第参拾玖章 柳生の黒幕

「え…ええい!」


 迫上さこがみ新右衛門しんえもんが気合を発する。

 次の瞬間には巨人は消え失せ、仕明しあけ吾郎次郎ごろうじろうが驚きとも感心とも取れる表情を浮かべていた。

 流石に尾張柳生の精鋭、七人衆に名を連ねているのは伊達ではないらしい。

 一度は気圧されてしまったが窮地を自力で打破する気概は失っていないようだ。


「ほう、流石は尾張柳生の高弟よな」


「取り消して貰おうか」


「ん?」


 憤怒の新右衛門に吾郎次郎は首を傾げる。


「俺を相手に寸止めで戦うだと? 虚仮こけにするにしても言葉を選べ!!」


「さよか。旧知の仲ゆえ怪我をさせては悪いと気を使ったつもりであったのだがな」


「貴様!」


 吾郎次郎の挑発に新右衛門が刀を抜き放つ。

 途端に悲鳴が上がり酔客達が二人から逃げ出した。

 だが二人の勝負を見物しようと残った者も少なくない。

 既に十重二十重と人垣が出来ていた。


「許さぬ! 二度と化けて出られぬよう我が剣を持って貴様の未練を断ち切ってくれよう!」


 新右衛門の口上に吾郎次郎が苦笑を浮かべた。


「おいおい、ワシは亡魂ではないぞ。確かに仕明吾郎次郎は死したが輪廻の果てにこうして転生してござる」


「ならばもう一度閻魔の元へ送ってくれるわ!!」


 新右衛門は三尺の剛刀を顔の前にて立てた。

 柄を握る手が顔を隠して目の動きを吾郎次郎に悟らせぬようにしている。


「こりゃいかん。相手を完全に怒らせてしもうたわえ」


 困った様子の吾郎次郎であるが、人に紛れて騒動を見ていたエヴァが“どの口が”と呆れていた。

 地狐の居場所を吐かせる為に逃げられぬよう挑発する手筈ではあったがやり過ぎだ。あれで怒るなというのが無理である。

 娘同然に可愛がっている地狐を人質にされた事は余程腹に据えかねていたらしい。


「構えろ、仕明!」


 新右衛門が叫ぶと野次馬も“そうだそうだ”と声を上げた。

 酔客達に取って突如始まった喧嘩は良い見世物であるようだ。

 するとおどけるように吾郎次郎が両手を広げて見せた。

 なんと腰に刀を差していなかったのである。


「きっ…きき、貴様ァ! 丸腰で俺の前に姿を見せたか!!」


 迫上新右衛門の左足が周囲の人々に振動が伝わる勢いで踏み抜いて怒濤のように吾郎次郎に迫った。

 剛刀が振り上げられ袈裟懸けに振り下ろされる。

 誰もが吾郎次郎の死を確信したが倒れていたのは迫上新右衛門であった。

 剣を振る手を掴まれ新右衛門の体が宙に浮くや、地面へと叩きつけられたのだ。

 全身が砕けるかのような激痛に顔を歪めて見上げると、吾郎次郎が己の太刀を手にしており、鼻先すれすれに切っ先を突き付けていた。

 柳生新陰流やぎゅうしんかげりゅうの創始者・石舟斎せきしゅうさい宗厳むねよしの秘技『無刀取り』である。

 柳生剣士に取ってこれ程屈辱的な事はあるまい。


「新ちゃんや、腕が落ちたな」


「俺の腕が落ちたのではない…貴様の腕が桁外れに上がっていたのだ」


 悔しげに睨みつける新右衛門に吾郎次郎は肩を竦めて見せた。

 生前の吾郎次郎ならまずしない仕草である。

 三百年という途方も無い年月は思いも寄らぬ経験を齎したのであろう。


「少なくとも御前試合でワシと渡り合ったお主は柳生剣士としての気迫が見て取れたわ。それにやはり腕は確実に落ちとるよ。何だ、そのたるんだ二の腕は? 素振りを怠っている証拠ではないか」


「ぐ……」


 敵に憐れむような目で見られて迫上新右衛門は顔を背けた。

 己の腑甲斐なさは己が一番良く分かっている。

 後進に吾郎次郎打倒を托して指導に専念していたが、衰えゆく自らの肉体に焦りも覚えていたのだ。

 しかし、後進の指導を云い訳に鍛錬を怠っていた事が今回の勝負の結果に繋がったといえよう。


「さて、地狐の居場所を教えて貰おうか?」


 新右衛門の前に再び巨大なる吾郎次郎が現れた。


「その前に地狐の肌身に触れてはおらぬであろうな。指一本触れてみよ。柳生七人衆、否、尾張柳生一門悉く一物を斬り落としてくれるわ」


 同田貫の業物が新右衛門の股間すれすれに突き立てられた。

 それに胆を潰した新右衛門は素早く退くと右手を出して吾郎次郎を宥める。


「ま、待て! 居場所は教えられぬが指一本触れてはおらぬ! 地狐は貴様を釣る大事なエサだ。常に監視の目に晒される不便はあろうが世話役を付け、三度三度の食事は与えておる」


「ほう、狙いはカンツではなくワシか」


 巨人が笑い、新右衛門は己の失言に思わず口を右手で覆った。


「今更隠しても意味が無かろう。柳生今連也いまれんや九尾つづらお戦の一度しか披露していない秘剣『野分のわき』を盗んでいる事から天魔宗とは無関係ではあるまい」


 吾郎次郎は新右衛門の鼻先まで顔を近づけてニヤリと笑う。

 新右衛門も釣られて笑うが引き攣れていた。

 恐怖のあまりつい愛想笑いが出てしまったのだ。


「異世界に転生したワシを何故なにゆえ狙う? 異世界くんだりまで追うほどワシが憎いか? それとも他に理由があるのかえ? 天魔宗と手を組み、連也斎様の名を騙り、お主ほどの男まで動員して尾張柳生は何を考えている?」


「れ、連也斎様を騙ってなどおらぬ。お、尾張正統、連也斎様の薫陶を受けた最後の弟子、近藤源之丞げんのじょう様に“連也斎様の再来である”と云わしめ、正統六代・厳延様の養子となり、名を今連也と改めたのだ」


「ほう、養子な。ま、今は今連也の事は良いわえ。ワシを狙う理由は何だ? 天魔宗に何ぞ唆されたのか?」


 新右衛門は答えない。

 三百年を生きるゲルダは、主が既に没しているものと思い、彼の菩提を朝夕弔っていたが、その清らかな祈りは時空を超えて彼を生涯かけて守り抜いていたのだ。

 ゼルダの前世、仕明吾郎次郎は越前の孤児で名は吾兵衛といった。

 男児でありながら女人の如しと評判を取る美貌であり、偶さか悪童に犯されそうになっていたところを仕明二郎三郎じろうさぶろうに救われる。

 聞けばまだ七歳であった吾兵衛は旅回りの役者の子であったが親と仲間を山賊に殺され、以来、一人で生きてきたというではないか。

 二郎三郎はその美貌のみならず利発な受け答えを大いに気に入り養子に迎えた。

 子のいなかった二郎三郎は吾兵衛に吾郎次郎の名を与え、かつて自分も修行をした直心影流じきしんかげりゅう道場に通わせたそうな。

 吾郎次郎は剣の才もあったようで道場で頭角を現すようになったという。

 

 話は飛ぶが、越前葛野かずらの藩は紀州藩ニ代藩主徳川光貞の四男・松平頼方が十四歳の頃に綱吉から越前国丹生郡三万石を与えられ大名に取り立てられた事で生まれた藩である。

 実際には頼方は葛野藩には入らず代官が統治していたそうであるが、和歌山城にいた頼方の耳に葛野藩士・仕明家に面白き男がいるという噂が人伝に入った事で吾郎次郎の運命は大きく変わる事になる。


「噂に違わぬ美しさだな。余が葛野藩藩主・松平頼方である」


「仕明吾郎次郎に御座います」


 お忍びで葛野藩に現れた若き藩主は想像以上に美しい吾郎次郎に暫し見惚れた。

 まだ前髪のある十四歳同士である。藩主と一藩士の子という身分の差はあれど友誼は育まれ、やがて頼方が熱心に口説くようになり何時しか一夕いっせきを共にするようになったという。

 後に紀州藩主、そして八代征夷大将軍となる徳川吉宗との出会いである。









「いや待て。お主がワシが死ぬ前後と変わらぬ年格好であるという事はだ。上様もまた御存命か?!」


「吉宗様は貴様が死んだ翌延享二年に将軍職を家重様に譲られて大御所となられた」


「そうか。では益々分からぬな。尾張は何を目論む?」


「大御所となられたが家重様は貴様も知る通りご病弱、実権は握られたままだ。それではまつりごとが腐敗すると危惧する御方がおられるのだ」


 新右衛門の言葉に吾郎次郎は尾張の背後にいる人物に思い至った。


「宗春様か…」


 尾張徳川は六十二万石である。

 しかし木曾を領有し、新田を開発した事で加賀前田家百万石を凌ぐ財力があった。

 名古屋城の天守の高さは五十六メートルもあり、江戸城、大阪城に次いでいた。

 後に大阪城も江戸城も焼失して名古屋城の天守が日本一となる。


「尾張名古屋は城で持つ」


 と謡われ誇りとされてきたものである。

 三都の中で城としての権威を最初に失ったのは大阪であった。

 幕府の官僚が城代として常駐する主無しの城に落ちたのだ。

 残る江戸城が尾張の人間にとって目の上のタンコブであった。

 長らく対抗心に駆られていたが、不意に尾張が報われる機会が訪れたのである。

 七代将軍・家継が就任して間も無く僅か八歳で夭折したのだ。

 早過ぎる家継の死に御三家は時期将軍を争う事となる。

 尾張徳川は御三家筆頭の継友に指名されるものと思っていたが紀伊徳川の吉宗によりその座を攫われ、尾張は打ちのめされたのだ。

 吉宗の八代将軍就位は継友、そして弟の宗春兄弟に怨みを遺す事となった。

 天下の尾張が紀伊の下位に就かされたのだ。

 以来、継友・宗春兄弟は吉宗に刺客を送り続けたのだが、それを水面下で押し留め、屠ってきたのが仕明吾郎次郎であった。

 吾郎次郎は主にして最愛の友の御盾みたてとなって守り抜いたのである。

 それは継友が没する享保十五年まで続いたが、宗春が尾張藩主を継いだ事で終わったと思っていたのだ。


「しかし宗春様は未だに上様を恨んでおられるのだな」


 宗春は吉宗が死ねば病弱の家重を退けて将軍になれると思っているのか。

 或いは家重を操り、宰相となるつもりなのかも知れぬ。


「宗春様の背後に天魔衆がいるのか、天魔衆の背後に宗春様がおられるのか、はたまた手を組まれたのか、今はどうでも良い。今一度訊く…地狐はどこにおる? それ一点のみを聞きたい。さあ、答える意思、有りや無しや」


「うぐぅ……」


 尾張、そして将軍家の状況を知った吾郎次郎の目は据わっていた。

 異世界に転生して三百年、再び政争に巻き込まれた事で怒りが沸いてきたのだ。

 新右衛門はその目を見て、一瞬でも答えに詰まれば体の一部が飛ぶと悟る。

 だが地狐の居場所を話せば仲間内での立場が無くなる事もまた分かるのだ。


「ち、地狐は…」


「お爺様! そんな所で尻餅をつかれて如何なされましたか?」


 この声は長男・直太郎の子である新太郎のものだ。

 地獄に仏、とはこの事だと振り返った新右衛門は大口を開けて固まった。

 そこにいたのは十歳前後ほどだが利発そうな少年だ。

 幼いが眉はキリッと上がり口元は凜々しく結ばれている。

 だが、それだけではなかった。


「何故、そやつがここに?」


 わなわなと震えながら指差す先には異彩を放つ女がいた。

 異様なまでに高い身の丈であり、その身に僧衣を纏っている。

 云わでもの事であるが地狐であった。

 地狐は新太郎に手を引かれていた。引いているのではない。引かれているのは地狐の方である。


「地狐、無事で何よりであるが何があった?」


「いえ、私にも何が何やら」


 困惑気味の地狐と手を繋いだまま新太郎が誇らしげに云う。


「お爺様のお云い付け通り、当屋敷にて地狐様の護衛を致しておりましたところ、宗春様がお越しになられたのです」


「何と、宗春様が?! そ、それで如何致した?」


 どうやら地狐は異世界から日本に戻され、迫上邸にて軟禁されていたらしい。

 宗春は彼女が吾郎次郎から娘同然に可愛がられていると知るや、お忍びで訪れ、有ろう事か吾郎次郎に辛酸を嘗めさせる為だけに地狐を犯そうとしたそうなのだ。

 そこへ新太郎が参上する仕儀と相成った訳である。


「地狐様に無体をなされようとしていたので、それを成敗・・し、母上の助言に従い、この異世界へ渡る術を用いて地狐様と共にお爺様とお父上を頼ったので御座います!」


 地狐の胸にも届かぬ少年は堂々と云ったものである。


「おい、待て。む、宗春様を成敗したと申したか?」


「はい! 子供の私でも宗春様のなさりようが悪い事なのは分かります! なので袋竹刀にて何度も打ち据えまして御座います」


「ほう! 流石は柳生新陰流の新鋭! 我が娘同然の者を救い出してくれた事、この吾郎次郎、礼を云わせて貰うぞ」


「いえ! 武士の子として当然の事をしたまでです!!」


 はきはきと答える新太郎に吾郎次郎の怒りはすっかり消えて失せていた。


「いや、新ちゃん、いやさ、新右衛門殿、素晴らしきご令孫をお持ちでござるな。立派な後継者が育って迫上家の未来は安泰であるな」


 返事が無い。

 訝しんで見てみると新右衛門は腰砕けに倒れて口から泡を吹いていた。


「お爺様? どうされました?」


 新右衛門の孫・新太郎は訳が分からず首を傾げていた。

 後に地狐と夫婦となり、バオム王国にて新たな柳生の庄を興す事になる男の堂々たる異世界入りである。

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