第56話  人類はこれまで一度たりとも龍を退けたことすらなかったのだ




 アレクセイは混濁した意識、夜の闇よりも更に深い海の底のような暗がりへと落ちてゆく。

 何かを見ていた。何かをしていた。それが分からない。


 ――生まれてきてはならない存在だ。


 そう言われた気がした。


 違う!


 否定する。それでもアレクセイの心が染め上げられるかのように、不安と怯えに染まっていった。それはサーシャの抱える恐怖とよく似ていた。


 なぜ、生まれという誰にも選べないことで、禁忌なんて決めつけられなければならないんだ。

 なぜ、そんな誰かの偏見で、自分が化物かもしれないと怯えなければならないんだ。


 何も知らないはずの他人の恐れが怖い。

 自分が自分であることが罪だと、そんな考えを受け入れてしまいそうになる。


 生まれてきてはならなかったのだと――。


 自分の体も見えないような真っ暗闇の中で、必死に手を伸ばそうとした。なにもつかめない。もがきあがく。


 意識と思考が不鮮明で、なにかと繋がっているような、なにかから無理矢理引き剥がされたような――そんな惑乱とした精神状態で、アレクセイはふと自分を呼ぶ声を聞いた気がした。

 それはライヤや白鉄騎士団、イゴールと冒険者達の声であり、シスターや神父の声もあった。全部自分に優しさをくれた人達だ。

 そしてサーシャが自分を呼んでくれている気がした。


 でも、いない。どこにもいない。サーシャの姿が見えない。


「……サーシャが、いない……」


 その言葉と共に人形がうっすらと涙を流した。



「ここに、いる、よ……」


 神鳥と共に落下したサーシャが応えるように立ち上がる。

 守る。ただそれだけの意思をもって、悠然と迫る龍へと向き直った。


 その声がアレクセイの意識を引き戻す。小さく「サーシャ……」とまたつぶやいた。サーシャも「ん……」といつものように頷き返した。

 だが、二人は視線を合わせることはなかった。

 サーシャが龍へと踏み出す。


「……ん。キミと一緒にいる、よ」


 サーシャのその声に応えたい。

 だが、言葉にならない。応えられない。



 アレクセイの意識が覚醒するより先に、龍が口を開く。

 あの息吹を放たせるわけにはいかない。

 サーシャにはもう一つだけ切り札があった。

 首元の琥珀から、それは顔を出す。

 ついこの間、あの聖山を焼き尽くそうとした落とし火――白鉄騎士団が神様のポイ捨てと呼ぶ理の外の災害。

 それが焦点の定まらないような目を前に向け、口を開いた。

 同時にアレクセイの頭上の空間がゆがむ。その目が開いた。


 白い炎が龍に襲い掛かる。瞬間でその巨体全てが純白のオーラを纏ったかのように、輝きが揺れる。黒い炭と化したリュウガニがぼたぼたと大地におちてゆく。


 龍の目が眩んだ。

 この王者にとっては、理の外の炎でさえも軽い痛みに過ぎなかった。だが、ほんの何秒かだけでも龍の動きを止めるだけの力があった。

 再び、龍が目をあけた時、真っ先に天空の草花が倒れてゆく姿が映った。


 が、その後ろで、龍にとって最もおぞましい個体が立ち上がっていた。


 その手には妖精ドヴェルグが打った剣。


 右手で握り、左手は添えるのみ。

 上段へと、切っ先を天に向かって掲げ。

 耳の横で止める。


 毎日繰り返してきたその動作、その形。


 ――構えはすでに成されていた。



 龍が今まさにその息をもって、目の前の小さき命を焼きつかさんとする。

 小さな体が龍よりもほんのわずかだけ早く動く。


 <剣よ、俺の力をもってゆけ>


 この剣はマナを乗せるのではなく貪欲に吸い上げる。

 アレクセイの高密度のマナを吸い、刀身の光が蒼く閃き揺れる。

 踏み出したアレクセイの動きは、やはり綺麗だった。


 その一振りは――


 禁忌とされた憑依の力で鍛えられた魂により、


 技師ライヤの最高傑作がもつ人間を遥かに超えた力により、


 幼き頃より丁寧に<古い言葉>を教え続けたシスター・エカテリーナの教育により、


 “龍へと至る道”で未知の恐怖と向き合い、鍛えられたその精神により、


 白鉄騎士団の仲間達たちと共に訓練をしたマナの技術により、


 憧れの冒険者イゴールから託された最上の剣により、


 一つの型を愚直に繰り返してきたアレクセイ自身のたゆまぬ研鑽により、


 そして、


 <一緒に結び合おう――>


 今サーシャから<結ぶ>言葉と共に託されたマナにより――、


 それら全て――アレクセイのこれまで全てによって渾身となった。

 龍の顎へとその重いマナを吸った一撃が届く。



 龍が慟哭する。

 大きく開かれた口から悲鳴に似た叫びが、大空をつんざくように響き渡った。

 その巨躯がたった一人の人間が振るった剣によってのけぞる。


 誰もがその光景に息を飲んだ。

 龍の首が再び、自分に想定外の攻撃をしかけた相手に向いた。

 その長い喉の奥から威嚇音が鳴りだす。

 アレクセイがまた先程と同じように、再び剣を上段へと構えた。


 じりじりと焼けつくような緊張があった。

 騎士と冒険者達がその場に集まってくる。龍の目には気味の悪い虫が再び群れたように見えた。

 龍がほんのわずか、小さな人間の一歩よりも、さらにわずかな距離だけ後ろ足を下げた。


 それが後ずさりだとは誰も気づかなかった。


 次の瞬間、龍が大地を蹴り、跳び上がった。その場の者達の顔に最大限の緊張が走る。

 その巨躯が大空で翼をはためかせた。

 騎士と冒険者全員がマナを地に穿ち、アレクセイやサーシャを守りながらその強風に耐える。


 龍が遥か天空に向かって、これまでで最も大きな咆哮をあげた。

 空が大きくひび割れ、空間を黒い煙が覆う。


 そして龍はその黒く染まった空へと飛び去った。


 龍が去った――。


 そのことが分かるまで、少しの時間が必要だった。

 誰もが飲み込んでいた緊張を吐きだした。龍の飛び去った空を見て、その現実を噛みしめる。

 誰からということもなく、自然と天に向かって歓声が上がった。




 有史以来、人類は龍を退治どころか撃退したことすらない。


 あえてもう一度だけ繰り返す。


 人類はこれまで一度たりとも龍を退けたことすらなかったのだ――。




 ふらりとアレクセイは体を支える力を失って、その場にへたりこんだ。


「アレクセ、イ! アレクセイ!」


 サーシャが叫びながら、真っ先に這い寄った。その後ろで神鳥も顔をあげた。

 全員がその場に集まってくる。騎士も冒険者も、サーシャと<結ぶ>者達も。

 最後にライヤとイゴールがアレクセイの肉体をもってきた。

 魂が再び肉体へと戻り、ゆっくりと少年の目が開く。


 アレクセイはサーシャに抱きしめられたまま、ただ仲間達に頷いて見せた。今はそれ以上のことはできそうになかった。


 先程の歓声はこの小さな英雄への心配の言葉となり、やがて安堵のため息に変わり、そしてまた大きな歓声となって響いた。

 しばらく、響き続けた。

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