5

 店内のアナログ時計は、午後六時半過ぎを指している。

 レジカウンター周辺は仕事帰りと思われる背広姿の社会人や、家族連れで混み始めており、周辺の座席も人で埋まりはじめていたが、その中に制服姿の学生は僕と森山だけだった。


 ふと視線を左に移すと、座席と隣接する窓ガラスが店内照明を反射して、外に広がる群青の薄闇に、ヘッドランプを煌々と灯した乗用車の行きかう二車線の大通りに、対になるもう一つの世界を映しだしていた。


「――殺された。誰かが殺した、ね」


 ぽつり、森山が呟いた。


「違うと思うのか?」

「いや、寿命でも、病死でもないんなら、それしかないと俺も思う。ただ――」

「ただ?」

「飼育中の過失を含めても、やっぱり殺したってことになるのか気になって」

「そりゃあなるだろ。それが飼い主の責任だ」


 車と人の交通事故にしたってそうだ。より大きな力を持つ者が、より大きな罪を負う。殺害と傷害の違いなんて、殺意の有無くらいのもので、結果の形は両者とも変わらない。

 そうだよな、と頷くと、森山は小さく唸った。


「いよいよなってきたな」


 にやにやと笑う森山。

 悪趣味なヤツだと思う。


「なんで嬉しそうだよ」

「おっと、そう見えたか。いかんな、つい」


 森山は緩んだ頬を手のひらで抑えると、指先でぐりぐりと揉みほぐした。

 こいつの不謹慎な言動はいまに始まったことではない。気を取り直して考える。


「けど、そうなると……どうしたもんか」


 坂道ばかりの人生だけれど、さすがに、隠された真相に辿り着く洞察力などを養う機会はとんとなかった。途方に暮れていると、


「俺、それなりにミステリを読むんだけどさ」

「……へぇ」


 それはあまりに唐突だった。反応も出遅れる。

 意外、と思ってすぐ、そうでもないかと思いなおす。

 ちなみに僕はあまりジャンルを意識して小説を読んだことがない。雑食というのか。強いて言えば、書店で気になって手に取ってしまう小説の大半がホラーだったりするくらいだ。


「それで?」

「ああ。素人なりに、それならいっそ、ミステリのお約束に当てはめて考えてみるのはどうだろう、と思ってさ」

「……うん?」


 首を捻る。

 冗談かと思ったが、森山の目は真剣だった。

 困惑を感じ取ったのか、森山はこう言った。


「わかってる。あくまで創作は創作、現実でそう上手くいくはずないって思うのも。けど、ドのつく素人探偵である俺たちに、なにかしらお手本は必要だ。

 エンタメだからこそ、道具として登場するミステリの論理には、大切な要素がたっぷり盛り込まれているし、お互いに騙されたと思ってさ」


 本音を言えば、騙されてやる時間も惜しい。

 しかし、それ以外にいい手が思いつかないのもまた事実だ。


「……僕に拒否権はないな。代案がない」

「素直じゃないな……」

「人間歪みが大切だ、とも云うぞ」

「ああ言えば、こう言うな」

「お前が言わせてるんだ」


 くだらない言い合いも、いつも以上に体力を使う気がした。

 二人ほぼ同時に大きく鼻から息を吐いたあと、


「俺の目的は事件の結末に左右されないから、ここでは津垣の目的を採用しよう。すると、津垣の目的は大雑把に、無実の罪で裁かれそうになっている四ツ谷なるきを救うこと、となるわけだよな」

「ん、いや、そ――」

「細かいことはいいんだ」


 きっぱり言って、森山は右手のひらを僕に向けた。


「大切なのは――」


 森山はそのまま、まずは右手の親指を折り曲げる。


「一に、なぜピーコは殺されたのか。二に、誰が殺したのか。三に、どうやって殺したのか」


 カウントは三で止まった。親指から順に、森山の右手は現在、中指までが折り曲げられている。


「……動機、犯人、手口か」


 森山は満足そうに頷いた。


「アリバイの成立も必須だな。最低それくらいのことがわかっていないと、真実味が生まれない。五月号の壁新聞に載せたところで、読者は納得しないだろう」

「ホンダとやらが、世論を上手く煽ったもんな」

「違う」


 森山は声を大にして否定した。


「大火に薪を一本投じただけだ。良くも悪くも、あいつに情勢を動かすだけの自力はない」

「悪くも?」

「新聞部の戦力を思えばな……」


 個人のこだわりはともかく、森山は部の未来を憂いているようだった。

 さすが、意識の違いを実感させられるもの言いである。


「あいつ、流行に乗るのだけは得意なんだよな。プライドとかねぇのかな……」

「それは……」


 難しい話になる。

 流行に乗るのがみっともないというのなら、では誰にも理解されないものが正しいのだろうか。そうではないだろう。逆もまた然り。どちらが正しいとか、間違っているとかいう、これはそういう話ではない。それぞれに出来ないことがあり、出来ることがある。その補完性に価値を見出すべきなのだと、僕は思う。


 思ったが、すんでのところで言葉にするのを思いとどまる。


「別の機会にするべき話だな、いまは事件の解決に集中しよう」

「そうだな、悪い。えっと……」

「動機、犯人、手口にアリバイ。推理の取っ掛かりになるスターターキットが出そろったってところだ」


 察して助け舟を出せば、森山は微笑んだ。


「ああ、そうだった」

「ここからはどう進めていくつもりだったんだ」

「急かすなよ、俺だってただのミステリファンなんだぜ」

「あ、いや……急かしたつもりは……」


 言い訳を探したが見つからない。自覚がなかっただけで、無責任な発言だった。

 考えれば、これまでのことで森山は十分に活躍している。貢献が足りていないのは僕の方。足手まといになりたくはない。

 親指と人差し指で、顎をつまんで考える。


「動機、動機か……」


 浮かんだアイデアは我ながら最低で、それでも言わずにはいられなかった。


「椎野には、ピーコを殺す動機があった」

「……疑ってるのか」

「彼女が生き物便りのことで悩んでいたなら、ピーコが死ねば解決だ」


 森山は口元に持っていきかけていたポテトを止めて、不愉快そうに眉根を寄せた。


「わかってはいたけど、お前って最低だよな」

「なんとでも言え。理論上は、って話だ。それに椎野は、今月の生き物便りで引退を事前に表明していたんじゃなかったか」

「ああ、そうだよ。だから、椎野先輩がピーコを殺す必要はないってことだろ。そうでなくても彼女は、ピーコの成長をずっと見守ってきた人だっていうのに――」

「ああもう、僕が悪かった! けど、虱潰しにしていくしかやりようがない」

「……確かに」


 口ではそう言っておきながら、不貞腐れているのが丸わかりだった。

 僕だって、好きで他人を疑っているわけではない。


「……なら、出島先輩は?」

「ザ・北川高二年」


 僕がそう言うと、今度は森山の口許に笑みが浮かぶ。


「……確かに」

「というか、だ。言い方は悪いが、たかが一羽のインコを殺す動機が単純に思いつかない」


 一羽のインコを殺したいほどに憎んだり、恨んだりしている状況は、いかにもシュールだ。見方によってはピーコの存在に苦しめられていたと捉えられる椎野でさえ、殺す以外の方法で問題を解決している。


「じゃあ、動機については保留にしよう。次は――」


 少し考えて、森山は続ける。


「順番にいくなら、犯人か……。犯人は状況から推察するのが基本なんだよな……」

「そんなことを言い出したら、はじめに犯人ありきの動機じゃないか?」

「ってことは、四ツ谷なるきにピーコを殺す動機があったかを考察するのが先決だった?」


 もう滅茶苦茶である。


「僕に訊くな、僕に。門外漢だと言っただろ」


 森山が不満げになにごとかを呟いたけれど、なにを言ったのかはわからない。

 ミステリのお約束というのも、素人の僕と半可通の森山ではこの辺りが限界らしい。アプローチの方法を変えるべきだと思いつくのに、さほど時間はかからなかった。


「ひとまず、出島と椎野から得た情報を整理してみないか」

「おお、それがいい」


 森山の食いつきようは、地獄に仏と言わんばかりだった。

 僕は、数時間前の出来事を思い出しながら言う。


「まず出島は、美化委員の当番の仕事内容について言ってたな」

「確か、朝のHR前と、放課後に生き物の世話をすると言っていたよな。それから週末には大掃除があるとも」


 森山は言いながら、ブレザーの裏ポケットから手帳を取り出し、親指を差し込むようにして開いた。そこに書き留めてあるのであろう情報を、続けて読み上げる。


「そして、四ツ谷なるきについては酷く嫌っているようだった。なにを考えているか分からない。陰気――」

「よくいる二年生だ」


 森山はこくりと頷いて、


「あとは、栄島が黙っていることが、彼女が犯人である根拠だ、と言っていた」

「そこだよな。それを四ツ谷なるき=犯人説に繋げるのは安直だが、この事件にデリケートな部分があるっていうのは間違いない」


 栄島は犯人を公表することで、その人物が周囲から責められるのを嫌ったのかもしれない。栄島は、犯人である生徒でさえ守りたかった。

 結果として四ツ谷なるきが血祭りにあげられてしまったことは、栄島にとって誤算だっただろうか。それとも――。

 考えていると、ほとんど文句のように森山がこう言った。


「やっぱ状況が最悪だよな。どうして一人で死体の処理をするかな、それも人目の多い昼休みなんかにさ。四ツ谷なるきが本当に巻き込まれただけの被害者なら、おまけにすこぶる運も悪い。よりにもよって、死体の第一発見者だぜ」

「ああ――」


 頷きかけたときだった。

 僕は違和感を覚えて硬直する。


「昼休み……、第一発見者……。そうか……」


 バラバラだった情報の欠片が、脳内であるべき形に組みあがっていく。

 閉ざされた空間から一気に視界が開けるような、感覚。


「――森山、犯人がわかるかもしれない」


 僕が言うと、森山は目を丸くした。



「ほんとうか」

「ああ」


 頷いて僕は、乾燥した唇を舌で湿らせる。


「当番は朝のHR前にピーコの世話をすると出島が言っていた。でも四ツ谷なるきがピーコを中庭の花壇に埋めたのは昼休みだ。ということは、ピーコは朝のHR前にはまだ生きていた。つまり、ピーコはその時点から、昼休みまでの午前中に殺されていたということがわかる。

 さらに、ピーコの死体の第一発見者が、昼休みに生物室を訪れた四ツ谷なるきであることから、犯行時刻は、午前の最後に生物室を使った学級の授業直後から、昼休みまでの範囲に絞り込めるってことにならないか」


 一気にまくし立てたせいか、口を閉じると飲み物が欲しくなって、コーラに手を伸ばす。

 ストローに口をつけ、炭酸が舌の上で弾けると、もう一つ閃いた。


「それから、授業合間の休憩時間は十分程度。授業が少しでも長引くとさらに短くなるから、犯行のタイミングとして適切なのは、授業中だ」


 森山は僕の考えを咀嚼するように黙り込み、やがて言った。


「犯人はその時間、授業を欠席した?」

「おそらく。出席簿……は、教員の協力を仰げないから無理として……」

「全学年の時間割から怪しいクラスを精査して、ひとつずつまわればいい。GW前は明日がラストチャンスだ」


 森山はそこで、窺うように僕を見ると、


「でも、もし犯人が四ツ谷なるきだったら……」


 と、言葉を切った。

 僕はアンフェアな気がして、代わりにあとを引き継いだ。


「この理屈は通らないな。あの人が唯一、昼休みにピーコを殺すことが出来るんだから」


 でも、と僕は、左右に首を振る。


「調べればわかることだ。僕は極力、四ツ谷なるきが犯人である可能性を考えない。でなきゃ、僕が一体何のために骨を折っているんだかわかりやしない」


 そう言ったあと、僕は心にもないことを言ってしまったときのような虚しさを感じた。その感覚は、捕まえようとするとまるで煙のように霧散したが、気のせいであったと思い込むには、胸に開いた穴は大きすぎた。


 ふむ、と森山は腕を組み、そして納得のいかなさそうな声で低く唸った。


「でもさ、なんていうか、上手くことが運びすぎてるって感じがしないか」

「……例えば?」

「例えば、四ツ谷なるきとは別に犯人がいるとして、犯人はどうして昼休みに彼女が生物室に来ることを予期できたんだと思う? 読みを外せば、ピーコの死体の第一発見者は、彼女以外の誰かだったかもしれなくて、その場合、事態はこれほど一方的にはならなかったはずだよな?」


 読みを外せば――、森山の言うことは正しい。

 だが、それがなどではないとしたら?


「犯人は、四ツ谷なるきをしたのかもしれない」

「……誘導? どうやって?」

「張り紙を朝早く、生物室のドアに貼っておく、なんていうのはどうだ。『これこれこういう事情があるから、今日は昼休みにもピーコの様子を確認すること』というような内容のものを」

「張り紙ィ? そんな証拠になりそうなもの……」

「張り紙程度、簡単に始末できるだろう。それに、いまのは一例だ。。ほんのちょっぴり脅かしてやれば、効果は十分に――」


 ストップ、とそこで森山は手のひらを僕にかざした。

 いいところだったのに、そんな思いを込めて視線を送る。


「……なんだ」

「そんな情報あったっけ?」


 なにを今さら、と言いかけて、ハッとする。


「そうか。そういえば言ってなかったな」


 首を捻る森山に、僕は続けた。


「これも出島が言ってたことだけど」

「類は友を呼ぶってやつか?」

「言ってたな、でもそれじゃなくて」

「四ツ谷なるきはやるやつだ、って話か」

「そんなイカした言い方じゃなかったけどな。それも違う」

「じゃ、美化委員の仕事の話?」

「じゃなくて」

「ってことは――」

「いいから、最後まで話を聞けよ!」


 ツッコミ待ちだったようで、森山は満足そうににやけていた。腹立たしい。


「一番最初に言ってたやつだよ。魔導書がどうのこうの、って話だ」

「ああ、そんな話もしてたな」


 森山は馬鹿にしたように笑い、次の瞬間真顔になった。


「って、まさか津垣。あんなしょうもない話を真に受けてるんじゃ……」

「それが、そのまさかだ」


 言い切ったことがそれほど意外だったのか、森山は僕の正気を疑うかのような目をしていた。


「あれは本当の話なんだ、森山」

「悪魔召喚が……?」

「……そっちじゃなくて。というか、もうボケなくていい」

「ボケる余裕ねぇよ! どうしたんだよ、急に。疲れてんのか?」


 大丈夫か?――と、本気で森山は僕を心配していた。


「僕は至ってまともだ。というのも、出島が言っていた本は実際ある。“猿でもわかる黒魔術”っていう、ヤバい教本で、うちの蔵書だ」

「まじかよ」


 森山は目を点にして驚いた。


「さらに言うと、彼女にその本を貸し出したのが僕だ」

「やべぇな、お前、そろそろ日頃の行い見直した方がいいぜ……」

「やかましい」


 言われなくても検討中だった。


「で、その黒魔術教本がなんなんだ」

「ここからが本題なんだが……、その本とは別にもう一冊、四ツ谷なるきが借りていった本がある」


 そう。いまにして思えば猶のこと、最悪の組み合わせで彼女は本を借りている。

 その名も――


「“かわいい小鳥”。まぁ、インコや文鳥なんかの飼育法が詳しく載った、レクチャー本だな。それもかなり初心者向けのやつだ」

「なるほど、それでか」


 森山はようやく納得したようだった。


「生き物の世話なんか、慣れないうちは怖いもんな。思いがけないタブーってのが、どんな生き物にも一つはある。俺の家にも猫がいるから、その辺りはよくわかるぜ」


 うんうん、と森山は何度も頷いて、


「それに彼女、半期ごとに委員会を転々としてるらしいんだ。去年の前期が保険委員で、後期が図書委員。今年の前期が美化委員だから、ペットのいる家庭でもなければ、飼育について勉強しようと思うのも無理はない」

「ふぅん……」


 それで、あの人は妙に図書室の勝手を知っていたのか。

 半期ごとに委員会を変えるわけはなんとなく想像がつくけれど、さらっと図書委員会でニアミスしかけている事実に、僕は震えた。


「っても、そう簡単に誰が張ったかもしれない張り紙の内容を信じるかね」

「さあな、僕は案外簡単に騙されるタイプだと思ってるけど」

「お、なんだよ。彼氏面か?」

「それ以上ふざけたことを言ってみろ、これから毎日、上履きに画鋲を入れてやる」

「陰湿なんだよ……」


 思えば、授業中によく鳴く鳥がいた気がする。僕には他の生き物の声と混ざって聞こえるせいで、区別するのは困難だったが。大抵は意味のない言葉を繰り返すのだが、たまに栄島の発言に対する“合いの手”のような言葉を発しては、緊張屋らしい彼女の授業を助けていたのを、いまになって思い出す。


「ひとまず、全学年の時間割を手に入れる必要はありそうだな」


 森山が言った。


「いろいろと制約がある以上、犯人もそう自由に犯行のタイミングを選べなかったはずだ」


 僕は頷いた。

 こういうときの役割分担は決まっている。


「頼めるか?」

「任せときな」


 森山は悩むそぶりも見せずに頷いて、懐からスマートフォンを取り出した。

 いったいそこに何人分の連絡先が詰まっているのかは知れないが、森山は新聞部員の先輩と思われる人物数人に連絡をとり、果たして数分後には僕たち一年生の分も合わせた、全学年の時間割が手元に揃う。


 僕も森山も、興奮を隠しきれず、額をくっつけるようにしてスマートフォンの狭い画面をのぞき込む。

 しかしながら、画面に映し出された各学年の時間割を順繰りと見るあいだ、僕たちの脳裏にはゆっくりと、“絶望”の二文字が浮かび上がってきていた。


「――


 悄然と、初めにそう言ったのは森山だった。

 僕は諦めきれずに人差し指で画面をなぞり、もう一度最初から目を通す。


「馬鹿言うな、各学年6クラスだぞ。計72コマの中に、一つもないなんてことが……!」

「だが、もう三回は見たぞ!?」

「見落としてるんだ!」


 僕は怒鳴った。

 瞬間、店内はしんとして、店員から客から、すべての視線が僕らに集まる。さっと肝が冷えて、同時に頭に上っていた血も引いていく。「ピロリ、ピロリ」というポテトの揚がる合図が、虚しく響いていた。


「……悪い」

「いや、俺も熱くなった……」


 小声で言い合って、お互いに飲み物に手を出した。


「落ち着こう」


 店内に騒々しさが戻ってきたころ、森山が言った。


「午前に生物室を使う授業がなかっただけだ。犯行が不可能になったわけじゃない。むしろ、午前中なら何年何組の誰にでも、ピーコを殺す機会があった」

「頭痛がするからやめてくれ」

「いい線いってたと思うんだけどなぁ……」

「ああ。ちょっとだけ、お前がワトスンに見えた気がした」


 そう返事をすると、いまにも笑い出しそうなにやけ面が僕を見た。


「じゃあ、お前がホームズ?」

「文句が?」

「……傲慢な奴だよ、まったく」


 小さな声で笑い合う。正解は、『どっちも役不足』である。

 けれども確かに、いい線はいっていたのだ。特に、“時間割”という目の付け所は我ながら冴えていたと思う。


「……犯人探しは後回しにした方がよさそうだな」

「犯行の手口でも推理してみるか……」


 森山は座席にずるずると沈んでいく。かと思ったら、急に眉を持ち上げて、スッと背筋を正して座りなおした。


「……なぁ、思ったんだけど。犯人はどうやって生物室に入ったんだろうな」

「そんなの、生物室のドアを開けて入ったんだろ」


 淡々と答える。

 森山は不機嫌そうに眉根を寄せた。


「馬鹿、そういうことを訊いてんじゃないって」

「馬鹿って言う方が馬鹿なんだぞ」

「そこは最後に馬鹿って言えよ、わかってねぇな、馬鹿」


 お互いに疲れの見える、くだらないやり取りのあとで、森山が改まって言った。


「だからさ。普通だったら、生物室とか、化学実習室みたいな教室って、授業で使うとき以外は鍵がかかってるのが基本だろ?」

「ああ……」


 森山の言わんとしていることが、なんとなくわかった。


使

「そういうこと。犯人は、なんとかして鍵のかかった生物室に侵入する必要があった。その方法として真っ先に思いつくのは、職員室で生徒貸出用の合鍵を借りること、だよな?」

「……当番であった四ツ谷なるきは当然として、別に犯人がいるならそいつも鍵を借りている?」


 ――いや。


 鍵を借りるという行為自体が決定的な証拠になりかねない状況で、犯人は素直に鍵を借りただろうか。そうは思えない。


「……犯人は前もって、生徒貸出用の鍵で合鍵を作っていたのかもしれない。美化委員なら可能だ」


 鍵の返却を忘れていました、とでも言っておけば、注意はされるかもしれないが事件性を疑われることはないだろう。鍵屋に頼めば、一日で合鍵が手に入る――と、そう思っていると、


「ないな」


 ほとんど間髪入れずに考えを否定されて、僕は面食らった。

 いいか、と森山が身を乗り出した。


「合鍵っていうのは、元鍵をもとに手作業で作るものだ。だから完全に同じものを作ることはできないし、合鍵から合鍵を作ればその誤差はさらに大きくなる。

 合鍵を持ち込んで、これで合鍵を作ってくれと頼んでも、仕事でやっている以上、鍵屋だって軽々しく首を縦に振ったりはしない。必ず、元鍵を持ってこいと言うはずだ」

「で、でも、職員室から鍵を借りて、確実に足が付くよりは分の良い賭けだと思わないか。持ち込んだ鍵を元鍵だと言い張れば、少なくとも複製はしてもらえるだろうし――」

「それは無理だ」


 ぴしゃり、と森山は言った。


「職人技なんてなくたって、元鍵と合鍵を見分けるのは簡単なんだ。前者にはメーカー純正であることを示す刻印がしてあるが、後者にはない。それくらい違いがはっきりしていないと、複製を依頼する側も大変だろ?」


 そうなのか。知らなかった。

 ただし、勉強になったよ、とはプライドが邪魔をして言えなかった。


「……随分詳しいじゃないか」

「これくらいの知識は、常識の範疇っていうんだ」


 森山は得意そうにするでもなく、やれやれ、と頭を振った。

 イラっとくる。


「そこまで言うなら、お前もなにか意見を出せよ」

「考えてないわけじゃないぜ。例えば、ピッキングとかな。けど、数年前の改装工事で……ほら、図書室が西棟に移ったときにさ、西棟の設備のほとんどがロータリーディスクシリンダーに変わってるんだと」

「へぇ……」


 なんとかシリンダーというのはよくわからないが、森山の口ぶりから察するに、ピッキングが難しいか、不可能な鍵なのだろう。これ以上無知を晒すのも癪なので、適当に相槌をうっておく。あとでネットで調べておこう。


「それに、お前も見ただろ。生物室のドア」

「……そうか」


 思い出す。生物室は二階の南側、しかも袋小路にあった。対極の北側には職員室があるが、これは余談だ。


「三年の……E組だったか、教室からあの辺りは丸見えだったな」

「ああ、度胸でどうにかなる問題じゃない。あの場所でピッキングなんて――」


 そのとき、テーブルの上に出しっぱなしになっていた森山のスマホ画面がパッと点灯し、着信音とともに振動し出した。

 無言のままサッと伸びてきた森山の手が、画面を隠すようにスマホを掴む。

 一瞬だけ視界に入った画面には、『母』の字が見えた。


「すまんが少し、席を外すぞ」


 僕が頷くか頷かないかのうちに、森山は席を立っていた。そのままトイレ方面に移動して、スマホを耳にあてる。

 それ以上見ているのは監視しているようでばつが悪いと思い、身体の向きを正面に戻したが、無意識に耳を澄ましてしまう。


 しかし、店内にいるほかの客同士の会話に混じって聞こえてくる森山の声は、ぼそぼそしていて聞き取りにくく、森山が席に戻ってくるまでに数単語しか聞き取れなかった。


『悪かったよ』

『大丈夫』

『なんでもない』

『心配しないで』

『すぐ帰る』


 本人のイメージと違って、森山の母親はかなりの心配性らしい。


「悪いが、俺はここまでだ。もう家に帰らにゃならん」


 言われて、店内の時計を見る。早いもので、短針は7の字を少し過ぎていた。

 残業がなければ、父もとっくに帰っているだろう。風呂も沸いてなければ、夕食の用意もない、隙間風の吹くあの家に。


 ――あの人は、どう思っただろう。


 言い訳を考えるべきか悩む僕の目の前で、森山は珍しく焦った様子で荷物をまとめている。その表情は心なし、強張って見えた。

 この時間だ、門限を過ぎていてもおかしくない。怒る親の前で、いたたまれない表情で俯いている森山を想像すると、なんとなく笑える。


「お前の親、放任主義ってイメージだけど、その様子じゃ結構怖そうだな」


 思わず、そんな台詞が口を突いていた。

 はた、と森山の動きが一瞬止まる。それからまた、ゆっくりと動き始めた。


「そんなんじゃないんだが……。俺の家、母親しかいないから」


 予想もしていなかった返答に、僕は動揺した。

 僕の家も片親だが、それを言ったところでどうしようもない。だからなんだという話で、森山の苦労を理解した気になるのは愚かなことだ。その家にはその家の苦労がある。勝手に自らの境遇と重ねるのは、森山に失礼だ。


 そんなことをぐるぐると考えていると、結局僕はなにも言えなかった。

 スクールバッグを背負った森山は、そんな僕をどう思ったのかフッと笑って、


「明日は、栄島に会いに行くぞ。それから3年E組の備瀬先輩にも」

「あ、あぁ……、そうだな」


 受け答えがぎこちなくなっているのが、自分でもはっきりわかった。

 落ち着け、ちょっと他所の家庭の事情に踏み込んでしまっただけだ。その気はなかったんだから、このままやり過ごせば済む話じゃないか。

 と、そんなことを考えていた時だった。


「それにしても津垣――」


 冷めた声。


「本当に俺のこと……なにも知らないんだな」


 森山はそう言って、僕にくるりと背を向けた。

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