6:砂嵐 3

「アイラさん! 戻ってくれてよかったわ。砂嵐が来るわよ」

 駆け寄ったアイラを班の先頭にいたワルダートが出迎えた。傍らには二人の従者、マルヤムとザナバクが控えている。アイラは挨拶もそこそこに、ギュンツのラクダに手を振った。

「あれが砂嵐か、初めて見るぜ。なあ、アレはでかい方なのか?」

 ラクダの上からアイラを振り返った顔を見て、

「君ね、初めて見る自然現象ならもう少し身構えたらどうなのさ」

 アイラは気が抜けてため息をついた。

 好奇心に満ちた目がキラキラしている。それはもう、一瞬青空が戻ったかと錯覚するほどまぶしく。

 そういえばこの子、嵐の海を眺めて楽しむ趣味の人間だったかと、思い出してアイラは顔を渋くした。

「笑ってる場合じゃないよ。見た感じだと、アレは通り過ぎるのに三時間はかかる大物だ。フードかぶって、襟巻えりまきは持ってる? 砂を吸わないように――何さ、その顔?」

「いや……」

 ギュンツは鞍の取っ手に指を組んだ。

「なんか、調子戻ったな……?」

「え!? そ、そんなことないよ?」

 怪訝そうにじろじろ見られ、アイラはあたふたと、無意味にマントをばたつかせた。

 言われてみればその通り、口もきくまいという頑なさから一転、突然指図を始めたら、誰だって疑問に思うだろう。砂嵐の襲来で頭が埋まり、ついさっきまでの自分の振る舞いがすっぽり抜け落ちていたようだ。

 というか、こうして時間を置いて考えると、自分の態度は頑な過ぎたような。

 決めたことを貫くために話を聞くことも拒むのは、子供っぽさなのかも、なんて。

 風の音が強まるにつれ、視界がどんどん暗くなる。ああもう、考えている場合じゃない。アイラはラクダから下りたギュンツの耳に口を寄せた。

「話は、砂嵐のあとで」

「……本当だろうな?」

 クス、と笑うその口元が、砂に覆われ見えなくなった。


 ゴオオオオ、と渦巻く風のうなり。

 オレンジ色の闇となって視界をさえぎる砂の幕。


 その闇の中、人やラクダのぼんやりした暗い影が揺らめいて歩き始めたので、アイラは慌ててラクダの手綱をつかんだ。

「進むのか?」

「分からない。こんな視界じゃ道を見失いやすいし、普通は風が弱まるまで待つものだけど」

 しかし、立ち止まっていては置いて行かれてしまう。

「ワルダートさんに聞いてみよう」

 班の責任者に確認するのが早いと、アイラはラクダの手綱とギュンツの袖を両手に、頬を叩く砂塵を掻き分けて足を進めた。迷子防止で袖をつかまれたギュンツは、空いた片手でフードを押さえながら見回した。

「霧に呑まれたみたいだな。霧にしちゃうるさいし肌に痛い。確かに嵐って方がぴったりだ」

 ラクダの群れとラクダ使いたちの間を抜け、班の先頭に辿り着く。

 先頭には隊商長と従者たちの三人がいるものと思っていたが、見える影はふたつだけだった。不在はザナバクだ、と分かったのは、ザナバクが他の二人より背が高いからだ。背格好の似た残りの二人は、どちらがどちらか見分けがつかない。それくらい、視界のはっきりした範囲が狭い。

 アイラは仕方なく、ふたつの影両方に聞こえるよう声をかけた。

「何かしら、アイラさん」

 奥にいた方の影が答えた。もう片方の影、マルヤムも、声こそ出さないが首をこちらに向ける。

「立ち止まって、砂嵐が去るのを待つべきだと思うんですが」

「そうしたいところだけど、前を行く班が進み始めてしまって。今止まったら、分断されてしまうわ」

 隊商は先駆け班と本隊とに分かれているが、本隊の中にもいくつかの班がある。と言っても班と班の間にはラクダ一頭分の距離もなく、ひとつながりになっている。

 普段ならば。

 先行の班はいまやワルダート班を置き去りに進み、その姿は遠くにうっすら見えるだけだ。何を急いでいるのか、距離は開いていく一方だった。

「こういうときは止まるようにと指示しておいたのだけど。なんにせよ、砂嵐の中で隊商がバラバラになるのは避けたいわ」

 ワルダートが声を険しくしたとき、

「ワルダート様、ご報告が!」

 後ろから、誰かが追いすがってきた。ザナバクだ。

「後続班がついてきていません。我々のスピードが速すぎて……」

「大変だわ。先行班につられて急ぎすぎたわね」

「それどころか、我が班の護衛の姿も見えなくなっています。どこへ行ったのか」

 アイラも周囲を見回した。ラクダに乗って班を取り囲んでいた三人の護衛は、いつの間にかその姿も気配も、砂嵐の中に消えてしまっていた。

 何かがおかしい。嫌な予感がアイラの胸に渦巻く。

「護衛がいないですって!?」

 しかし突然上がった甲高い声に驚いて、アイラは言おうとした言葉を引っ込めた。

 姿は見えないが、中年の女性の声だ。隊商に雇われたラクダ使いたちの一人だろう。ワルダート班にはラクダが七頭、その世話をするラクダ使いが五人いる。ずんずん進み出た影は、酷く動揺しているようで、頭に巻いたベールを掻きむしっていた。

「こ、これ以上進んだってますますはぐれるだけなんじゃないの? 前の班だって、もう見えなくなるわ。置いて行かれちゃうわ!」

「ルムス、落ち着きなさい。あなたが怯えたらラクダまで怯えるわ」

 ワルダートが厳しく言うと、ラクダ使いのリーダーが慌てたように出てきて、ルムスをなだめつつワルダートに頭を下げた。しかし言い争う声、というより、ルムスが一方的にわめく声は収まりそうにない。

「まずいわ」

 ワルダートが低くつぶやいた。ルムスにすがられて足を止めたせいで、先行班の姿が完全に見えなくなっていた。

 ルムスはそのことに気づいたか、そして自分のせいだと分かったのか。わめき声をハッと飲み込んだ。

「……で、でも、このまま進んでいたってどうせはぐれていたわ、そうじゃありません?」

 言いつくろう声は震えている。

 かと思えば、次の瞬間には不自然なほど明るくなる。

「そうだ、砂嵐が来る直前、左手に大きな岩が見えたわ! そこに隠れてやり過ごしましょう!」

「ルムス、待ちなさい!」

「え、ちょっと!」

 アイラは声を上げた。しかし影をつかまえようと伸ばした手はむなしく砂塵をつかむ。一瞬のうちにルムスはワルダートの横をすり抜け、砂嵐の中へ飛び込んでいった。

「なっ――」

「嵐の翌朝船から消えてるのは、ああいう奴だ」

 あまりの事態に声も出ないアイラの代わりにギュンツがつぶやいたが、不吉なことを言っている場合じゃない。

 あれだけ混乱した人間が、大岩とやらが本当にあったとして、どう辿り着くつもりなのか。腕を伸ばしたら自分の指先もかすむような空間で? 方向感覚もなく進み続ければ、砂嵐が晴れたあと、一人砂漠をさまようことになる。行く末は炎天下で干物だ。

「ワルダートさん!」

 班の責任者を振り返りながら、アイラの胸に不安がよぎった。ワルダートはルムスを見捨てるかもしれない。他のメンバーの命を守る責任と、一人を追って砂嵐の中に飛び込むリスクを思えば、そうしたって責められない。

 しかしそれは杞憂だった。ワルダートは迷う素振りも見せずに言った。

「追いましょう。たった一人だろうが見殺しにはできない。本隊から離れるなら複数人で固まっていた方が、まだやりようがあるわ」

 いくつもの返事がそれに応え、ラクダ使いのリーダーが、仲間と協力してラクダの向きを変えさせる。前後の班から分断されていることをかえって良いことに、九人と七頭は隊列を抜け出した。


          ***


(大丈夫、まだ見失わない……)

 そうつぶやくのは何度目だろうか。

 ルムスの姿は砂の中、紛れてはまた現れる。呼びかけたところで声は風にさらわれてしまう。一行は亡霊のような背中を追って、ひたすら無言で砂を踏みしめていた。

(亡霊、というより、精霊か。砂嵐を突っ切って走るなら、砂漠の精霊ジンの方が似合う)

 事態は緊張しているのに、黙って足を動かすしかできない単調さが、思考を明後日の方へ連れていく。

 頭の中にまで砂が入ったように周囲の音が遠ざかり、代わりに懐かしい声が頭に響いた。

 母の声だ。

 一族が盗賊に殺される前、母がたき火を囲んで語ってくれた昔話を、アイラは思い出していた。

 か細い視覚を頼りに友達の背を追う話——あれは砂嵐ではなく、月のない闇夜が舞台だったか。

『その娘は、夜明けに一緒に出掛けようって、友達と約束していたの。その夜、窓の下から声をかけられて、さあ出かけようと言われたから、マントを羽織って外へ出たの。しかし友達は夜闇の中、先へ先へと行ってしまう。見え隠れする背中を追っているうちに娘は気づく――夜明けはまだまだ先だってことに。そして目の前にいるのが、恐ろしい夜の種族だってことに』

『逃げなきゃ、と思う間もなくその子が振り向けた――異形の、鬼の顔を』


 ぞわり。


 うなじの毛が逆立ったのは、怪談話のせいではない。

「ギュンツ、伏せてっ!」

「う!?」

 真横から押し寄せる冷たい気配を避け、アイラはギュンツを抱えて一緒に砂上に転がった。ギュンツは文句を言いかけたが、すぐに口を閉じた。

 金属同士のぶつかる重い響きを聞いて。

「敵襲だ!」

 突如現れた影が、槍を振り下ろしてきたのだ。とっさに引き抜いた剣で弾いたアイラは、第二撃に備えて素早く立ち上がった。

 見上げれば巨大な影がひとつ、目の前に立ちはだかっている。人間ではあり得ない身長だが怪談話のお化けではない。ラクダに乗っているのだ。砂の幕がその姿をおおっていたが、顔を知る必要もないほどに、じわりとした殺気がアイラの上に降り注いでいた。

「ギュンツは後ろに隠れてて。すぐに済ませるから!」

 剣を構えたアイラのマントが、風に大きく巻き上がった。

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