1. 無機物の墓場

 空は酷く青ざめていて太陽がいくら言ってもその根本的な不安は消え ないようだった。そんな天気を快晴などと言って喜ぶ人々と、かずらは 違った。たんぼ道を歩きながら同情すべき空を仰ぐ。初夏。遠くに見え る森や足下の草木は、角膜に優しい緑色を発してかずらを歓迎する、或 いは敵ではないと訴える。かずらは歩を進める。少し汗ばんできた。

 真っ平らな土地、田畑を潰して適当な区画を作り、似たり寄ったりの 一軒家、または安アパートを並べたのが柚ヶ丘ニュータウンだった。そ の中心にはJR柚ヶ丘駅があり、かずらは駅から徒歩十分程の所にある アパートに住んでいた。駅と逆方面に十分歩けば住宅地は鋭利な刃物で 切断したように途切れて、その先には未開発の田畑や森、小さな山が広 がっている。

 かずらは額の汗を拭って進み続ける。アスファルトこそ敷いてあるが、 両サイドから木々や植物が浸食しており、車一台通るのがやっとという 小径だった。左側は小山で、もう少し歩けば登り道に出る。

辺りに人気は無い。


 小山の入り口に到着する。かずらは迷う事なく土と雑草と微生物でいっぱいの道を登り始めた。木漏れ日が周囲に遺棄されたペットボトルや 駄菓子の袋を照らす。風が出てきた。ざあざあと音がして、かずらの頭上で枝葉が歌い出す。しかしかずらはそんなものに興味は無い。

 五分程きつい山道を登ると、そこはちょっとした平地があり、柚ヶ丘 ニュータウンを見下ろせる丘になっていた。


 ここが墓場だ。ただし、無機物たちの。


 冷蔵庫、扇風機、ストーブ、オーディオ機器、バイク、自転車、家具、 テレビ、パソコンといった不用品が、一面に放棄されていた。ここはそ ういう場所である。要らなくなった物を捨てる、それだけの場所。

 捨てられた彼らは泣いているだろうか? 捨てた人間を恨んでいるだろうか? せめて再利用されたいと希求しているだろうか?

 今の所、かずらにとってそれは問題ではない。ざっと辺りを見回して、 新しい物が増えていないか確認する。灰色の冷蔵庫の上にある数脚のパ イプ椅子は、昨日は無かったはずだ。他にも埃まみれの空気洗浄機やネックが折れたぼろぼろのギター等が新たに仲間入りしていた。しかし、 かずらの目に止まる物はないようだった。諦めて帰ろうかと思い、何気なく手前の小さな冷蔵庫に手を付く。すると足場が悪かったのか冷蔵庫はがくんと揺れ、それとは別に、金属音を鳴らした。

 中に何か入っている。

 そう直感したかずらは、黄ばんだ冷蔵庫を開けた。

「十八番目だ」

 かずらは呟くように言って、ポケットから軍手を取り出し装着した。 そして中に入っていた白い電子レンジを両手で引っ張り出し、そのまま 墓場を後にした。

 空は相変わらず青ざめたままで、白い溜め息を幾つも吐き出していた。


 かずらが住むのは三階建てアパートの二階だった。特に希望した訳で はないが角部屋で、日光がよく入るワンルームだ。

 廊下で一度戦利品を置き、軍手を外して部屋のドアを開けた。電子レ ンジを狭い玄関に引きずり込んで、雑巾で表面を拭いてやる。冷蔵庫に 入れられていた為か、十八番目はそこまで汚れが酷くなかった。とはい え内部は油汚れがあるので、洗剤を駆使して完璧に磨き上げた。この作 業中、かずらは時が流れるのを忘れる。或いは、彼の中の時間軸が歪む。 直線であるべき物が曲線になり、時には円になる。


 一通り磨き終えて満足すると、かずらは北側の壁に目を遣った。 大小様々な電子レンジが十七個、壁一面に積み上げられていた。 どれもぴかぴかに磨き上げられており、どれもコードは引き抜かれて

いた。大きさもメーカーも製造年も違う電子レンジはしかし、かずらの 手によって一つの美しいオブジェとして生まれ変わっているようだっ た。

十八個目を窓際の一角に設置する。それから南側、即ちベッドまで後 退し、十八個のそれを眺める。

 悪くない。

 かずらは満足してキッチンに向かった。冷蔵庫からよく冷えたミネラ ルウォーターを取り出して、カップに注いで飲む。冷水は喉を通る時に かずらに何か言いたげな刺激を与えてきたが、かずらはそれを無視した。 食欲は無い。この部屋に体重計は無いが、この三週間でかなり痩せたよ うに感じる。ジーンズのウエストが緩くなり、ベルトの穴を一つきつく しなければならなかった。心なしかあばらも浮いてきたように見える。 だがかずらは気にしなかった。自分の体重が減ろうが増えようが、身長 が伸びようが縮もうが、この脳味噌は変わらないのだから。

 窓から差し込む日光が少し黄ばんできた。 かずらはベッドに身投げし、窓から見える景色が色彩を変えていくのを黙って見詰めていた。時折寝返りを打って、右側に見える十八個の電 子レンジを一つずつ精察した。


 悪くない。

 ちょっとした満足感と達成感に身を任せ、かずらは目を閉じた。

 遠くで犬の遠吠えが聞こえた。深更。全く、完璧に静かな夜だったの に。かずらは少し残念な気持ちになる。しかし別に彼は静寂を求めて生 きている訳ではない。

暗闇の中でかずらは横たわって耳を澄ませていた。完全なる夜だった。


 しかし彼がこうして横になっている間も、人類は生まれたり死んだり 増えたり減ったりを繰り返していて、かずらはそれに興味を持たない。 その是非は問われるべきではない。関心の無さ。知ったことか。

 初夏とはいえ夜はまだだいぶ冷える。この部屋も少し肌寒い。かずら は薄い布団にくるまって目を閉じた。まぶたの裏に光る物体はどんな星 座よりも美しくて嘘っぱちだった。睡魔はまだかずらを襲わない。かず らは少しだけ苛立つ。窓の外がうっすらと明るくなる瞬間が、彼は大嫌 いだった。


 また、犬の鳴き声が聞こえた。抗議のように、或いは返答のように、 かずらが壁を蹴る。木造のこの部屋は、それだけで恐怖の余り縮こまっ てしまう。臆病者。この臆病者め。

 何事も肝要なのはリズムだ、とかずらは思う。呼吸がそう。睡眠もそ う。日常何気なく紡ぐ言葉もそう。人間には決まったテンポがあって、 それをスローダウンさせると、もう別の人間になってしまう。果たして かずらの所謂『生活』がリズミカルかというと、答えは否だ。そもそも これはかずらの幾つかの持論の一つで、根拠など何も無い。



 朝十時に起床すると、枕元の携帯電話がメール着信を知らせる点滅を 繰り返していた。半覚醒のまま目を擦り、携帯を開く。大学の同級生か らだった。


『おまえ最近どうしてんの? 全然学校来ないけどどっか具合でも悪い 訳? 無事なら連絡しろよな』

 

 読み終えるとかずらは携帯を閉じた。右手に持ったまま、それを思い 切り投げつけたいという欲求に駆られる。しばし逡巡した後、結局かず らは携帯を電子レンジ、正確には昨日収穫してきた十八番目の中に入れ た。


 ぼんやりした頭でシャワーを浴びる。食欲はまだ無かったが、それで も何か口にした方が良いだろう。そう思ったかずらはキッチンの炊飯器 を開け、茶碗に米をよそった。そして冷たいミネラルウォーターを注いで、そのままほとんど噛まずに嚥下した。 低いテーブルの前に座り、目の前のオブジェを眺める。 三週間前から集め始めたこの電子レンジの山。かずらは別段それをどうこうしようとは思わなかった。目的も無かった。目的なんて無い方が 良いように思われた。彼はただ集め、磨き、積み上げるだけだ。

 そう、三週間前。

 正確には二十三日前に、かずらの頭の中で何かが音も立てずにはじけ た。それは例えば長年蓄積してきた怒りが爆発したとか、或いは何か事 件があってそれがかずらのキャパシティを越えたとか、そういう類では なかった。ただ、はじけたのだ。何がはじけたのかは、かずら自身にも 分からない。唯一分かるのは、はじけた後に何も、何一つ残らなかった という単純明快な事実だけだった。


 かずらは空っぽになった。いや、元から空っぽだったのかもしれない。

人間、最初は皆空っぽなのかもしれないと、かずらは考えた。それが 時を経て紆余曲折の過程で様々な物を取り入れていき、それらが内部で 結実し、もしかするとそれを人格と呼ぶのかもしれない。そう考えると 今の自分には人格などというものは無い。ただの空っぽの存在だ。

 思考がそこまで辿り着いた時、かずらはあの墓場に居た。そしてそこ で口を開けている電子レンジを見て、気が付いたら部屋まで持って帰っ ていた。勿論かずらの部屋にも電子レンジはある。だが、『墓場』の『不 要品』達とは、明らかに別種の物だった。何しろ彼らは不要なのだ。

 別に自分自身を不要な人間だとは、かずらは思っていなかった。彼の 問題はそんな所にはない。


 問題は、何の問題も無いという事実だけだった。


 自分の見る物、聞く物、触れる物、嗅ぐ物、味わう物がまるでテレビ の中の出来事のように思われ始めたのがいつだったか、かずらは覚えて いない。かずらはそれらを少し離れた所から傍観していて、気付いたら 生まれてから二十年が経過していた。それすらもDVDを倍速で見るような感覚だった。まるで映画を見るように。ただし、つまらない所は飛 ばせない。

 鈍磨する感覚。はじけた人格。空っぽの自分。

 かずらはこれらを厭世的に捉えたりはしない。これは単なる事実であ って、それが自分というものなんだから、上手く折り合いを付けて付き 合っていけば良いだけの話だ。

 電子レンジの山は、別にかずらに安らぎや潤いを与えてくれたりはし なかった。拾い磨き積み上げる事でかずらは満足し、積み上がった物に 対し『悪くない』とは思うものの、それ以上の感情は持たなかった。そ れでも今日も彼は『墓場』に赴く。理由など無いし、無い方がかずらにとっては楽だった。彼は世の中の理由付けや人間の行為の動機という物 に辟易していた。理由なんて無くていいじゃないか、とかずらは思う。 やりたいからする、やりたくないからしない、極めてシンプルじゃないか、と。


 勿論それでは社会は回らないし、それを実践すれば彼自身もまともな 社会生活は営めないだろう。大学も留年するかもしれないし、この状態 が続けば就職はおろか卒業も出来ないかもしれない。しかしそんな予期 不安は、かずらを揺さぶったりしなかった。何とかなる、等と楽観的に 捉えている訳ではない。ただ、今この瞬間を少しでも楽に生きたいとい う切実な願いがあるだけだ。

 全てがテレビの中の出来事のようで、現実感が無い。

 自分が何をしようにも、世界はぶよぶよとした厚い膜に覆われていて、 触れてみようとした所で世界それ自体には届く気がしない。だから、世 界にどう接して良いかが分からない。何をどうすればいいか分からない。

 しかしそれはこの二十年間不変の事であって、二十三日前に何かがは じけたところでそれは変わらなかった。

 何がはじけたのか、それもまた、やはりかずらにとっては問題ではない。

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