のものに興味が移ってる。


 まさにあの時の私のように。


「なんか、自殺者も大分増えてきたな」


「そうですね。成功する人間もいれば、首を括る理由に殺される人もいるってことですよね」


「資本主義だな。それに、自殺者の殆どが妙な奇声を発してるんだと」


 今入れた情報を、そうやって分かり切っているかのように振舞う俺の前に、香ばしい匂いを漂わせるコーヒーが運ばれてきた。

 高山の前には、鮮やかで丸々と太ったイチゴや、ウェディングドレスの様なホイップクリームがエレガントに盛り付けられたパンケーキが置かれる。


「なんか、結構美味そうだな」


 俺がそんな事を呟くと、フォークとナイフでパンケーキを器用に切り分けた高山が、その一切れにクリームを塗りつけ、それを刺して俺に差し出す。


「あーん」


 その顔はとても意地の悪い顔だ。こうやって大人を馬鹿にしたような態度が余計ムカつく。むかつくのに、どこか憎めない……。


「お前、俺をナメてるだろ?」


「ナメるのはクリームだけにしろって?」


「なんか涼しくなってきたな」


 俺はそう冗談めかして身震いをしながらコーヒーを啜る。パンケーキ専門店と銘打っているが、コーヒーもなかなか美味しい。


「可愛くな。知らないんですか? 最近はJKもJDもおじさんフェチが増えてきてるんですよ?」


「はいはい」


「おじさんの時代が来てるんですよ?」


 30代っておじさんの分類に入ってるのか? 世間一般では一応青年の部類に入るんだが、この年頃のガキからしたら立派なおっさんなんだろうな。きっと。


「もうマッチングアプリで右スワイプする時代は終わってるんですよ?」


 その言葉に俺はコーヒーを吹き出しそうになった。


「なんで知ってるんだよ」


「分かりますよ。指動かす度に表情変わるんですから。普段は真顔でスマホ眺める癖に」


 その言葉に大きくため息を吐いた。

 俺はただの人間観察としてやってるだけなんだが、そういう風に見えてるのか。まあ、それもそうかもな。20代のガキから見たら。


「なんで女って顔と年収にしか興味ないんだろうなぁ」


 大きく背伸びをしながら背もたれにもたれ掛かると、木製のクラシックな椅子が心地よく軋む。


「大体、そう言うお前は――――」


 そう言って俺が前のめりになった瞬間だった。


「あれッ!?」


 突如店内に男の声が響き、一瞬にして静寂が産まれる。


「あれッ!?」


 またしても同じ声が響く。高山が顔をしかめた。


「何ですかね」


「あれ!? なんでっ! ここどこッ!?」


 高山の声が奇声でかき消された。俺と高山は目を合わせる。


「なんかヤバくないですか?」


「さあな。夏だから浮かれてんだろ。あまり見るな」


 せっかくのコーヒーが不味くなる瞬間を味わった。それは高山も同じようだ。パクパクと口に運んでいたパンケーキがまったく動かない様子を見るに。


「夢じゃない! 夢じゃない!」


「ちょっとうるさいな」


 俺は声の主を一目見てやろうと、眉間にしわを寄せ身体を動かした。


「あああああああ! 終わりだッ。終わりだッ! くるぅっ。嫌! 来るう! ホネェ、骨え! 骨! ああああああああ!」


「ちょっとゆう君どうしたのッ?」


 カップルで来てたらしく。叫びまくる男に女が心配そうに叫んでいた。


「お客様、どうされました!?」


 店長らしき女が駆け寄る。周りの客も完全にドン引きしている。結局ゆう君と呼ばれた男の顔は人込みで見れないが、その声から相当歪な表情が想像できる。


 ――――なぜあの時、あのタイミングで彼は発狂したのだろうか。あの日、あの出来事がなければ、私は彼女ともっと親密になれたかもしれなかったというのに。

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