21回目
マスクさんは目元を笑わせながら、洗い物をしているぼくの横にやってきた。
「私がやろうか?」
「ん~? いや、今日はぼくが料理当番だから。マスクさんは休んでていいよ」
「……う~む」
なんだろう。ちょっとむくれてしまった。
***
次の日、マスクさんはまたも目元を笑わせながら、フローリングワイパーをかけているぼくにつきまとってきた。
「……どうしたの?」
「私がやろうか?」
「……今週はぼくが床当番だから、大丈夫だよ。それより、トイレはやったの?」
「むむ……」
「では、そちらを先にお願いいたします」
***
次の日。
「私がやろうか?」
お風呂を洗っていたぼくは、背後からいきなり声をかけられたせいで「うひ」と素っ頓狂な声をあげてしまった。
振り返ると、マスクさんが例のごとく目元を笑わせながら、ぼくの背後に立っていた。
「もう……。驚かせないでよ」
「私が代わりに、お風呂掃除しようか?」
「……マスクさん。最近変だよね。なに企んでるの?」
「え。いやあ……」
そらとぼけるマスクさんだけど、目が泳ぎまくってます。
「やっぱり、なにか企んでるでしょ?」
ぼくの正視に耐えられなくなったのか、マスクさんは「ちぇ」と観念した様子。
「言うと、ぜったい協力してくるから言いたくはなかったんだよね……」
そう言うと、マスクさんはお風呂場からリビングのほうに行ってしまった。だけど、すぐに戻ってきている様子。なにやら、「ジャラジャラ」と音もさせている。
戻ってきたマスクさんは、「これ」といって金色の缶を差し出した。
「ああ。『お手伝い貯金』ね……」
「お手伝い貯金」とは、ぼくたちが同棲を始めるにあたって取り決めた制度。家のことはそれぞれ日替わり、週替わりで担当しているんだけど、それが「どうしてもできなくなった」とき、「なんだか気乗りがしない」とき、五百円と「ある言葉」を代償として代わってもらえるという制度だ。
ちなみに、同棲を開始してからのこの八カ月ほどの間、ぼくは一度もこの制度を利用したことはなく、もっぱらマスクさんだけが貯金用のこの缶を鳴らし続けている。
「これがどうかしたの?」
「洋食ビュッフェに行きたくてさ。職場の先輩がすごいおいしいって」
「ああ……。このお金で行きたいんだ?」
マスクさんはこくんとうなずく。
ぼくは貯金箱のふたを開けて中身を見てみた。百円玉と五百円玉が混在しているようだけど――。
「……あんまり入ってないね」
「数えたらちょうど一万円だった」
「そのビュッフェ、いくらなの?」
「税抜き四千八百円、税込み五千百八十四円」
税込み価格までをそらで言うとは――よほど行きたいんだな。
「行けるじゃん」
マスクさんは「ひとりで行くわけないでしょ」と言って、ぼくを指さした。
「なるほど……。一万と五百円が必要になるんだね……。それくらいなら普通に出すよ?」
「いや、この『お手伝い貯金』だけで行きたい。じゃないと、負けた気がする」
「なにと勝負してるのさ」
「ヤツら」
「……判らない」
ぼくは背後――お風呂場に目を遣る。実のところ、あらかた掃除は終わってるんだけど……。
「あ~あ。今日はなんだかもう疲れたな」
ぼくの言葉にマスクさんはキョトンとしたけど、すこしするとその意味を悟ってくれたのか、目を輝かせた。
「私がお風呂掃除、しようか?」
「うん。お願いできるかな」
「ではでは、これを」と言って、マスクさんは「お手伝い貯金」の缶をぼくに向けてくる。
ぼくたちはリビングに場所を移し、「お手伝い貯金箱」へ五百円を投入した。ぼくからのお願いはこれが初となる。
「では、代わりにお風呂掃除、お願いします」
「……」
あれ?
マスクさんは缶を抱えたまま、動こうとしない。彼女は意地悪そうな目をして「まだあるでしょ」と言ってきた。
「あ! ああ……言うの?」
「一応、ルール。言ってね」
ぼくは、なんだかそうしなければいけない気持ちになって、姿勢を正す。
「……マスクさん、好きです」
ぼくたちが決めた、「お手伝い」をお願いする代償。それは、五百円と「相手に好きと伝えること」――。
それでも、マスクさんは動こうとしなかった。
「こういうときは名前を言ってもらいたいもんだなあ……」
「ああ、うう……。慣れきっちゃってるから、逆にぼく、名前で呼ぶの恥ずかしいんだよね……。今回は忖度したので……お許しいただけませんか?」
「仕方ない。次の『お手伝い』のときには頼むよ」
「はい」
いつのまにか立場が変わっちゃってる。
まあでも、「好き」を聞けたからなのか、ビュッフェに「ヤツら」に負けずに行けるからか、あるいはその両方なのか、マスクさんが嬉しそうにしててなによりです。
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