32話 知らない来客

「父さん、戻りました。」



アルスはそう告げてある一室のドアを開けた。

中へと進むアルスに続き、エレナも俯いたまま部屋へと足を踏み入れる。


書類に何かを書く万年筆の音が聞こえる。

父クリスがこの書斎にいるときは、仕事をしている時だ。


エレナはふと、子供の頃に遊んでもらおうとこの部屋に勝手に入って、父に怒られたことを思い出した。


アルスと二人でデスクの前に立つと、万年筆が止まった。


静かに、そして丁寧に万年筆が置かれ、父のため息が聞こえてくる。



「よく戻った。」



一言…たった一言だけ二人にそう告げた父は、葉巻に手を向けると、手慣れた手つきで火を起こし、煙をふかし始めた。


それを聞いていたエレナの心には、怒りよりも残念な気持ちが溢れていた。



(やはり父さんはあたしになんて興味ないのよ。)



しかし、エレナがそう感じていたのも束の間に、父から思いもよらない言葉がかけられる。



「無事で何よりだ。」


「…え?」



エレナはとっさに顔を上げ、父を見た。

煙をふかしながら、自分を見る父を。



「お前がいなくなって、私も母さんも心配していたのだ。アルスが探しに行ってくれると聞いて安心してはいたのだが…やはり元気な姿を見れたことが一番嬉しい。エレナよ、大事はなかったか?」


「え…は…はい…」



父の瞳は慈愛に溢れていた。

その違和感が少し気持ち悪く感じられる。


だが、それ以上にエレナの中で膨らむ感情があった。



「お前には申し訳ないと思っている。突然の婚約話など受け入れ難い話だ。」


「そ…そうです、父さま!あたしはまだ結婚なんて…!」


「わかっておる。だがな、エレナよ。相手はお前をたいそう気に入っておるのだよ。一度会ってみてはくれないか。確かにランドール家のためでもあるが…お前の気持ちも尊重したい。」


「そ…それは…」



エレナは困惑していた。

こんな父…今まで見たことがない。こんなにも優しく娘を思う父の姿など、これまで生きてきて初めてだ。


何が父を変えたのか。

それとも、元々こうであったが何か理由があって自分に厳しく接していたのか。


エレナは父に対して測りかねていたのだ。



「どうだ、エレナよ。」


「ど…どうと言われても…」



父の言葉に答えが見つからない。

そんなエレナを見て、横に立つアルスが口を開いた。



「父さん、エレナは長旅で少し疲れているんだよ。まずはゆっくり休んでからの方がいいんじゃないかい?」


「おぉ…確かにそうであった。お前の無事な姿を見て気が焦ってしまったようだな。ではエレナ、自室でゆっくり休むと良い。母さんも会いたがっていたから顔を見せてやれ。」


「は…はい…」



そう言われ、エレナがアルスに視線を向けると、兄はニコリと笑ってうなずいた。


エレナは小さく息をつくと、父に頭を下げて書斎を後にする。


ーーーいったい何を考えているのか。


薄暗い廊下を歩きつつ、父親の変貌振りを思い出してみるが、今のエレナには父の思惑について見当もつかなかった。


ただ、胸の辺りが少し暖かい。

今まで感じたことのない感情が少しずつ溢れている。



(そうか…あたしは嬉しいんだ…)



エレナは、自分が自然と口元で笑みを浮かべていることに気づく。


今だけは少しだけ足取りが軽かった。

そのまま、蝋燭の灯りが揺らめく廊下の闇の中へエレナは消えていった。





一方、書斎に残ったエレナの父クリスと兄アルス。



「こんな感じでよかったかな?」



そう告げるクリスの問いに答えたのは、目の前のアルスではなかった。



「うんうん、感動的な親子の再会だったね。」



いつの間にか、窓際の来客用の長いソファーに座っている男。


銀髪を携えたその青年は、わざとらしく目からこぼれる涙をすくって手を叩いている。


その反対側には、犬の頭を持つ人物が無言で座っており、その表情はどことなく不満げだ。



「アヌビスくんはどう思う?」



銀髪の男は目の前の人物にそう声をかけた。



「僕に振るなよ、クロノス。親子の関係がどうだとか、僕には関係ないし、興味もないね。」


「相変わらずつれないなぁ…まぁ、良かったんじゃないかな?彼女の中でも、君に対する考えが変わったようだし…ねぇ、クリス。」



そっぽを向くアヌビスを笑いながら、クリスへと顔を向けるクロノス。


対して、クリスは小さくため息をついた。



「お戯れを…私はあの子に対してなんの感情も持ちませぬ。これまでも…これからもです。エレナはランドール家の繁栄のためのコマに過ぎないのですから。」


「厳しいなぁ、クリスくんは!」



それを聞いて一人で大笑いするクロノス。

だが、その様子を見ていたアヌビスがイラ立ったように口を開いた。



「なんでもいいんだが…オーディンの奴は来ないのかい?あいつも主犯の一人だろう?なぜ、ここにいないんだ。」


「あ〜ごめんごめん、まだ言ってなかったね。オーディンはリシアの彼の件で少し動いてるから、今日は来れないみたいなんだよ。まぁ、僕がいればこの話は進むからいいじゃない!」



それを聞いたアヌビスは、舌打ちして不満を露わにした。

しかし、すぐに切り替えるように小さくため息をつく。



「まぁいいさ。僕は奴らに復讐ができれば、それで問題ないからね。」


「復讐ねぇ…アヌビスくんって意外と根に持つタイプなんだね。」


「どうしても許せないからね。本当はゼウスたちに直接してやりたいが現状では無理だからね…こいつを利用して奴らが加護を与えたプレイヤーたちに絶対に絶望を与えてやるんだ。」



アヌビスはそう告げながら、振り向かずに自分の後ろを指差した。


クロノスは睨みつけてくるアヌビスを見て、「お〜怖い」と笑いながらわざとらしく身震いしている。



「それにしても、アヌビスさまの後ろの彼はいったい何者なのですか?」



その会話を聞いていたアルスが、ふとアヌビスへ疑問を投げかけた。


アルスの視線の先には、水色の長髪を携えた精悍な男が立っており、臀部からゆらゆらと尻尾を伸ばしている。


確実に人間ではないとわかるその男は、アルスの言葉にも全く反応を示すことはなく、まるで人形のようにも見えた。


後ろの男に振り向いて、アヌビスは悔しげにその問いかけに答える。



「こいつは奴らの仲間でね。ある時、僕の国で好き勝手やってくれたから、ムカついて殺してやったんだ。だけど、利用価値があると思って魂だけ手元に残してたってわけ。今は魂を復元して体を与えてやってるんだけど…要はこいつは僕が"犠牲を払って"手に入れた…いわば大事なコマなんだ。」


「犠牲ね…ククク」



アヌビスがそう告げる前で、クロノスはクスクスと笑っている。


それに気づいたアヌビスは再び舌を打った。



「笑えばいいさ…くそっ!思い出しただけでも忌々しい!ロキの奴め…」


「では、その者を使って我が妹の仲間に報復する…そういうことでしょうか?」


「そうだよ!こいつはこの世界で最強と謳われる竜種なのさ。君も聞いたことくらいはあるだろ?こいつをぶつけたら、奴らもひとたまりもないだろうね。その時が待ち遠しいよ!」



アヌビスは不機嫌に腕を組んで前へと向き直る。

それを見て、今度はクロノスが口を開いた。



「要するに君の妹は彼らを誘き寄せる餌ってことだよ。君らは妹を取り返せたし、その追手も勝手に始末されるんだ。まさにWIN-WINってやつだね。」


「彼らが?エレナを助けにですか…あれだけ力の差を見せつけましたが…」


「甘いねぇ〜!そんなことじゃ、彼らはめげないよ。十中八九、このノルデンに乗り込んでくるさ。」


「そう…ですか…」



一人笑うクロノスとは対照的に、どこか怪訝な表情を浮かべるアルス。



(せっかくエレナのために殺さないでおいたんだが…神がそれを望むなら仕方ないか。まぁ、僕が直接手をかけるわけじゃないし…エレナも悲しいだろうけどそこは僕がサポートを…)



アルスがそんなことを考えていると、クリスが静かに口を開く。



「では、とりあえず今後について整理しておきますかな。」



その言葉に一同はうなずくのであった。

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