第65話
エミールは部屋から踏み出して、ヨロヨロと歩く。
衝動的に部屋を出たが、どこへ向かえばいいのかわからない。ルイーゼがアルヴィオスへ連れて行かれるということは、馬車か馬。それなら、エントランス前にある馬車の乗り付け場か、東側の厩舎に行けばいいのかな。
えっと、どっちだったっけ。王宮は広くて、一人で歩くと迷子になってしまう。
一応、王子なのに情けないと思いながら、エミールは必死で目的地を目指した。もう部屋に引き籠っているばかりではないと自惚れていたが、一人ではマトモに王宮すら歩けないことに気づく。
このままじゃ、ダメなのに。
――わたくしの前世の名はクロード・オーバン。あなたが怖くて怖くて仕方がなかった――あなたのお母様を殺めた首狩り騎士なのですわ。
まさか、ルイーゼからあんな怖い言葉が出るなんて、思ってもいなかった。
確かに、ルイーゼは普通の令嬢ではない。
勝手にエミールの
最初は悪魔みたいな令嬢が教育係になったと思った。
でも、ルイーゼは一度もエミールを見捨てなかった。エミールがどんなに怖がって動けなくなっても、絶対に匙を投げなかった。
やり方に不満はあったけど、ルイーゼがいたから、なんでも出来るような気がした。
首狩り騎士は怖い。セザールに聞いても、エミールが聞きたかったことは答えてもらえなかった。
だから、聞きたい。
ルイーゼに聞いてみたい。
そのためには、ルイーゼに会わなくちゃ。
「殿下、ここにいたの!?」
迷子になっていたエミールを見つけて、ユーグが声を上げる。振り返ると、血相を欠いた様子で走ってきていた。
「ユーグ……!」
お願い、ルイーゼのところに連れて行って!
そう言おうにも、口が渇いて上手く声が出ない。ちょっと焦りすぎたみたいだ。足がもつれて、ユーグの腕に飛び込む形で倒れてしまった。
「あ、あ、あああのね!」
ユーグが必死に伝えようと縋るエミールを受け止めてくれる。
「わかってるわよ」
まだなにも言っていないのに、ユーグは心得たとばかりに片目を瞑ってウインクした。
「姐さんたち、もう馬で出ちゃったわよ。馬車じゃ追いつくのに時間がかかっちゃう」
「ええっ!?」
エミールは馬になんて乗れない。
アルヴィオス行きの船に乗ってしまったら、ルイーゼが帰ってくるまで会えなくなってしまう。
どうしよう。エミールは蒼い顔で震えた。
しかし、そんなエミールの肩にユーグは分厚い外套を被せる。
「ミーディアに聞いたわ。早く支度して行きましょ。荷物は少なめにしてくれるかしら?」
「え」
よく見たら、ユーグはいつもの紅い制服を着ていない。深緑と茶の地味な装いだ。これから、旅にでも出そうな格好だった。
「船に乗る前に、姐さんを連れて帰りましょ」
「え、でも……」
尻込みするエミールの背を、誰かが押した。驚いていると、ヴァネッサが得意げに笑っていた。彼女は自分のチョコレート色の髪が隠れるように、ブルネットのカツラを被ってみせる。
「殿下、ここは私にお任せください! あ。べ、別にシャリエの令嬢のためではございませんわよッ。ユーグ様と殿下のために、引き受けるのですからね!」
ヴァネッサが少し照れながらも、ドンッと胸を張った。なんだか、とても頼もしい。
「で、でも、ユーグに迷惑が……」
「大丈夫よ。この機に、休暇申請出しておいたから! ……父上に絞められそうだけど。見つからないうちに出ちゃえば、問題ないわ」
「そ、それって、全然大丈夫じゃないよね!?」
「殿下が気にすることじゃないわ」
戸惑うエミールに対して、ユーグはサラリと言って笑う。彼は自然な流れで片膝をつくと、深く頭を垂れた。なんだか、恥ずかしい。
「このユーグ・ド・カゾーラン。殿下の専属騎士です。あなたが命じれば、なんでも致しましょう」
改まって言われて、エミールは冷や汗をかいた。
ユーグがエミールの「命令」を待っているのだと気づいて、拳を握る。
思えば、エミールはユーグに「頼む」ことはたくさんあった。でも、「命令」だと思って発言したことは、一度もない。
エミールはスゥッと息を吸い込む。なんだか、緊張した。顔が熱くなって、頭に血が昇っていく。
でも、言葉は思いのほか淀みなく紡がれた。
「ごめん、ユーグ。帰ったら、僕も父上と伯爵に謝るよ……だから……僕をルイーゼのところに連れて行って!」
ユーグが顔を上げ、綺麗な顔に微笑を描く。
「承知しました、殿下」
† † † † † † †
一方、シャリエ公爵邸では、大変な騒ぎになっていた。
「お父様、お母様。しばらく、旅行に出ますわ。お土産、楽しみにしていてくださいませ――だとぉぉぉおお!? わしの可愛い愛娘が、何故、急に旅行など……!」
決闘中に倒れて王宮に運び込まれただけでも心配だったというのに、そのまま急に旅行など、ありえない。しかも、運び込まれたと知らされても、シャリエ公爵は面会すら許可されなかった。
なにかがおかしい。
絶対に、なにかある。公爵は娘からの手紙をグシャグシャに握り潰してしまった。
「ふふ、旅行するなら事前に言ってくれれば、おこづかいをあげたのに。ルイーゼったら、気分屋なのだから」
妻のシャリエ夫人が趣味の刺繍をしながら笑う。
だが、その台詞がいけなかったのか。シャリエ公爵は急に不安に苛まれた。
「ハッ! まさか……!? 監禁!?」
あのロリコン国王は、まだルイーゼを諦めていなかったというのか。それで、適当な理由をつけて、娘を誘拐して監禁を……なんて変態だ! けしからん!
「あら、やだ。旅行なら、行き先がわからないと、お土産を頼めませんわね。ルイーゼったら、こういうところは抜けていますわよね。誰に似たのかしら」
シャリエ夫人が、のんきな声を上げている。
だが、その台詞がいけなかったのか。シャリエ公爵は更なる不安に苛まれた。
「ハッ! もしかして、誘拐!?」
ジャンの話では、最近、アルヴィオスの王子につき纏われていたらしい。まさかと思うが、ルイーゼがあまりにも可愛すぎて誘拐を……なんて変態だ! けしからん!
「ふふ。きっと、恋ですわね」
妄想に忙しそうな公爵を面倒に感じたのか、適当なことを言いながら夫人は窓の外を見る。
だが、その台詞がいけなかったのか。シャリエ公爵は新たな不安に苛まれた。
「ハッ! まさかまさか、駆け落ち!?」
決闘の原因は男関係のトラブルだと、ジャンが言っていたような……よもや、その中の誰かと……けしからん。なんて変態だ! けしからんぞ!?
「そういえば、さっきカゾーラン伯爵のご子息が、誰かを連れて王都を出たと近衛騎士観賞同好会の皆さまが騒いでおりましたわぁ」
「なぬっ!? というか、いつそんな者たちと話していたのだ? ずっと、屋敷にいたのではないか?」
「ふふふ、きっと恋ですわ」
シャリエ夫人は説明を面倒くさがって、適当に受け流しはじめる。
貴婦人の情報網、恐るべし。王都で
「いいや、そんなことはどうだっていいのだぁっぁぁああ! おのれ、わしの可愛いルイーゼと駆け落ちなぞ、許せるぁぁぁぁああ!」
壁の絵画を引っぺがして、公爵が暴れはじめる。
「わしも行くぞぉっ! わしのルイーゼを取り返すッ!」
「あら、それはいけませんわ」
公爵がついに旅支度をしようとした段階になって、ようやく、夫人が刺繍をやめる。
夫人は目の前を通り過ぎる公爵の足を引っ掛けて転ばせると、その背にドカッと座り込んだ。
「流石に当主がいなくなるのは、困るのですわ」
だいたいのことを適当に見過ごす夫人でも、一応の常識と線引きがあった。貴族の当主が易々と屋敷を空けられては、困るのだ。
「どかぬかぁ! でも、これはこれで娘の愛と同じくらい良いものだなっ!」
「あら、やだ。まるで、わたくしとルイーゼがそっくりみたいな言い方ですわ」
いつの間にか用意されていた縄でグルグルの簀巻きのように縛られてしまい、公爵は身動きが取れなくなる。
部屋の隅に立っていたジャンが「よろしゅうございます、奥さま! ジャンにも、是非!」と叫んでいた。普段は空気なので、存在を忘れるところであった。
「ぐっ……ならば、代わりを……アロイス! アロイスを呼べー!」
公爵は苦肉の策として別の人物の名を叫んだ。
しばらくすると、使用人に連れられて、シャリエ公爵の長男アロイス・エルネスト・ド・シャリエが姿を現す。
娘のルイーゼにそっくりの蜂蜜色の髪と、白くて整った顔を持ったシャリエ家の跡取りである。公爵自慢の息子だった。
「どうしました。父上、簀巻きになって!」
「そんなことは、どうでもいい。アロイス! お前がルイーゼの駆け落ちを止めてくれ!」
簀巻きの芋虫状態のまま、公爵は息子に訴えた。
アロイスの表情が変わる。
端正な顔立ちがみるみるうちに豹変し、形の良い唇が悪鬼のように歪んだ。背景には黒いオーラが見える気がする。ルイーゼの殺気には敵わないが、近い雰囲気を感じさせた。
「ルイーゼが……駆け落ち? 僕の可愛い妹が……駆け落ちだと? いったい、どこのクソ野郎だ!?」
「カゾーラン伯爵の子息だ! さっき、馬で王都を出たらしい!」
「はあ!? ルイーゼ、僕という兄がいるのに、どうして、もっとマトモな男を捕まえなかったんだ! わかりました、父上。必ずや、この僕が不届き者の首を獲って参ります!」
「頼んだぞ!」
「おのれ……僕のルイーゼを誑かす下衆が。四肢を寸断した上で、その頭、地面に擦りつけて少しずつ削ってやる」
穏やかではない会話をする夫と息子を眺めて、シャリエ夫人は「あら、別に決まったわけではございませんのに。だいたい、駆け落ちの意味がなくてよ」と、のんきに笑う。だが、そんな補足など、誰も聞いていない。
「坊ちゃま、是非、ジャンもお連れください! このジャン、お嬢さまのイヌ! 必ずや、探し当ててみせましょう!」
あまり喋っていなかったジャンがシャキーンとした表情で前に出る。アロイスは燃えるような闘志を滾らせたまま、「では、頼む」と頷いた。
アルヴィオスを目指すギルバートとルイーゼ、護衛のセザール。
ルイーゼを連れ戻そうとするエミールとユーグ。
ユーグとルイーゼが駆け落ちしたと思い込んでいるアロイスとジャン。
こうして、この三組がそれぞれ王都を出発したのだった。
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