狂乱のニアハ〜蛇蝎の如く嫌われた殺戮兵器、赤ん坊に戻された所を聖女に拾い育てられて救済される。〜
森メメ
プロローグ
戦乙女ヴァレハンディーネ
地面をきつく握りしめる。
砂利を吐き出して顔を上げると巨大な氷柱が頭上を掠めた。胃を吐き出しそうになりながらも、続け様に飛ばされる氷柱を身を捩ってかわす。
袖の切り込みが冷気で固まっていくのが酷くゆっくりと感じられた。対氷の革鎧が無ければ身体の芯まで凍り付いていたに違いない。
役目を果たしたかのように垂れ下がって、ぶらぶらと揺れる革鎧の肩ベルトを押さえながら男は大きく息を吐いた。その白い靄が空に溶け込む前に体を起こす。
敵、ベルへザード軍の兵士の魔法で最も危険なのは氷魔法だ。
奴らは動きが鈍った所に追撃する戦法を多用するため、自分を含む多くのダテナン兵士は装備に対氷の革鎧を選択した。尤も、ここ数年は魔法効果の付与された装備品が不足しているため、最前線に送られるダテナン兵の装備で十分な対氷の効果を発揮するものは殆ど無いと言っても過言ではない。
心許無い命綱だった革鎧を脱ぎ捨てて、味方の壁張りが起こした土壁に身を隠したまま戦況を確認する。
酷い有様だった。
崩れ落ちた土壁が水と混ざり合ってぬかるんだ地面が作り出されており、そのあちこちに両軍の兵士が転がっている。
度重なる爆音にやられたせいか、全ての音が何重にも膜が張ったようにくぐもって聞こえる中、錆びついた車輪が火花を散らして回っているような音に意識が吸い寄せられる。泥から飛び出たベルへザード兵の装着魔具が、裂けた内側から火花を散らしていた。
空を切る音と同時にすぐ近くに刺さった氷の礫に、我に返って意識の手綱を握りなおす。軍は互いに消耗しているが、飛び交う魔法の量でこちらが劣勢なのは一目瞭然だった。
(何故撤退の命令が出ないんだ)
まともな軍師を失って状況は悪くなる一方だ、と地面に苛立ちを叩きつけた。
幾つも張り巡らされた土壁の内、外れの土壁が氷の礫で攻撃されているのを横目に、数ミュル右後方から炎の玉を撃ち出している隊に向かって声を張り上げる。
「革鎧がもうダメだ。そっちに死体はあるか?余ってたら寄越してくれ」
炎魔法使いの補助兵らしき青年が横から顔を出して返事の声をあげようと口を開けた瞬間、巨大な氷塊が土壁ごと彼らを押し潰した。
心臓を鷲掴みにされたような緊張が走って身が竦む。
「っ‼︎壁張りは何してやがる」
自分を落ち着けるように悪態をついて呼吸を繰り返す。これは自分が声をかけたせいではない。後方自陣から土魔法で戦線を援護する壁張りの連携が取れていないせいだ。
炎魔法使いは真っ先に狙われる。炎魔法使いを守るのは壁張りの役目であり、壁張りは敵の攻撃の瞬間に土壁の強度を上げなければならない。この数日ほど悪態をついた日はないだろう。一昨日エイザール軍師が高熱で亡くなってからは、こんな調子だった。
悪態を投げつけるように自陣を振り返ると、自陣側で乙女が集められているのが見えた。
戦場に不釣り合いな、白い服に身を包んだ褐色肌の女達の集団。
選ばれし乙女達が集まって行うのは、自分達の命を生贄とした召喚魔法だ。その召喚の儀に参加すれば勿論、例外なく命は無い。
その集団の中に、目印として贈った髪飾りを纏った栗色の髪を見つけて、周りの怒号や爆発の音が一瞬で静まった。自分の引き攣った荒い息遣いだけが大きく耳に響いている。
(そんなはずはない。マルシエは予備乙女のはずなのに。)
幼い頃から共に過ごした彼女の柔らかく微笑む顔がよぎって、鈍い音を刻む心臓が、滲み出るような焦りと共に徐々に速度を増していく。
石でも詰め込まれているかのようにまともに働かない頭を抱えている内にも、乙女達が燃えるようなエンダルン石を囲み、その周りをゆったりと回り始めたようだった。
土壁に何度も後頭部を打ち付けて、何か策はないのかと自問する。乙女達が召喚魔法を使わずに済むような策が。マルシエを助けるための何か。
(マルシエを連れ出して逃げよう。この場から逃げ出しさえすれば、後で考ええればいい)
震える足を抑えながら立ち上がり、青年ルシカは地面を蹴った。敵に背を向けて。
(だめだ、だめだやめてくれ。)
進みゆく儀式の様子に苛立ちと絶望が重くのしかかる。周りを取り囲む死体だらけのぬかるんだ泥に足を取られ、成す術なく沈んでいくような気がした。
一度見たことのある召喚の儀の光景は、それを傍観することしかできなかった罪の烙印として胸に刻まれている。
ある乙女の頬には涙が伝い、ある乙女の瞳には強い意思が、ある乙女の顔には後悔に包まれた痛々しい微笑みが、浮かんでいるのだろう。召喚に命を捧げる乙女も、それを見守る誇らしげな表情を顔に貼り付けた兵士の心中もまた同じく。
転がる褐色肌の同胞も、顔を仮面で覆ったベルへザード兵も、ただ瓦礫のように踏みつけて自陣を目指す。時折襲ってくる氷柱の方向へ雷を放って牽制しながら土壁に身を隠す。
回り舞う乙女達の歌声は増していき、ルシカの耳にも届いた。
「そんな、待ってくれ」
栗色の柔らかな髪を目で追いながら叫ぶ。
背後から氷柱を受けた肩は酷く熱かったが、振り向いた彼女の空のような澄んだ瞳と視線が交わってしばらく時間が止まった。
もう間に合わない。その冷静な思考とは裏腹に、裂けてバラバラになりそうな悲壮感を飲み込んだように肺が痛んだ。からからに乾いた唇が、震えながら彼女の名をなぞった。
振り返ったマルシエは、一瞬酷く悲しそうに顔を歪めたが、すぐに赤くなった目元を細めて微笑んだ。
地鳴りが地響きへと変わると、エンダルン石を中心に土が盛りあがり、乙女達はその中へと取り込まれた。
戦乙女ヴァレハンディーネ
巨大な土の塊は女性らしい上半身を形成し身に鎧を纏った。
生贄となった数多の乙女の顔が浮かぶ胸元、その形相はどれも苦しみに満ちていた。異形の神は、幾重にも重なった声で雄叫びをあげて前進を始めた。
「おっおい!お前!!」
守備兵の手を振り払い、戦乙女ヴァレハンディーネのムカデのような足に掴まったルシカは咽び泣いていた。
ルシカは足の上に登り身体を、マルシエを目指した。
ヴァレハンディーネは一気に進軍する。それは凄まじい勢いだった。
撃ち出される氷柱や氷塊をものともせず、巨大な手で振り払いながら鋭い爪でベルへザード兵の息の根を止める。女性らしさを残した異形の声が歌を口ずさんでいる。
ルシカに馴染みのある声が、まるでまだ彼女が意識を持っているかのように錯覚させる。
ベルへザード兵が一時撤退の合図を出しているのが見える。
前回の防衛戦でもダテナン軍が戦乙女ヴァレハンディーネを召喚したことによってベルへザード軍を撤退させることに成功した。
しかし皮肉にもルシカが護りたかったものはもうこの世から消えた。彼女が命を捧げたこの戦乙女ヴァレハンディーネと共に戦い、領土を守って死のう。そんな朧げな思考で敵の陣営に空虚な視線を向けると、ルシカの揺れる視界に見慣れない炎が燻っていた。
(ベルヘザードの陣営に炎?)
ベルへザード人で炎の魔力を持つ人間は稀だ。北に位置するベルへザードでは水や氷の魔力を受け継ぐ人間が多い。
ルシカは炎や土の魔力を持つことが多いダテナン人の中では珍しい雷魔法の使い手だが、それは移民である母の出身地が影響している。
揺れるヴァレハンディーネの背を伝って、やっと腰にたどり着いたルシカは注意深く炎を見続けた。向きを変えたヴァレハンディーネの背によって見えなくなるまでは。
しばらく猛威を奮っていたヴァレハンディーネだったが、突然苛立ったように歌う声を荒げて腕を振るった。しがみ付いていたルシカは戦乙女の亜麻色の髪を掴み損ねて地面へと投げ出される。
落ちていくルシカの視界では、ゆっくりと手から髪がすり抜けていくように見えた。
『ぎゅあああああ』
ルシカが地面に投げ出された瞬間、ヴァレハンディーネが苦痛に呻くような声をあげた。
叫びに追撃するように氷柱や氷塊が襲いかかるのを見て、ルシカはすぐに立ち上がった。右腕は力が入らなかった。肩甲骨から左手にかけて熱が突き抜けるように魔力を生成し、近くにいたベルへザード兵に雷を撃ちつけてヴァレハンディーネの元に走り寄る。
ヴァレハンディーネの正面には、先ほど敵陣営で見た炎そのものがいた。
炎を身に纏ったその男は、味方であるはずのベルへザード兵の頭を掴んだままヴァレハンディーネを見上げていた。
「ニアハに殺られるぞ、早く引け!!!」
ヴァレハンディーネに氷柱を撃ち込んでいたベルへザード兵が、同胞に乱暴に腕を掴まれながら後方へと逃げていく。周りをよく見ると、身体を焼かれたらしいベルへザード兵が転がっていた。
「ニアハ、やるべきことをやれ」
後方から音波増強で送られてきた声で、この炎の男の名が
そしてこの男が、例のベルヘザード軍の切り札なのだと理解した。
半神とまごう戦闘能力を持って生まれ、見境なく人を殺める戦闘狂。ベルヘザード兵として育てられたダテナン人の忌み子。どちらの民族からも恐れ嫌われるその男の心境を慮る余裕も、同情も、ルシカにはなかった。
腰ほどの長さの荒れた髪で顔の殆どが覆い隠されたその男ニアハは、手に掴んでいた頭を握りつぶす。
燃える炎の中で、暗い青の瞳がギラギラと異様な輝きを放っていた。
ニアハが突き出した手から液体のような炎が吹き出してヴァレハンディーネの肩当てを溶かした。
(あれは、山々を噴火させる神の怒りだ。)
ヴァレハンディーネが一際大きな痛みに喘ぐ声をあげた瞬間、ルシカの身体は勝手に動いていた。
走り出したルシカは冷静だった。
左手に熱を集めて男に向かって雷を放つ。
ニアハは数歩下がって軽々と避けると、近くのベルへザード兵の死体を蹴り上げた。
(馬みたいな脚力しやがって)
紙一重で避けて舌打ちをする。
ニアハは他のベルへザード兵と違って腹鎧(コルセット型の鎧)を装着していないからか、身のこなしが驚くほど身軽だった。
ヴァレハンディーネが怒りの声をあげながら男に爪を振り下ろす。
幾つもある声帯が重なった声で、絶えず歌は口ずさみながら。
嘲笑うように、それでいて無邪気な声も聞こえてくる。
空気が熱を持ちすぎて息をするのも痛かったが、潤う目は開いていても平気だった。肺がちりちりと焼けるのを感じながらヴァレハンディーネを護るため雷を放つ。
放った雷の一つがニアハの右脚に走ったのが見えて息を呑む。
(あの右脚は魔具だ。)
ニアハは恐らく右脚を持たないのだろう。脚に装着しているわけではなく脚代わりに魔具を使っている。一縷の希望を見出して手に魔力を込める。
動きが鈍くなったニアハは憎々しげにルシカを睨みつけた。
肌に感じる殺気は並大抵のものではなく、その全てを憎む獣のような視線に身震いする。異様に光る瞳の存在感と、全身に炎を纏っているせいで気が付かなかったが、ニアハは額から右目にかけて焼けただれた酷い火傷を負っていた。
その容貌に気を取られていた一瞬でニアハの姿は消え、ヴァレハンディーネが叫び声をあげながら地面へと倒れ込んだ。ルシカは一切目で追うことができなかった。
ヴァレハンディーネの下半身が何かで切断されて、爛れた皮膚からどろどろとした液体が流れ出している。視界が陰って一瞬遅れて頭上を見上げると、ヴァレハンディーネが手で何かを払った。吹き飛ばされたニアハの姿に、間一髪でヴァレハンディーネが奴を払い飛ばしたのだと理解する。
ルシカに気が付いたのか、または気まぐれか、ヴァレハンディーネは口元に無邪気な弧を描いて左手を地面に広げた。
「マルシエ?」
自分から発したとは思えない弱々しく震える声は、ぽつりと、誰に聞かれることもなく消えた。
ヴァレハンディーネの手に足をかけると、ゆっくりと手繰り寄せられる。ヴァレハンディーネの胸元には生贄となった幾つもの乙女達の顔があり、その中には苦悩の表情を浮かべるマルシエの顔もあった。
(僕を救ってくれたのか)
言葉に詰まってマルシエへと震える手を伸ばすルシカ。
刹那、爆発音と共に現れたニアハが突き出した魔槍はヴァレハンディーネの額を貫いた。
渦巻く炎を纏った刺突にヴァレハンディーネの身体は倒壊を始め、ルシカの頭上に土の塊が降り注ぐ。
そして最後にルシカを守るように丸められていたヴァレハンディーネの手が崩れ落ちた。
「マルシエ、もう大丈夫だ。僕がずっと一緒にいる」
(魔力を吸い取られるのは痛かったろう、苦しかったろう)
嗚咽を上げながら、固まったままのマルシエの顔を掻き寄せるように胸に抱く。
背後の気配に振り返ると、ニアハが氷のように冷たい視線を向けていた。身体を覆う炎とは正反対の、底冷えするような憎しみの色だった。
「諸共に死ね」
マルシエの前に立ち塞がるルシカの胸に、槍のようなニアハの義脚が突き立てられ、戦乙女の口ずさむ死の行進曲はついに鎮まった。
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