5:熱砂病 3
「な、なぜその者がここにいる!?」
ザナバクは左手に乗せた茶器の盆を落としかけ、慌てて右手で支え直した。当然入り口の垂れ幕からは手を離すことになり、重力に従って落ちた垂れ幕は広い背中に当たってふち飾りを揺らした。
あたふたする同僚を呆れた目で見やり、マルヤムがコホンと咳払いする。
「ワルダート様のご指示で二人を招いているのだ」
「二人?」
言われて初めて、アイラの向こう側に寝ているギュンツに気づいたらしい。いぶかしそうな視線がギュンツとアイラとを行き来する。
「いいのか? ……刺客でないとは言い切れんだろう」
「ザナバク」
マルヤムは鋭く同僚をにらみ、声をひそめた。
「客人の前で疑うようなことを言うな。ワルダート様の品位を下げたいか」
(刺客?)
物騒な単語に、アイラはワルダートとの当初のやり取りを思い返した。
盗賊は砂漠に尽きないとはいえ、水を求める旅人に交渉もさせないなんて、アイラの経験からするとおかしなことだ。警戒していたのは、盗賊だけではないのかもしれない。
それでもマルヤムは、主人がアイラを客人と決めたからにはその判断に従うらしい。納得行かずにいるザナバクに、目をすがめ厳しい顔を見せる。
「ワルダート様の恩人は我らが恩人。おまえ、私の知らぬところで、客人をにらみつけたりしとらんだろうな」
「そっ、そんなことはないが……」
いや、にらまれたんだけどな。
というアイラの視線を察してか、ザナバクが目を泳がせる。目の下に咲き誇る花の描画に似合わぬ情けない表情には、思わず気の毒な気持ちがわく。
そういえば、と思い出して、アイラはザナバクに向き直った。
「あの……さっきはありがとうございました。ギュンツを運んでくれて」
穴の中に寝ているギュンツを運び出したのはザナバクだ。アイラとハジャルが天幕を建てている間の出来事だった。意識のない人間は想像以上に重いし、穴から引き上げるとなればさらに腕力がいるはずだが、ザナバクはそれを軽々やってのけた。
そのあとすぐ隊商を呼びに行ってしまったので、礼を言い損ねていたのだが。
ザナバクは話が変わったことにホッとして、縮こめていた体を反らして胸を張った。
「お、おう。軽すぎるほど軽い少年だったし、容易いことだ」
「ザナバク、客人には敬語だ」
強引に話を変えてしまえば、マルヤムはそれ以上問い詰めなかった。尋問から解放されて、ザナバクはアイラに一気に好感を持ったらしい。つい先ほどまで牙をむいていたのに今では尻尾を振る勢いで、水タバコを用意する片手間に話しかけてくる。アイラは何も尋ねないうちに、この隊商がヒルブナからマラク市街へ向かっていること、真珠を仕入れた帰りだということ、その他色々な情報を耳に入れていた。
「我々が立ち寄った時期には、海は穏やかでしたよ。もう少し季節が進めば荒れがちになるのでしょうが」
「海岸まで行ったんですか?」
「ええ。ヒルブナは港町ですから」
「海、かあ」
アイラはため息をついた。
ギュンツと旅をするうちに分かったことがある。調子が乗るとうるさいくらいおしゃべりになること。そのくせ自分自身についてはあまり話さないこと。代わりに話題に上るのが、海のことだ。
「ギュンツがよく話すんですよね。嵐の明けた朝には船員が二、三人減ってるとか、怪物魚のこととか、遭難船の人食い伝説とか」
「どうしてそんな話ばかり……?」
ザナバクがタバコの葉をほぐす手を止め、眉をひそめた。
不気味な話ばかりなのはアイラを怖がらせようという魂胆だろう。それでも語り口は懐かしそうで、話す表情は楽しそうで、アイラにとって砂漠であるものがギュンツにとっては海なのだと、言われなくても感覚で理解できていた。
『ヴルムがさ、あぁ兄……みたいなもんなんだけど』
オターレド城で野営した一晩、ギュンツは珍しく口が軽かった。兄弟がいると話したのはこのときが初めてだ。
『あいつ怖がりで、嵐の夜は一晩中船内にこもるんだ。オレと妹が
『そりゃあ気に入らないだろうね。嵐の晩に弟と妹が海に落ちかねない場所にいるんじゃね。なんで出ようと思うのさ』
『だって、船上で溺れそうなくらい雨が降るんだぜ? 見に行きたくもなるだろ。ドナウなんて、一回ホントに溺れたんだ』
助かったのかどうか聞きそびれたな、とアイラは会話を思い出してひっそり冷や汗を流す。
血のつながりはないらしいが、年の近い子供が周りにいないアイラには、友達のような家族のような関係が少しうらやましい。
「でも今は海には近寄らない方がいいですよ。怪物魚より恐ろしい奴の噂を耳にしました」
ザナバクが言うので、アイラは回想から立ち返った。マルヤムが眉をひそめて同僚を見る。
「グレッチマンの船を見かけたとかいう話か? ただの噂だろう」
「グレッチマン?」
「セレナ人の海賊です」
首をかしげるアイラに、マルヤムが肩をすくめて答えた。噂話は好まないらしく、目の端に呆れが浮かんでいる。
「悪逆非道で聞く男ですが、目撃談が本当なら、幽霊船ということになる。もう何年も前に死んだはずですから」
「えっそうなのか」
知らなかったのか、ザナバクが目をぱちくりさせる。
「船だけじゃなく、本人を見たという住民もいたが」
「本人だと? おまえの頭でも少し考えれば分かるだろう。ヒルブナの港町の住民がどうしてセレナの海賊を見て分かる」
「茶髪に青目だというだろう。ファルナで見かけることはまれだ」
アイラはぎくりとして、ギュンツをちらりと振り返った。
赤茶の髪に薄青の目は、その条件に十分当てはまる。しかしファルナでは珍しくとも、セレナ人にはよくある見た目だ。それこそ何千人といる。
「それにかなりの大男で、珍しい刺青があると聞くぞ」
なんだ、おかしな勘違いだった。ギュンツは大男とはとても言えない。
「その刺青を見た者がいたのか?」
「そうだ。奴の船の名と同じ――」
そのときだ。
「人の頭の横で、不快な話をしてんじゃねえよ」
かすれた声が雑談を止めた。
眠っていたはずの少年が、斜めに身を起こしていた。口元は薄く微笑んでいるが、目には不機嫌がにじんでいる。
「グレッチマンの野郎がどうしたって?」
ギュンツが目を覚ました。
***
寝ぼけてたんだ、とギュンツは言った。
だから何言ったか覚えてないと。
寝ぼけていたのは本当だろうが、記憶にないというのは怪しい。追及されたくなくて、ごまかしているような気がする。
グレッチマンを『野郎』と呼んだ。まるで、憎い敵みたいに。
「それで、今はその隊商の奴らに世話になってるってわけか」
尋ねられて、アイラは考えを中断した。
涼しい場所で休んだことで、ギュンツは顔色をよくしていた。態度もすっかりいつも通りだ。悠々とクッションに肘をつき、陶器の椀から水を飲み、他人の天幕だというのにまるで王様のようにくつろぐ。
ザナバクとマルヤムは主人の元へ行ってしまったので、天幕の中にはギュンツと二人だけだ。一人かしこまっているのも馬鹿らしいが、天幕が見ている気がして足を崩せない。生まれつきの性分のせいだとあきらめて、アイラは背筋を伸ばしたままギュンツに向き直っていた。
「私たちはクジに向かってたけど、隊商が目指すのはマラク市街だって。かかる距離は変わらないし、一緒に行くってことでいいよね」
「水を補給したいだけだから、どこだろうと構わねえけどよ、隊商と足並みそろえる必要はねえだろ」
夕刻が迫った砂漠は、気温が下がり始める直前の独特の熱気に包まれている。夕食の煮炊きをする声やたき火の音でにわかに活気づく外の様子を見やり、ギュンツは続ける。
「大人数で動くんじゃ足が鈍る。じきに日が暮れるし、それから出れば涼しいうちに距離を稼げるだろ」
「ダメだよ。ギュンツは今、体に熱がたまってる状態なんだ。気温が下がったからって油断できない」
「多少の無理は手段のうちだ」
「君はそんなやり方だから――」
倒れるんだ、と言いかけて、アイラは口をつぐんだ。
「……焦る気持ちは分かるけどね。一晩休めば動けるようになるからさ」
「……? やけに静かだな? またうるさく説教されると思ったのによ」
茶化すように言うギュンツは、アイラがいつものように怒って言い返すと思っていたのだろう。
小声のつぶやきで返すアイラに、怪訝そうな目を向けた。
「君に説教する資格なんて、私にはないよ」
無言で問う視線を避けるように、アイラはうつむいた。
頭の中ではワルダートの言葉が渦を巻いている。
「……どうした?」
甘ったれている、と。自覚がないと。
ギュンツが眠っている間、アイラは、その言葉を何度も考えていた。
「君に、話しておきたいことがあるの」
意を決して口を開く。
「私は、本当はまだ、一人で仕事ができるほどの者じゃなくて……〈戦士団〉で修業を積むべき未熟者なんだ。一日銀貨十枚だなんてマルジャーンさんの買いかぶり。それなのに仕事を引き受けたから、こうして君が倒れるハメになった。これ以上、君に迷惑を掛けたくない」
「……それで?」
「マラク市街に着いたら、剣技があって旅慣れてる、別の案内人を紹介する。それで私は――」
アイラはマントの裾を強く握りしめ、震える声をしぼり出した。
「この依頼から、手を引くよ」
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