第29話 燻製
燻製の作り方はとてもシンプルだ。
下味をつけて、煙でいぶす、これだけ。
そしてシンプルなだけにどんな下味をつけるか、どんな煙でいぶすかによって大きく味と完成度が変わるものでもある。
下味をつける際はソミュール液という液に漬け込むのが一般的だ。
塩分濃度をしっかり計算して水に塩を溶かし、砂糖などで味を整え、ハーブなどを入れて煮込んだ液に、肉を数日漬け込み、その後に塩抜きをし、水分を飛ばし……煙でいぶすという感じだ。
正確なことを言うと砂糖や塩だけのものをソミュール液、そこに香辛料やハーブを足したものをピックル液と言うらしいのだけど……初心者用の燻製解説本とかでは燻製に使う液は全てソミュール液ということにされていて……一般的にもなんかそんな感じになってしまっている。
そういう訳で細かい事を気にしない性分の俺もそんな感じで燻製用の液をソミュール液と呼ぶことにしていたりする。
……で、そのソミュール液をどんな味にするか、どんなハーブを入れるか、どのくらい漬け込むのか、どのくらい塩抜きをするかなどは、千差万別……肉に合わせて好みに合わせて、そのまま食べるのか料理に使うのかなどなど、数え切れない程のパターンが存在していて……味も完成度も、それぞれ違ったものになる訳だ。
今回は自分が楽しみたいという目的よりも、テチさんに食べさせたいという……テチさんに少しでも保存食に興味を持って欲しいという目的があるので、味に関してはテチさん好みにするべきだろう。
そうすると何よりも気をつけるべきは……ハーブだろうなぁ。
ハーブは肉の臭みを消してくれたり、肉を長持ちさせてくれたり、柔らかくしてくれたり、その成分が健康に良かったりと、色々と良いことがある調味料なのだが……その香りは独特で香草というくらいには強いもので、使い方を間違うと肉や料理が『ハーブ臭く』なってしまうという欠点もある。
噛む度、口に運ぶ度、強い匂いが広がって、それがどうにも鼻についてしまって、料理を楽しめない、肉の美味しさを楽しめないと、そうなってしまったらもう完全に失敗だ。
自分にとっては良い匂いであっても、相手にとっては臭く感じる匂いということもままあることで……ここら辺は特に気をつけるべきことだろう。
燻製では最後にサクラの木やリンゴの木などを使って作った、とっても良い香りのするチップでいぶす関係で、肉の臭みが取れてくれるという利点があり、あえてハーブを使わないというのもありとされている。
変に強いハーブの匂いがついてしまうよりかは、チップの匂いだけの方が良いという訳だ。
そういう訳でテチさんにハーブの好みを聞いてみた所、帰ってきた答えは……、
『よく分からん』
というものだった。
ならばといくつかのハーブを持っていって、匂いをかいでもらったのだが……どのハーブでもテチさんは良い顔をしなかった。
ローリエとかローズマリーとか、主張が強いハーブは特に良い顔をせず……あまりハーブはお好みではないらしい。
『ハーブティーとかは兄さんの店でたまに飲むが嫌いではないぞ、レモングラスとか良いよな』
と、そんなことを言っていたので、市販のハーブティーやレモングラスでソミュール液を作ってみてもよかったのだが……そこら辺を使っての燻製肉作りの経験が無い俺は、今回はあえて冒険をせず、一切ハーブを使わない燻製肉作りを決断するのだった。
「へー、ミクラにーちゃんは燻製肉作りもしたことあるのか?」
翌々日の早朝、仕事に行く前に燻製肉作りをしようと準備をしていると、その気配を感じ取ったらしいコン君がテテテッと駆けてきて……台所の流し台にいつもの椅子を置いて、そこに腰掛けながらそんなことを言ってくる。
「うん、何度かね。
といっても、そこまで凝ったものじゃなくて、普通の家にあるコンロで出来るような、簡単なものだけどね」
コン君にそう返しながら俺は……とりあえず下味つけに使う品々を台所に並べていく。
「え、に、にーちゃん。なんでそれを用意したんだ? 今日は燻製を作るんだろ? 漬物じゃないんだろ?」
するとコン君がそう言ってきて……俺はコン君にニカッと笑顔を返す。
コン君がそんなことを言ってしまうのも仕方のないことだった。
何しろ俺が……冷蔵庫から取り出したイノシシ肉と、調理用のジッパー付きパックに続いて、スーパーなどで売っていいてTVCMでもよく見かける漬物用の『浅漬に使う素』なんてものを用意したのだから。
「ふっふっふ、確かにこれは漬物用の素なんだけど……これが驚く程に燻製肉作りにぴったりなんだよ。
ソミュール液に必要な塩分濃度とほぼ同じで、塩以外にも色々入っていて丁度良い味に整えられていて……ものによっては美味しいお出汁までが入っている。
今回用意したのは昆布だし入りの奴で……これが一つあれば面倒なソミュール液作りをしなくても良いのさ」
計算をした上で慎重に計量をする必要もなく、塩分が多すぎるかも少なすぎるかもといった心配をする必要もなく……ハーブを使いたいならこれにハーブを追加するだけで良い。
まるで燻製のために用意されたようなおあつらえ向きの一品……浅漬けに使う素。
これを調理用ビニールパックになみなみ注いで、肉を沈めたら出来るだけ空気を脱いて口を閉めて……冷蔵庫に放り込んだら、はい終わり。
後は5日程漬け込んで、流水に5~8時間つけての塩抜きをして、水分を綺麗に拭き取り、乾燥させたら、燻製にするという感じだ。
失敗したく無い時、時間が無い時、ソミュール液のことを調べてもよく分からない時は、とりあえずこれを使うのが一番楽で良い結果になるはずだ
浅漬けに使う素にはかつおだしや昆布だしなど色々あるけれど……個人的には昆布だしが一番美味しくなるなと思っている。
「うわ、簡単だなー。
……でもこの後煙でぶわーってやるんだろ? それって面倒くさいっていうか、大変なんじゃないか?」
俺の作業を見守っていたコン君が尻尾を揺らしながら首を傾げながらそう言って来て……俺はもう一つの肉塊を浅漬けに使う元の中に沈めながら言葉を返す。
「んー、それに関しては道具次第かな。
ダンボール箱を改造してやっちゃう人もいるし、そんな感じのキットがホームセンターとかで安く売っていたりもするし、お高めだけど簡単な燻製用の家電なんかも売っているし……どれを買ってどれを使うかによって難易度は大きく変わるね。
今回俺が使うのはこれ、
そう言って俺は、足元に置いておいた土鍋のようなものを指し示す。
見た目としてはまんま土鍋のそれの中には網を置くことが出来て、その下にはチップを敷くための場所が作ってあって……チップを敷いた後に網を置いて、その上に肉を置いたらコンロで火にかけて……煙が出てきたら蓋をして、後は火力を調整しておけば燻製が出来上がるという便利なアイテムだ。
「まぁ、今日はとりあえず洗って使えるようにしておくだけだけどね。
漬け込みも何日かかかるし……燻製用お肉の漬け込みが終わったら、残りのお肉をどうするかも考えないとなー。
燻製で結構減ってくれるけど、まだまだ多いっていうか、いくらか食べにくい部分も残っちゃったからなぁ。
……いっそのこともう、食べにくいのを覚悟で塩焼きにでもしちゃおうかな?」
なんてことを続けて言うと……コン君は塩焼きのお肉の味を想像したのだろう「じゅるり」と口の中で音を立てる。
美味しい部位はもうほとんど食べてしまって、残るは硬かったり臭かったりする部位なのだけど……まぁ、それでもコン君が食べたいというのなら、食べさせてあげるのも良い経験かもなと、一通りの作業を終えた俺は手を洗いながらそんなことを思うのだった。
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